第8話 新しい暮らしの始まり

文字数 2,039文字

 二人で生きていくにあたり、まずはその拠点をどこに定めるかを考えた。選択肢は三つであった。一つ目は、おちひが暮らす横浜。二つ目は、二人の実家があり、まる蔵が暮らしている東北日本海側の港町。そして三つ目は、そのどちらでもない場所。
 二人が選んだのは三つ目の選択肢であった。つまり、ここに越してくる前に住んでいた百万都市である。その都市を選んだのは、二人一致して「一度暮らしてみたかったから」という、実に単純な理由からであった。
 その「伊達な大都市」には、まる蔵の暮らす町から自動車で三時間余りで行くことができる。ゆえに二人はそれぞれ幾度か旅をしたことがあり、おちひはピアノのコンクールに出るためにも訪れたことがあった。さらに、おちひの父君が大学時代を過ごした場所でもあり、多少の縁があるのだった。関東首都圏に暮らすよりは実家に近く(特におちひの実家には両親二人だけで暮らしているゆえ、少しでも近くにいたほうがよいだろうと考えていたため)、さらに、文化的・経済的にも恵まれているこの大都市は、二人にとって程よい条件がそろっていたのだ。

 新しい暮らしに向け、二人はそれぞれ準備に入った。といっても、急ぐことはしなかった。二人は、「それぞれが準備ができたら引っ越して、一緒に暮らそう」と、なんともおっとりした人生設計を描いていたらしい。実にこの二人らしい気構えであると思う。
 まる蔵はまず、転居に伴うもろもろの費用を捻出するために派遣社員として工場で働き始めた。実家暮らしであったため、相変わらず実家には金を入れていた。それでも八カ月で百万円(人間社会では大金であるらしい)の貯蓄を成した。
 ちょうどそんなとき、おちひは、引っ越し先の「伊達な大都市」において新たに職を得ることができた。全国展開する楽器店「スマムレ楽器」の「ピアノ・インストラクター」として採用され、商業施設内にある店舗の、大人向けピアノ教室を担当することになったのである。しかも、勤務開始は翌年の一月半ばからという、絶妙な待遇での契約がまとまったのだという。まだ猶予が三カ月ほどあるゆえ、もろもろの準備を整えるには十分余裕があった。
 離れた土地に暮らしながらの就職活動には大変に骨が折れたが、やはり、ピアノに関わって生きていきたいと強く願っていたという。そしてその願いを自らの努力で成就させたのであった。わたくしはこの話を聞き、おちひに対して一人、濡れ縁の下で立ち上がり、「ポムッポムッポムッ」と、感嘆と敬服の拍手を送り続けたのである。
 もちろんまる蔵も、このおちひの頑張りにはひどく感心していた。現実的な話として、居住する誰かの職が決まっていれば、不動産屋から住まいも借りられる。つまり、世の中から「信用」を得られるのだ。まもなくまる蔵は工場での仕事を辞し、新居探しに奔走した。「一軒家で、ピアノが置けて音が出せること」という絶対条件のもと、何軒もの家を下見し、ようやっと納得のいく物件を見つけ、契約にこぎつけたという。二人の準備はこれにて万事整った。

 暮れも迫った十二月二十七日。二人は、新たな場所で新たな暮らしを始めたのであった。

 二人で暮らすことを決めてのちはさしたる障害などなく、考えたより順調にことが進んでいったというのが、二人の実感であるらしい。それぞれの両親・親族一同も快く賛同してくれたほか、おちひの仕事も、住む家も手に入れることができた。特におちひの「ピアノや音楽に関わる仕事」というものは、なかなか見つかるものではない。それが、もちろん本人の努力の賜物なのではあるが、予想よりも早くに見つかり、しかも採用されるとは!この二人の後ろには、二人で生きていくということに対して助力をしてくれている、「目に見えない何か」――人間がいうところの守護霊の類か--がついているのではないかと、わたくしもガラにもなく思ってしまったのだった。

 年が明けて新生活にも慣れたころ、まる蔵は職探しを始めた。この男、昨年に工場勤務を辞してから数カ月、無職のままであった。転居に絡み慌ただしく過ごしていたが、やっと腰を据えて職探しができるようになったという。そもそもこの男は、おちひと違ってなんの才能も特技もない「デクノボー」である。それは本人も自覚していたらしい。よって、職業に関してこだわりはなく、「自分にできそうなこと」という基準で手当たりしだいに採用試験に臨んだのだった。
 結果、四件ほど受験し、小さな出版社の編集部に籍を置くことが決まった。活字が好きで、大学でも多少なりとも文章に関わる学科にいたこともあり、まる蔵にとっては適職であった。地元にいたら出版社などに勤めることはなかった。まる蔵も、さっそく「伊達な大都市」に住むことの恩恵に浴することができたようだ。

 季節が巡って初秋。二人はよりよい借家を見つけ、現在暮らしているこの土地に引っ越してきたのだった。わたくしとの付き合いはここから始まったのである。

 

 

 
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