翠ジンソーダ

文字数 1,666文字

 
 山際にもようやっと桜が綻び、辺りに花の香りが漂いだした頃、背島(せなしま)がふらりと日浦(ひうら)家へ顔を出した。
 その彼女の手には珍しく、大きめのバスケット。
 桜の時期には野暮だけど折角だから、と散る桜花の浮き織を施したモノトーンの(あわせ)を少しだけ丈を短く着付けて、柔らかな生成(きな)り色をしたレースの被布(ひふ)を合わせている。足元は華奢なヒールのレトロなデザインのパンプスに、蝶をあしらった上品な薄手の靴下。
 花見をしようか、とにんまり笑った彼女は、返事も待たずに縁側へ手荷物を置いた。
 日浦家から遠く望める山裾には樹齢数百年の(しだ)れ桜が咲いており、いつもの縁側に腰掛ければ、けぶるように咲き誇るさまが見える。諦めたように膝をついた日浦の傍らには、バスケットから取り出された諸々が。
「チヨが食べ物持参で来るのは珍しいな?」
「失礼な。ユラから貰った春菊が美味しかったから、分けてやろうと持ってきたのに」
 時間としては昼の少し前のこと。並べられたのは様々なサンドイッチで、その中に目に鮮やかな緑色がある。
 摘んだばかりの柔らかな葉をさっと湯通しして、シーチキンと醤油にマヨネーズ。新玉ねぎの粗みじんを和えたものを挟んだのだそうだ。春菊の爽やかな香りと苦味が、とても美味しかったらしい。
 その横に置かれたのはジンソーダの缶。
「おまけに、こういう酒持ってくるのも珍しいな?」
「そう? 買わないわけじゃないんだけどな。ちょっとだけ飲みたい時は便利じゃないか」
 サンドイッチが和素材多いから合うと思って、と取り出したウェットティッシュで指先を丁寧に拭う。それに倣って手を清めると、どうぞ、と示された軽食から、春菊のサンドイッチを取り上げた。
 いただきます、と一口齧れば、春菊の爽やかな香りが口中に広がる。しゃくしゃくと甘い新玉ねぎに、シーチキンの旨味も、マヨネーズのまろやかさも、それらを引き立てるような醤油の香りも見事に調和しているようだ。美味いな、と呟けば、果たして背島は得意げに口角を引き上げる。
「だろう? ユラの春菊は柔らかくていい香りなんだ。おひたしにして食べたら、本当に美味しくて」
 くふくふ笑う彼女の手元で開けられた酒の缶から、ふんわりと柚子が香る。ちらりと視線を向けると、よく見えるようにとこちらへ向かって掲げられた。
「マリお薦めのジンより、安価のやつだな。香りがいいから、トニックウォーターでなくてソーダ割りしてくれって公式で言ってるやつなんだが、最初から割ったのも売り出して」
 さっぱりしてるから食事酒に丁度いい、と軽く呷る。手にしたサンドイッチを平らげた日浦も置かれた缶へ手を伸ばし、タブを開けると口をつけた。
 ふんわりと香るのは柚子。さっぱりと口中を洗い流した後味に、ピリリと僅かに辛さが残る。生姜? と小首を傾げると、背島は「正解」と頷いた。
「柚子と緑茶と生姜だそうだ。これはさっぱりしているんだが、最近マリから貰ったキヨスジンというのが、なかなか強烈に香るやつで。あっちも美味しかった。柚子じゃなくて、蜜柑だったけど」
 楽しげに言葉を重ねるさまに、変わったな、と朧に思う。
 いつだって制作に打ち込むばかりで、自分の生活全般、特に食事は二の次だった彼女は、当然のように酒も嗜まなかった。詰まらないと友人たちが詰ってもどこ吹く風だったのに。初めて口をつけたのは、こちらに引っ越してきてから。酒なぞ飲んだことがないと言う彼女に、いくつか見繕ってきて勧めたのは、確か小日向(こひなた)だった。
 気に入ってくれたら嬉しいし、楽しく飲み食いできたらいいよな。
 そんなふうに真っ直ぐ歓迎を示されて、それなら試しに、と素直に口をつけた。彼女がきちんと食事を取ることを気をつけるようになったのは、それからだ。
「おまえも飲むようになったな」
「まぁ、ヒロとマリに付き合っていればな?」
 相槌を打って、だし巻き玉子のサンドイッチを手にした背島は、ふと表情を緩める。
「それに、君とこうして過ごすのも楽しい」
 そうかい、と投げ出すように呟いて、日浦は酒を煽るとため息を落としたのだ。

〈了〉
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