第5話 第4章

文字数 16,680文字

第四章

 時の流れは速い。もともとよくN相手に「もう高校生!」「もう二十歳!」などと人生の節目節目に愚痴っぽく、時の過ぎ去る憂さを嘆いていた僕だが、あの閏日以降、もはや時は急流を流れ落ちるように過ぎていった。僕は極めて忙しくはあるものの、概ね十年を一日の如く生き、つき合う者もほとんどが職場の関係者という有り様であった。Nやたあちゃんたちに会うのは冠婚葬祭くらいで、二度と会うことのなかった者もいた。これ以降、主だった折々のことのみ簡潔に記したいと願う。(思えば、初めて『N君のこと』を書こうとした時の思惑では、もうこのあたりのことは完全にタイムアウトである。だからこれ以降のことはいわばおまけである)
 二年目の新学期早々、また、たあちゃんのニュースが届いた。とうとう大学を中退したということである。同棲はもう随分前に解消しており、その後実家に戻り、この四月から車のディーラーに勤め始めたらしい。ある日パチンコ屋で顔を合わすと、「(仕事を)止めたい、止めたい!」と言う。「何を、まだ勤め始めて一ヶ月・・・」と思いながらも、こちらも仕事については全くの同感であるので、思いっきり苦虫を噛み潰した顔でもって、たあちゃんに同感の意思表示をした。僕はそのことを口にするのさえ億劫(おっくう)だったのである。

 Nが日本を出てしばらく経ったころ、満君が亡くなったとの訃報が届いた。なんにも知らなかった。僕は大いに取り乱す。Nがいないことがそれに拍車をかけた。斎場で、僕らはお兄さんから死ぬ間際の満君の苦しみようを知らされた。たあちゃんが泣いた。正巳も久臣君も真っ青な顔をしていた。死因は進行性の肺癌で、急遽日本に帰国し、手術を受けたものの二週間でいけなくなったということであった。辞する時にNのことを懐かしく話され、今のようすを尋ねられたが、誰も答えることができなかった。
 久ちゃんに「乗っていき」と車に誘われたが、「用事がある」と断って丘に向かって歩いた。Nとよく「表現」について語り合ったあの丘である。山際の道を一人で歩きたかったのだ。このごろは晴れ間が多いのだが、今日は全天雲に覆われている。Nと一緒にここに来た時は、季節によらずいつもいい天気で、短く刈り込まれた芝に二人気持ちよく寝転んでいたのに・・・
 僕は悔やんでいた。あの時、プールの観覧席で満君の思いを尋ねなかったことをである。いつか聞けるだろうと高を括っていた。それが、満君が大学に入ってからは会うことさえなく、ついにこんなことになってしまった。ほかにも尋ねたいことはたくさんあった。何より僕は一言でいいから、満君に感謝の気持ちを伝えたかった。僕の進路についての満君の気遣いに対してお礼を言いたかった。池の堤に腰を下ろす。見える僕らの町に変わりはない。しかし、人の世は酷い。僕はNとは「別れ」、今また満君を失くした。「僕らの夢」は消え、ついに「僕ら」さえ虚しくなった。
 家に着くともう薄暗くなっていた。随分長く座り続けていたものだ。母がいつものように夕餉の支度をしてくれている。
「たあちゃんら、車で帰って来てたのに・・・」と言う。僕は、
「ちょっと、高校の時の友人と会ったものやから・・・」とごまかす。母は、「ふーん」と言って、満君のことや昔のことを、しみじみとした口調で話し始めた。僕はその一つ一つに相槌を打ちながら、だんだんと苦痛とか後悔とかいう気分が変わってきているのに気づいた。遠くで雷の音がした。
 夜が更けてきた。一人自分の部屋に(こも)る。夕刻からの雨の音がずっと続いている。僕にはもう分かっていた。自分の気持ちが諦めへと向かっていることを。心が冷たく冷たく沈んでゆく。過去がその意味がどんどん消えてゆく。中学、高校、大学のこと、振り返りたくもない。

