第4話 ピアノ弾きのこと 

文字数 1,659文字

 わたくしが今まで見たこともない大きな黒い平たいものの所有者である女は、名を「おちひ」という。これはまる蔵が女を「ちひ、ちひ」と呼んでいることに由来する、わたくしなりの呼び名である。
 おちひが持ち込んだ黒い平たいものはピアノというもので、音楽を奏するために使うものらしい。ずいぶんと仰々しい風体のものだが、それは同じピアノの中でもひときわ大きいグランドピアノとかいうものらしく、越してきた際も男二人を伴ってどうにか搬入していたのをわたくしは目撃している。
 おちひは母君がピアノ教師であったために、自らが四つになる時分からピアノに触れて生きてきたという。自我が形成される以前から、いわゆる「英才教育」というやつを施されてきたのである。よって、自然と「絶対音感」なるものを身につけ、譜面など見ずとも、耳にした曲はピアノで再現できるようになった。わたくしからすれば、これは驚異の能力としか思えぬ。しかし当の本人はいたって平気なもので、「ただ長いことやってきたから」、という理屈でもってすましている。進学した音楽大学ではもちろんピアノを専攻して学士となったのち、ヤハバ楽器――この国において音楽教育の業界を牛耳る楽器屋である――の講師として、横須賀の子供の音楽教育にしばらく従事したという。

 そもそもおちひの生まれは、東京である。といっても根っからの東京人ではない。父君は青森・津軽の出であり、母君は横浜の人間である。父君が、いわゆる転勤族であった。東京赴任中に母君と出会い、結ばれ、兄一人とおちひがこの世に生を授かったのだ。その後は山口の田舎にしばらく住んだ。温暖で自然豊かな環境の中において、おちひはのびのびと、明るく活発な健康優良児として育った。
 そうして小学中学年になったとき、父君の最後の赴任地として、まる蔵の暮らす東北のまちへ一家で引っ越してきたのであった。このときに同級生として、まる蔵とおちひは出会っている。同時にこのあたりから、おちひの自我に変化が現れるようになったらしい。
 何より、同級であるところの東北の子供の性質に驚かされた。毎日がお祭りのごとくの「山陽っ子」であったおちひからすると、彼ら彼女らは、「静か」すぎたのである。言ってしまえば、「暗い」子供としておちひの目には映った。授業中は教師の話をおとなしく聞き、全校集会中も校長の演説にじっと耳を傾け体育座りを崩さぬ。それは土着のまる蔵からすれば当たり前のことであったが、おちひからすれば少々奇怪で、不気味に見えたという。しだいにその驚きは「ぼんやりとした不安」となり、目立つことに対してある種の恐怖を知覚するようになった。結果としてそれは、己を抑え、周りの顔色をうかがう性質をおちひの精神に植え付けた。元来の明るさ・活発さが鳴りを潜めていったのは、すなわちこの頃である。
 とはいっても、わたくしに対するおちひの姿には、暗い影は何一つとして見当たらない。わたくしを見かければいつも「あかたん」と柔らかな声で呼び、やさしいながらも、人間と同じ一つの平等な命として、敬意をもって接してくれる。しまいには、市販の猫飯(例のカリカリとした粒のもの)はわたくしの体に悪いといい、卵を焼いたのや軽く煮た鶏肉などの手料理を振舞ってくれるようになったほどである。まる蔵のように隙あらばわたくしに触れようとはしないので、おちひといるとき、わたくしの心持は常に穏やかなのであった。
 聞いたところによると、かつて実家に暮らしていた時分には鳥を飼い、庭に迷い込んできた猫にはこっそり煮干し魚を分け与え、それぞれの命を慈しんできたという。小学校の教室において同級生の悪太郎が、みなで世話をしていたインコだか文鳥だかを、大声を出して驚かせていい気になっているのを目にした際、周囲が驚くほどの怒りでもってその罪深い小太り男子を叱りつけ、半ベソをかくまで舌鋒鋭く叩きのめしたこともあったという。
 心やさしく、命の平等さを重んじるおちひのことを、わたくしは自然と好きになったのである。
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