眠れる黒猫

文字数 2,521文字

 背島(せなしま)蝶子(ちょうこ)とは、腐れ縁である。
 小学校、中学校と家の事情で祖父宅に住んでいた日浦(ひうら)だったが、流石に高校は遠方に行かざるを得なかった。祖父の跡を継ぐためにも、美大には入っておきたかったのだ。その前段階に適した高校が、近場になかったのである。
 そうして入学した高校に、彼女はいたのだった。初めは一方的なライバル心を隠しもしなかった彼女は、日浦が経師屋(きょうじや)を目指していることを知って驚愕、盛大に才能を惜しんだ末、ふと気づいたように手を打ったのだ。
「ちょっと待てよ? 君が、その才能を経師屋として活かすのだとしたら……。私の絵を飾る最大の武器を手に入れたにも等しいじゃないか!」
 一切の脚色なしに彼女が言い放った一言を記してみれば、なかなか酷いことを平気で吐いているが、そこは目を瞑ろう。
 彼女はそのまま己の道を驀進(ばくしん)し、そして何故か、日浦を追ってこの片田舎に引っ越した。
 曰く、ここで君を逃してなるものか、とのことだったが、だからといって家一件買ってしまうのは如何なものだろうか。一応、背島家としては彼女専用のアトリエ扱いらしいが。
「やぁ、カナ」
 なので、こうして唐突に家までやってくるのも、既に慣れた光景と化している。
「何の用だ、チヨ」
「お言葉だな。今日は、君みたいな名前の酒をお得意様から戴いたから、一緒に語らおうと思って来たのに」
 彼女の見た目は一種独特だ。絹糸のように素直な髪は鴉の濡れ羽色で、色の白い瓜実(うりざね)顔を際立たせている。身に纏うのはアンティークの着物。または、お眼鏡に適った現代キモノ。それが嫌みなく似合っているし、尾野に言わせれば、拝みたくなるようなキモノ姫らしい。今日も鮮やかな薔薇を描いた銘仙の襟元に暖かそうなティペットをつけて、足許はワンストラップのおでこ靴を履いている。
 流石に高校時代は大人しく制服を着ていたが、そういえば美大時代も着物姿だった。ただし、当人曰く「汚れてもいい安物の木綿」らしいが。
「昼間ッからいい御身分だな」
「なに。序でに、仕事の依頼だ」
「そっちが本題じゃないのか」
「つれないなぁ、親友」
 嘘くせぇ、と嫌そうに顔をしかめると、彼女は気にしたふうもなくけらけら笑う。諦めて招き入れれば慣れた様子で上がり込んで、いつもの縁側へ陣取った。
 仕事の話というのも本当だったようで、酒を戴いたお得意様とやらから、そろそろ描き上がる絵の表装を承ったようだ。彼女は若年でありながら、描いた作品を自らが認めた経師屋にしか託さないのだと、真しやかに囁かれている。実際、日浦は彼女が他の経師屋へ託したという話を、寡聞にして知らないが。
 絵の下絵と配色計画を見せられ、あれこれ意見を戦わせる。唐紙に刷り込む模様と色を幾つか絞り込んで、試し刷りを後日持参することを決めてしまうと、彼女は待ってましたとばかりににんまり笑った。
「さぁさぁ、お楽しみの時間としようじゃないか」
「いいけど、何持ってきたんだ?」
 どうぞ納めてくれ、と差し出されたのは、ボール紙の色そのままの、簡素な紙箱だった。小さめでずんぐりした見た目だが、一応四合瓶らしい。その表面に墨一色で飾り罫が引かれて、眠れる黒猫と印刷されている。その上に伏せた猫のシルエットが描かれているのが、なんとも愛嬌のある風情である。
「へぇ、熟成麦焼酎か。何食いたい?」
「ピーマン!」
 即座に返された一言に、あれな、と応じて立ち上がる。
「割物は?」
「そこのお湯でいいよ」
 そう指したのは、居間の片隅の長火鉢だ。炭火が熾されたそこには、桜柄の鉄瓶が据えられている。これから寒くなるに従って、大活躍するはずだ。主に、友人たちのために。
 はいよ、とひらひら手を振って台所へ向かうと、手早くピーマンを刻んで炒めてやる。彼女お気に入りの一品ではあるが、縦に細切りしたピーマンを適当に塩昆布で炒めてやるだけのお手軽惣菜だ。
 適当に皿に盛ったそれと、箸二膳を小盆へ乗せる。知った仲ではあるし、お互い適当なので、直接箸で摘む予定。持ち手のついた耐熱グラスを追加で乗せて戻ると、果たして彼女は無邪気に歓声をあげた。
 箱から焼酎を出してやると、ラベルも小洒落た風情だ。曇硝子の瓶には、淡く色のついた焼酎が満たされている。封を切ってグラスへ適当に注ぐと、まるで洋酒のような華やかな香りが漂った。
「おぉ、いい香りだな。ロックでもいけそう」
「お湯を入れたら、更に豊かに香りそうだね」
 ほくほくしながら鉄瓶を取り、ゆったりと注いでゆく。ふわりと広がる香りに口角を持ち上げて、彼女はうきうきと手を擦りあわせた。
「さて、いただきます」
 早速箸を手に取り、ピーマンを摘んで口へ放り込む。満足そうにふくふくと頬を緩めるさまに、日浦は呆れたような眼差しを向けた。
「そんなに好きなら、自分で作れよ。それ、塩昆布で炒めただけだぞ」
「え。それだけ? こんなに美味しいのに?」
「昆布が出汁だろ。それが塩漬けになってるんだから、他に調味料いらないよな。梅昆布茶あるならそれでもいいし。ごま油使っても悪くない」
 まさかそんな、と唖然とピーマンの塩昆布炒めを見下ろして、その表情のままもう一口摘むと、幸せそうに頬を緩める。
「よし、毎日食べよう」
「流石にそれは飽きないか」
 半眼を向けながら焼酎に口をつけると、華やかな香りがふわふわと漂う。強い酒精と仄かな甘味に、自然と口角が緩んだ。
「美味いな、これ」
「お気に召したようで良かった」
 ふふふ、と愉しげに笑いながら、彼女も焼酎をこくりと飲みくだす。幸せそうににまにま笑う横顔を見遣りながら、日浦はふと首を傾げた。
「それで? これの、何処が俺なんだ」
 うん? と目を瞬かせて、彼女はにんまりと笑う。
「興味のないことにはとことん淡白で授業中だろうが平気で寝転けてて、そのくせ一度懐に入れたら面倒そうにしてもきちんと構ってくれるだろう」
 猫そのものじゃないか、と可笑しげに言われて、日浦は不本意そうに口角を下げた。

〈了〉
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