 二年間の放浪を終えて、Nが帰ってきた。随分遅れてそのニュースを聞いた時、最初に心に浮かんだのは、「ああやっとこれで、Nの母の愚痴を聞かずに済む」という安堵の思いであった。たまにNの母親の姿を見かけた時、僕はなんとか逃れる道はないかといつもあたりをキョロキョロ見回していたものだ。教員らしい僕のスーツ姿がどんな気持ちをNの母に抱かせるか、容易に想像できたからである。そしてどうにも逃げようがなくなった時、僕は顔をこわばらせつつも必死で笑みを見せ、Nの母の心配事の聞き役を全うしようとした。しかし、Nが危険な地域に入っているらしい時は大変で、ぼくは顔を見ることも辛く、ただ地面を見つめ早く時間が過ぎることだけを願っていた。
 そんな僕の気苦労と学校現場での苦痛などちっとも知らないであったろうNがやっと僕の目の前に顔を見せた。随分痩せて、顔色は浅黒く、目が鋭く光っている。帰ってしばらくは全く日本の生活に適応できず、自分も周りも必要以上に緊張していたと言う。ほとんど外出もしなかったらしい。そういえば身に(まと)う空気に少し険がある。僕もまたNの苦労を知ってはいなかったんだなと少し反省する。たあちゃんにもほかの誰にもまだ会っていないということで、僕としてはこんな時は盛大な帰国祝いの音頭を取るべきかなと思ったが、心に引っかかるものがあって口に出せない。満君のことだ。そこでとにかく、旅のことに話題を振る。が、Nの口は重く、たくさんの国を巡ったが、心に残っているのは、きつい政情不安の中にあった国・・・くらいのことしか言わない。      
 こちらも、少しでも昔の夢を果たせてよかったと思ったものの、細かなことまで聞く気はなかった。高校時代、あれだけ憧れた海外への旅は、今の僕らにとってはフランクには語れない、聞けないものになってしまったということか。(帰国後三十年以上も経って旅行記を上梓したらしいが、僕は読んでいない) 
 むしろこちらのことを聞きたいようすであったが、僕の方はそれこそ砂を噛むような職場の体験しか話すことがない。それでも、結構興味があるよう。そんな詮方ない話の中で、僕が仕事で疲れて帰り、寝るのがいつも十時前だと知ると、気を使って、「今日はこれで帰る、また来る」と言って、あっさりと帰って行った。満君の話は一言もなかった。帰国祝いの件も泡の如く消えてしまった。

 ジューンブライドを意識したのか、久臣君が六月に結婚式を挙げた。新郎新婦共二十六歳である。式は近くの由緒ある神社で執り行われ、披露宴には皆が呼ばれた。欝蒼(うっそう)たる神社の森の中の閑静な純日本風の会場で、久臣君の厚い心遣いにより僕らは実に久しぶりにお互いの近況などを話す機会を得た。今でも思い出す二つの話がある。一つは、酒が舌を滑らかにしたのか、正巳が、久臣君の結婚が「お見合い」であることに話を持っていったことだ。いや決して茶化すような気持で言ったのではない。当時正巳もたあちゃんも実質的には結婚しているようなものであったが、(たあちゃんはこの春同棲の解消を解消して、実家のそばのアパートに二人で住んでいた)そのころどちらかと言うと見合い結婚を避けたいと思う若者たちの風潮のなかで、(見合いはアナクロと言う者さえいた)我らが久臣君が「見合い結婚」を選択した気持ちを純粋に問うてみたいと思ったのだろう。僕は聞いていて嫌な気持ちはしなかった。それどころか、その問いに対する久臣君の答えを聞いて、僕は胸が熱くなった。皆も同じ気持ちであったろう。
