第7話 一人から二人へ

文字数 2,352文字

 おちひからの手紙を読んだまる蔵は、記載されていた連絡先に即座にEメールなるものを送ったらしい。その内容を要約すると、
 「あなたの気持ちには応えられない。今まで想い続けてくれてどうもありがとう。」
というものだった。つまりは拒絶である。この「反射的な拒絶」には、この男の臆病さがよく表れているとわたくしは思う。何年も話もしていない女から突然の告白。狼狽した小心者のまる蔵は、詐欺か宗教の勧誘か、とにかく「怪しい何か」だろうと当てをつけたのだ。この男の本質であるところの、人を信用できない「神経症患者」の顔が表出したというものだ。実に情けない。
 
 それから数日のうちに、まる蔵は例えようのない感情にさいなまれることになる。おちひのことが頭から離れなくなったのだ。ひいては自分がした「反射的な拒絶」に対し、判然としない疑問も抱くようになった。日に日に、「なぜ?」という気持ちが増してくる。野菜を収穫していても、音楽を聴いていても、毎日起床してから寝床に就くまで、「なぜ?」「なぜ?」と自問自答していたという。結局、答えは導き出せないまま季節は巡り、東北の秋が終わりに近づいていった。
 そもそも小学時代から、まる蔵は自分に対するおちひの好意に気づいていたらしい。そして自身も、実は、彼女に対して好意を抱いていたのだという。ただ、だからといってどうこうするわけではなく、反対に、あまり関心がないふうを装っていたのである。まあ、この年ごろの人間男子からすれば、ごく普通な反応であろうか。この男にも初々しい時代があったということだ。
 
 百姓の真似ごとのような日雇い労働の契約期間が終了し、東北の朝の空気がすっかり冬のそれに入れ替わったある日。相変わらず晴れぬ気持ちを抱えたままのまる蔵は、一通の手紙を書いた。おちひに宛ててである。
 「会って直接話をしなければならない。そうしなければ、一生後悔する。」
という結論に達しての行動だったというが、聞いてわたくしは苦笑した。一度は拒絶しておきながらも、己の心と決着をつけたいがために他人を巻き込むなど、なんとも勝手ではないか!一度拒絶されたおちひの心を何と思っておるのか?やはりこの男には、わたくしの若干太めの「かぎしっぽ」による一撃を与えねばならんようだ。なんなら伝家の宝刀「隠し剣 猫の爪」を見舞ってやってもよいくらいである。

 手紙を投函してからのおちひは、まる蔵からのEメールによる返事がくるまではやはり、心落ち着かなく過ごしていたという。返事が来るのかどうかも分からぬ。そもそも相手のもとにきちんと届くのかも分からなかった。しかしながら、今まで秘めてきた自分の素直な気持ちを手紙にしたためることにより、おちひの中ではある程度満足ができた。自分の気持ちに一つの区切りをつけることができたように思えたという。

 数日後に受けたまる蔵からの返答に、おちひはすんなり納得した。返事が来た、あの男が今も元気に生きているということが分かっただけでも、十分うれしかったのだ。しかし、涙は止まらなかった。それから二日間、ピアノも食事も、何もかも、おちひは放棄した。部屋の窓を開ける気力もなく、起き上がることすら億劫な、そんな感じだったという。それだけまる蔵という人間の存在が、おちひの中では大きかったのだ。かつて深く関わったことも触れ合ったこともないのに、である。なぜそれほどまであの男を想うのか。理屈ではない「何か」があるようだ。実に不可解である。まあ、わたくしからすればまる蔵など、単なる「デクノボー」にしか思えないのだが、そのときのおちひの涙を想像すると、わたくしものんきに飯など食っていられない心持ちになるのだ。

 横浜の朝に晩秋の空気が漂う頃。ピアノ講師を辞め、沈んだ心もどうにかこうにか持ち直し、書店のアルバイトで生計を立てていたおちひは、まる蔵からの手紙を受け取った。ここで不思議な話がある。おちひは、手紙が来る幾日か前から、
 「あの人からお手紙が来ないかな?いや、きっと来るんじゃないかな?」
という、「未来予知」ともいえる感覚を覚えていたらしい。そんなところに実際に手紙が届いたわけで、おちひは大変驚いたという。やはりこの二人の間には理屈ではない「何か」がある。残念ながら、わたくしも認めざるを得ないようだ。
 まる蔵からの手紙には、
 「よく考えもしないで、あなたの気持ちを踏みにじってしまって、申し訳なかった。一度会って話をしたいが、あなたはまだ受け入れてくれるだろうか?受け入れてくれるなら、連絡してほしい。」
というようなことがツラツラと記してあったという。おちひは何度もそれを読み返した。思いがけない急な展開に動揺し、過呼吸になりながら、であったという。
 
 おちひは、まる蔵の思いを受け入れた。手紙に書かれていた電話番号を押しながら、おちひは、永らく忘れていた「心からの笑顔」を取り戻していた。
 
 ほどなくして二人は、晩秋の横浜で再会を果たしたのだった。

 そもそもまる蔵は「人間不信者」である。しかし、久しぶりに会い、自分のことを洗いざらい話し、わずかな時間を共有しただけで、自分の目の前にいるこの女性だけは、「信じていい人」だと確信することができたという。理由は分からぬ、自らの「心」が判断したのだ、と本人はいうが、なんとも「きざな」言い回しではないか。わたくしはまた苦笑してしまった。あの男の心ほど当てにならないものはないと思うのだが、まあよかろう。

 横浜での再会後、二人は恋仲となった。

 年が明けて立春も過ぎた頃、横浜での再会から数えて三度目に会ったとき、まる蔵は迷わず、おちひに求婚した。おちひも受け入れた。ここに、二人は共に生きていくことを決めたのである。





 
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み