第3話 ブンシのこと

文字数 1,321文字

 見ず知らずの農村に越してきた男は、名を「まる蔵」という。少々珍妙な名であるが、わたくしが付けたものだ。ともに越してきた女がその男をしばしば「まる、まる」と呼んでいるのを耳にしたため、便宜上、こう呼ぶことにした。
 このまる蔵という男、かつて蹴球をしていたこともあってか、ほどよく上背があり、締まった身体つきをしておる。ツラがまえについては、あるとき女が家で「時代劇顔ですから」云々と話しているのを濡れ縁の下で聞き、わたくしは思わず「ポムッ」と膝を叩いた。言い得て妙、とはこのことである。あのツラを見てそういわれれば、少なく見積もっても百人に九十七人は納得のため息を漏らすことになろう。洋服ではなく和服、レンガの洋館ではなく茅葺き古民家、スコーンと紅茶ではなく饅頭と緑茶が似合う男である。
 生まれは山脈を隔てた向こう、江戸時代に西回り航路の要所として「西の堺」とともに大いに栄えた、ある港町である。二つ上の兄と六つ下の弟とに挟まれて育った。これといった病気もなく、もりもり食い、野山を走り回り、兄弟げんかをし、両親祖父母と叔母の愛を全身に浴びて大人になったという。兄の影響で幼少期から蹴球に打ち込んだ結果、膝と腰を悪くし、三十路の今ではすっかりしぼんでしまったようだ。

 この男の内面を形成する重要なファクター。それは、真ん中っ子に生まれた宿命と、実家の門前に見ず知らずの人間が子猫を捨てていくという、哀しく忌まわしい現実に幼少期から触れてきたこととにあると、わたくしは睨んでいる。結果、いつのまにかすっかりセンシティブにできあがってしまったのであった。小学校あたりまでは周りを笑わせられるひょうきんな男児であったが、声が変わって思春期を迎えた頃から変質していったという。いま対面している人間が必ず隠し持っている汚い性質や本心を探ろうとし、つねに相手の笑顔の裏を疑うという、いわば「神経症患者」となった。
 その神経症のまま進んだ大学では、何の役にも立たぬ国文学士の号を得た。同学科の学生たちが図書館やら教員やらの免状を取るべくして努めていた時間、まる蔵は独りで人間不信を決め込み、本を読んでは不眠症と軽度の鬱に自ら飛び込みつつ、漫然と過ごしていたのである。この高等遊民よろしくの暮らしぶりにより、他大学他学部に進んだ賢明な友人から「文士(ブンシ)」なるあだ名を頂戴したのであった。この集落に越してきた際に持ち込んだ七つの紙箱の中には、すなわち、学生時代に古本屋で手に入れた文庫本が詰め込まれていたのである。

 ただ、この男には救いがあり、類人猿以外の生き物が好きであった。実家では「コロ」という白くて耳が茶色の雑種犬とともに暮らし、人間の勝手で野良に身を落とした猫たちにも、烏や雀にも、等しく優しかった。そしてその愛情は、わたくしに対する態度からも容易に察せられたのである。わたくしを「あかねこ」と呼び、隙あらば手を触れようとする。屋敷の窓の傍らに立ち、風流を気取って家の中から庭を眺めているかと思えば、さにあらず。実はわたくしの姿を探して挙動不審になっているといった具合であった。そんなまる蔵のことを、どうしてかわたくしは、少々好きでいるのだ。
 
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