 久臣君は余計なことは言わず、「お見合いは単なるきっかけであって、僕は、僕たちは、その後の愛をだんだんと育んでいくのが良い」と答えたのである。全く気負うところのない淡々としたもの言いで、僕は幼かったころからの久臣君の面目躍如たる堂々たる態度に瞠目(どうもく)した。隣にいたNも大いに感ずるところがあったようで、感極まったように赤い顔で二三度軽く頷くしぐさは実に印象的であった。
 もう一つは僕とNとの対話である。宴が終わり、新婚旅行に出る新郎新婦を送り出して、僕ら二人は久しぶりに神社の森を散策した。たあちゃんとにーちゃんは友人代表で空港まで見送る役目を仰せつかっていた。このあたりは高校生の時代から二人何度となく歩いたところで、あちらこちらに点在する大木や苔むした灯篭などの佇まいが昔のことをまるで昨日のように思い出させてくれる。しかし、僕らはほとんど喋らずにいる。粒の揃った玉砂利を踏む音だけが響く。二人には話すこと、話すべきことがたくさんあるはずなのに・・・Nが長旅から帰って来たばかりのころも思ったが、僕らは二人でいると、だんだんと失語症に陥っていくかのようである。
 神社の境内が尽きるところにある「H滝」の近くまで来た時、僕は「嫌なこと」を思い出した。大学三回生の夏、この滝でNが僕を投げ飛ばしたのである。あの日暗い顔をしていたNは、僕を、まるで柔道の浮き腰のようにして滝壺の水の中に投げ込み、そしてそのすぐあと、自分も水の中に飛び込んだ。当時の僕のことを「何事もうまくいっている」と思い、我慢できなかったのだろう――そんな僕の思いをスルーして、幸いなことにNは、滝へ降りる小径を取らずにまっすぐ進んだ。村外れの家が見えた。ところでもう、Nはあの境涯からは抜け切ったのだろうか。 まさか僕に対してまだ僻んでいるようなことはないであろう・・・
 そんなことを考えながら歩いていた僕だったが、ついに足にだるさを感じて、Nに「ベンチに座ろう」と声をかける。Nは、これくらいでもう疲れた?と少し驚いたような顔をする。でも、すぐにちょうどいいころ合いという感じで、「うん、せやな。座ろう」と言い、先にベンチの端に座った。何度も座ったことのある懐かしいベンチである。・・・「簡潔に記したい」と言っていたのに、随分前書きが長くなってしまった。さて、対話である。
 Nはこの時を待っていたのだろうか?今までとは打って変わって、昔のように積極的に話し始めた。まず最初は、旅のことであった。この前僕の家に来た時には、本当にあっさりした言い様で、僕は(すか)されたような気分になったものだが、やはりNも満君のことを話すのが辛いのだと察し、その日は引き止めるようなことは一切しなかった。・・・ところで今日はどうなのだろう。
 東欧の話を聞く。イスタンブールから列車を乗り継いでバルカン半島の国々を回ったらしい。イミグレーションを通るときに、あちこちで、「キャピタリスト!」と名指されるのが、嫌だったと言う。特に反感を持って言うのではないことは分かったが、それがかえっておもしろくなかったとのこと。
 それに、日本の民宿のような安宿に泊まる時も、ツーリストオフィス(民間のものではない)指定の一泊50ドル以上(今のレートと物価感だと20000円程)のホテルの時も、必ずと言っていいほど密かにトランクを開けられてしまったと言う。怒りでそのことを責めても、相手は、誰かが(自分で)、開けたのだろうと惚けて、「なくなったものは?」と尋ね、こちらが「ない」と言うと、「問題がないじゃないか」と冷たい目をするとか。Nも時々頭にきて、「黙って開けることが、問題なんだ!」と怒鳴り散らしたこともあったらしい。何より辛かったことは、民宿のおかみさんなどが、そのことを自ら意志してやっていたのではなく、担当の秘密警察のような官僚組織が指示していたことが明白であったことである。ポーランドのオシフィエンチム(アウシュヴィッツ)近くの、一家で経営されていた民宿では、気のいい亭主(いつも真っ黒なドーベルマン2頭と一緒にいた)とそのかわいい娘とNとの親密だった仲が、最後になって、ぎくしゃくしてしまった。今も、悔やんでも悔やみきれないと悔しそうに言った。
