第2話 わたくしのこと

文字数 1,404文字

 わたくしは、人間がいうところの茶トラ猫である。堂々たる体躯をした男児である。顔は横広で、腹の毛は白い。しっぽはある。先は曲がっておる。ゆえに、ある婆はわたくしを「まがり」と呼ぶ。この呼び名を気に入ってはいないが、飯のためには仕方がない、呼ばれれば返事くらいはしてやっている。そうえいば、わたくしが返事をする声を「きれいな声だ」といって褒めてくれた人間もあった。自分では何とも分からぬが、言うのは勝手だ。そういうことにしておいてもよいだろう。
 生まれは、その婆の家のほど近くであるが、いかんせん判然としない。いずれにせよ、海に近い農家集落の片すみが、わたくしの記憶の最初である。ともに産まれた連中がいたこともぼんやり覚えている。兄だか姉だか弟だか妹だかは分からぬが、母とともにみなで触れ合っているとき、それはとても柔らかで、優しく、温かかった。
 わたくしたち猫にとって、「親の親」などはもはや見知らぬ誰かと同じであり、人間と違って先祖のことなど気にも留めぬ。留めぬが、ウワサで聞き知ったところによると、わたくしのずいぶんさかのぼった血縁の親爺殿は、東京で「金之助」とかいう物書きの家に住んでいたらしい。どうでもよいことではあるが、わたくしにはどうやら少し、東京の血が混じっているいるらしいのだ。決して自慢ではない。決して。

 ここでの暮らし向きは、いわゆる野良暮らしであるため気楽ではない。流れ猫やタヌキのたぐい、小蛇にキジといった、わたくしの心にさざ波を立てる連中には事欠かないのであるから。ただ、一帯が田園集落であるゆえ、納屋やなにやら雨風をしのげる寝床には困らぬ。飯は、わたくしを「まがり」呼ばわりする件の婆の家を含め、あわせて三軒の家からそのときどきに出る。カリカリとした粒のものや、乳白色で少々しっとりとしつつパサついた不思議なもの――「おから」とかいうものらしい――と、それぞれの家人はそれぞれ気ままにわたくしに食わせている。よってこちらも気ままに、食ったり食わなかったりしている。そもそもわたくしは食い物について一家言あるわけでもない。腹が膨れればそれでよいのである。

 飯を出す三軒のうちの一軒が、心地よい風の吹くあの秋の日に引っ越してきた、三十路近くの男と女が住む家である。越してきたさい、男は重そうな紙箱――中には書物が入っていたらしい――を七つ、そして女は、わたくしがそれまで見たこともない、大きな大きな黒くて平たいもの――のちにそれがピアノというものだと知った――を、それぞれ持ち込んだ。わたくしが稲刈りの終わった田んぼに突っ伏して様子をうかがっているとも知らずに、である。
 このたび、この夫婦についてわたくしが見聞きしたことを書き留めておく。なぜそんなことを書くのか?それは、書く必要があるからである。わたくしの周りの土着の人間たち――すなわち、わたくしを「まがり」と呼ぶ婆のたぐい――は、良い意味で、取るに足らない単純明快な人間たちである。ところがこの夫婦からは、それらの人間とは明らかに異なる匂いがする。その言動には興味深い点が数多く見受けられる。つまりは、とてもよい観察材料であるのだ。世のため猫のため、わたくしは書かねばならん。わたくしのこの仕事が、人間どもと近い場所で生きることを余儀なくされた読者諸兄にとってしるべの一つともなれば、それはわたくしにとって望外の喜びである。
 
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