 マルクス主義について、ドストエフスキーと対比したりして考えてきたが、今回の東欧への旅で、新たな見方をするようになったと言う。強烈なアジアや気が抜けるような北欧の旅についても少し口を開いたが、おざなりな感じだったし、とにかく今は何と言っても東欧のことが心に引っかかっているようである。「東ベルリンの小さな駅で、米軍の迷彩シャツを引っ掛け、ジーンズをはいたお決まりの格好でたむろしていた『不良』青年たちの死んだ魚のような目。一人の娘がテーブルの上に靴を履いたままで腰を下ろし、絶望的な声を周りにぶちまけるものの、誰も反応しない恐ろしい静寂。ショパンの曲が幻聴となってはらわたに沁みこむ。」と聞いた時には、思わず身震いが出た。
 もともとNのマルクス主義への入り口自体は倫理的なことであったが、特に今回の旅で、いわゆる共産圏を旅した時に見聞きしたことがショックであったとのこと。人々が抑圧の霧の中に閉ざされている姿が堪らなく悲しかったらしい。何より、人は「真理」の手段ではないし、「一人の命は地球よりも重い」ということを腹に収めることが肝要だと僕に強調した。
 そもそも無限とか絶対とかに親近していたNは、高校生の時、新興宗教に凝って、その教理にプラトンの影を感じたと漏らした。しかし、大学での激しい学生運動の中で、教理に違和感を感じ、その宗教団体から離れることになる。そして卒論では、たまたま読み始めたドストエフスキーとマルクスを並列的に捉え立論したのだが、現在また新しい境地に足を踏み入れているのだろう。しっかりと語る顔を見ていると、かつてNが感じていたかも知れぬ「けなるさ」は僕の方にやってきたみたいだった。
 僕は、学校で、家で、真剣に考えなくてはならないことから、そうすることがあまりにしんどいが故に、逃げ回っていることを少し恥じる気持ちになった。現に昨日もクラスの生徒が、友達の文房具を盗んで、どうしてもそのことを白状しない。周りの生徒達は白い眼をして、その子を取り囲む。僕はどうすることもできず、ベテランの生徒指導主任を呼び、三人で別室に籠る。結果は何とか主任が生徒の心を開いて、数人のクラスメイトに謝るところまでいった。これが僕の現実なのだ。
 目を下に落とす。ベンチの下にわずかな苔の群生を見つける。これは杉苔か、姿は小さいが、形は本物の杉のように凛々しくみずみずしい。・・・確かに僕は恥ずかしい。しかしそう思いつつも、心の半面に、「N、今本当におまえはそのことを考えなければならないのか、考えて現実にはどうするのだ。それに、ほかにも考えるべきことがあるのではないか」・・・と苔を見つめつつ、どこか白々しい気持ちが湧いてくるのを止めることはできなかった。
 懐かしいベンチは同じなのに、座っている僕らは近くにいるのに、僕らの心は随分離れたところにあるようだ。いや、その言い方は違う。むしろ、「かつて同じものを見聞きしている、同じ思いに浸っていると共に感じていた二人は、既に幻となった。少なくとも一人においては――」
と言うべきか。二人の話はろうそくの火が消えるように終わってしまった。

 同じ年の秋、父の勧めにより結婚することになった。その直前の夏、偶然、阿倍野橋駅でNに出会う。そして、ミナミのバーへ誘われる。地下鉄なんば駅を出て、サラリーマンがうろつく路地に入り、古いビルの狭い階段を上る。頑丈そうなドアを引くと、薄暗い中、どこからか飛んでくる青い光に照らされ、高価な酒の瓶が並んでいるのが見えた。気だるいジャズが流れている。奥のソファーに案内される。やたらときれいな女の子がカウンターの中にいる。つい見とれていたら、Nが「あれは男や」と言う。何度も来ていて慣れているようだ。
 馴染みのない雰囲気と、初めて飲む美酒に酔って、ついNに、「たあちゃんやにーちゃんが羨ましい」と告白した。心の奥に埋み火のように燃えていた本音であった。告白の意味は、「たあちゃんやにーちゃんのように恋愛で結婚したい、見合いは嫌だ」ということである。ワインを随分飲んで真っ赤になったNは、この間の久臣君の言葉を説いて僕を慰めようとしたが、僕自身はそのような達観までは程遠かったようである。
 Nが帰国して以来のことを言っていなかった。唐突ではあるが、ここで簡単に記する。今年三月に帰国し、何とか出版社の大阪支社に中途採用でもぐりこんだ。(卒論は通って、卒業証書も送られてきていたそうである)仕事ぶりはとてもまじめとは言えず、気の合った同僚と毎晩のように、キタやミナミに繰り出しているようである。自分で言っていたが、やたら女との縁が生まれたようで、何となく荒んだ感じがしないでもない。「N=純」というこれまでのイメージは多少傷ついたようである。
 話を戻して・・・Nは僕が結婚に踏み切ったということ、そのこと自体に索然(さくぜん)たる思いを抱いていたようで、僕のことを気遣ってくれていることはよく分かるものの、僕としては更にこれ以上の本音を見せることはできなかった。何しろ結婚は決定事項なのである。既に、僕らのための新居も建てられつつあった。それでもそんな話の終わりに、「もう僕は諦めているよ」とほんとの気持ちを伝えると、Nは悲しそうな顔をして黙り込んだ。
 結婚式は大きなホテルで執り行った。相手の親が金満家であったし、僕の方も仕事仲間が気を利かせて生徒まで呼んだりしたので、披露宴は盛大なものとなった。勿論皆も来てくれたが、司会をしてくれたのが僕の勤務校の同僚であったので、あまり面白くなかったようである。(特に正巳が)

 次の年、久臣君に長男が誕生した。皆が集まりお祝いをした。ごく身近な親戚と気の置けない知人だけの集まりだったので、すぐに座が乱れ、あちらこちらでバラバラに話が盛り上がるという状況になった。僕はNとたあちゃんと三人でいた。いろんな話題がでたが、記すのは、Nとたあちゃんとの「ドストエフスキー談義」のことである。以前にたあちゃんがNの影響で本を読むようになったということ、それがドストエフスキーであったということを述べたが、今回の話は二人のドストエフスキーにおける最も好きなキャラクターについてであった。
 Nは『悪霊』のニコライ・スタヴローギン、たあちゃんは『カラマーゾフの兄弟』のドミートリイ・カラマーゾフ(ミーチャ)だと言う。僕は前にも述べたようにドストエフスキーは読まないが、Nより耳にタコができる程聞かされているので、登場人物の名前くらいは頭に入っている。
 正直、今日は本当に羨ましかった。何が?二人の贔屓(ひいき)の登場人物への傾倒ぶりがである。二人とも我を忘れ、周りを気にかけもせず、互いに異議を申し立てる。その熱気、その一途さ――初めてこの二人を見た者がいたら、二人は喧嘩でもしてるのかと思ったであろう。そしてなんとその上、話のテーマは、「文学」なのである。まるで文学少女の如く、そんな少女から見ればもうおっさんといってもいい二人が、夢中になって喋っているのだ。全く!――僕はつい禁を破って、「ちょっと読んでみようかしらん?」と思ってしまった。僕はNとたあちゃんが共有している「非日常的空間」に少し横恋慕したのだろう。なぜなら、僕の周りにはそのような空間がどこにもないから・・・一年前の久臣君の結婚式の日には、Nの話の「非日常性」に白々しささえ感じたというのに――
 ところで、この二人、ニコライとミーチャは、先述したように登場する物語が異なっている。しかし、『カラマーゾフの兄弟』においては、ニコライの双子の兄弟ともいえるイヴァン・カラマーゾフがいわばニコライの「代演」をしている。即ちイヴァンとミーチャが、えもいわれぬ愛憎(憎愛)関係を演じ、それは『カラマーゾフの兄弟』のテーマの一つとなっている。そしてそれがまた僕にとっては、Nとたあちゃんとの二重写しにも見えてくるのである。なかなか厄介な問題である、いい年をして。
 中身について語る資格はないのであるが、二人の話の要点だけ言っておくと、Nは、ニコライの持つ、まるでブラックホールのように周りの者をひしゃげさすそのニヒリズムの力に、たあちゃんは、ミーチャの圧倒的な野放図さの下にある純情にいかれてしまったということになる。実際たあちゃんが「ミーチャ」と言った時、僕はその声の持つある種の甘ったるさに、ぞくぞくしてしまった。 
 もう少しNによる話について述べると、ニコライとは、いわゆる悪魔的人物で、美貌と知性と腕力に恵まれた悪行三昧の貴公子である。女は勿論男まで彼の軍門に下ってしまい、ちやほやされるものの、彼はそういう取り巻きに対してはむしろサディスティックである。ところでNにはそういうニコライに憧れる気持ちがあるものの、彼のニヒリズムについては独特の解釈を持っている。つまり、彼の取り巻きの一人であるピョートルのような箸にも棒にもかからぬ政治的なニヒリストとは異なり、ニコライは傲慢ではあるものの「悩むことができる人物」であると捉えている。そしてそのようなニコライが様々な葛藤の末、ついに倦み果て、自死する姿に、逆説的に人の愛と救いの可能性を探っている。Nは、この物語(『悪霊』)に、その一つのモチーフである内ゲバリンチ殺人(=政治小説)を超えた、一人の人間が生きていく指標を求めているように僕には思えた。
 一人になりたくなったので、少し中座して外の空気にあたりに出る。中三の時さんざお世話になった久ちゃんちを見て歩く。どこにも変わったところがない。小川に出てタバコに火をつける。二本立て続けに吸った。
 戻っても、二人は相変わらず話し込んでいた。声は少し低くなっている。邪魔しないように二人の後ろに腰を下ろす。話は恋愛についてに変わっていた。たあちゃんは、ミーチャのグルーシェンカ(『カラマーゾフの兄弟』に登場する妖艶な女性。ミーチャとその父フョードルが共に夢中になっているが、どっちつかずの態度を崩さない。放埓で直情的なミーチャと強欲好色なフョードルとの醜悪な争いが最悪の結果を呼ぶ)への愛にこだわっている。
 片やNは、『罪と罰』に出てくるラスコーリニコフ(「選ばれた非凡人」との意識を持つ元貧乏学生。学費滞納のため除籍。「選ばれた未来の支配者たる者は古い法を乗り越えうる」との考えから、高利貸しの老婆を殺害する)に対するソーニャ(飲んだくれの父や家族のため、売春婦となる。ラスコーリニコフが犯罪を告白する最初の人。シベリア流刑となったラスコーリニコフを追ってシベリアに移住)の愛に救いを見ている。
 僕は周りを見て、僕以外の誰もが自分たちの話に夢中で、二人の話に興味は持っていないと確認して、この日はお開きまでずっと静かに二人の話を聞き続けた。

 一年余りのち、久臣君のお父さんが亡くなられた。まだ五十代で、周りはそのあっけなさに唖然とした。葬儀は自宅にて執り行われ、最後に久臣君が喪主として挨拶をした。落ち着いた物腰で随分立派であった。僕はその姿を見て、「お互いもう若くはない。しっかりしなくちゃ」と思った。皆も同じ気持ちでいたようだ。神妙な顔つきだったのである。四人になった時、正巳が真面目な顔で「おい、香典なんぼした?」と聞く。皆それぞれに、ちょっと張り込んで五千円という風に答えると、「よし、俺も五千円やった。ちょうどええ、これからみんなこんな時は五千円と決めとこ!ええな⁈」と強引に仕切る。大きな目がより一層大きくなって、声にもどすが効いている。皆蛇に睨まれた蛙のようになって頷く。正巳は「よっしゃ、これでええ!」と満足そう。
 あとで思ったことだが、正巳ははっきり言ってどうでもいいような香典の額を決めることで、今後の僕たちの絆を強めようとしたのだろう。つまりそういうふうに「定例化」することで、僕らはこれから長きに亘って、少なくともお葬式には顔を揃えることになるだろうからである。ほかのみんなも大体そんな風に考えていたのではと思う。僕もなかなかいい考えだと思ったのだった。

 暮れに僕の子供が生まれた。女の子であった。名前をつけてから、上から読んでも下から読んでも同じ、つまり回文になっているのに気がついた。Nに笑いながらそのことを自慢すると、意外にも少し顔をひそめる。僕がふざけていると思ったようだ。しばらく二人静かに酒を飲む。久しぶりの「おはな」でのことである。
 白髪が増えたつとむちゃんから、最近おかみさんが亡くなったと聞く。明るく気さくな人柄で、僕は学生時代から馴染みにしてもらっていた。何とも淋しいことである。勤め帰りのサラリーマンたちも、あちこちでそんな話をしている。最近僕は酒を飲む機会も少なくなり、飲んでも酔えず、顔も青くなりがちであったが、今日はいつも以上に酒が回らない。隣のNはと見ると、逆に顔が真っ赤で、飲むピッチがとても早い。大阪ではしょっちゅう飲み屋に行っていると言う。十日程連続で飲みに誘われ、家にも帰らなかった時には、さすがに身体に変調をきたしたということである。トラブルや喧嘩も多いみたいで、曽根崎警察にはよくお世話になっているそうな。
「これから、お参りに行こ」突然だった。Nが満君のお墓に行こうと僕を誘ったのである。飲み始めて二時間程経ったころだった。僕は、「えっ!」と息を呑むばかり。「本気なのか?」と、Nの顔をまじまじと見る。Nはまっすぐに僕の目を見ている。酔いが回って目まで赤いが、「冗談ではない」との思いが伝わってくる。
 あの日、満君のお葬式の日、僕は孤立無援の心境だった。無論たあちゃんもにいちゃんも久ちゃんもいた。それどころか僕は多くの中学、高校の同窓生たちに取り巻かれてもいた。でも一人だった。Nがいないこと、それが僕にとって決定的だったのである。僕は満君の顔を見れなかった。火葬場へも行かなかった。僕は羽を剥ぎ取られた鳥のように震えているだけだった。もしあの時、Nがいてくれたのなら、・・・何を言っても仕方のないことであるが。
 僕はそんな気持ちも、何もかも封印してあの日、一人家へ帰ったのだ。そしてその封印は今も続いている。意外なことにNが帰国しても変わらなかった。ことさらに隠そうとしたのでは決してない。そのような不自然なものは微塵もなかった。僕らは皆、胸の底深くに石を沈めるようにそれぞれの悲しみを抱いていたのだ。誰も自ら進んでその石を引き上げようとはしない。石は沈んだまま。僕らには満君の思い出を語り合うことは不可能であった。
 Nの行こうとの呼びかけに僕は優柔不断だった。Nは一人でも行ったであろう。どんなに暗くとも、どんな障りが起こってこようとも、断じてお参りに行ったであろう。一人になってから、僕は自問した。「億劫(おっくう)だったからなのか?・・・お寺にとって非常識な行いを避けたのか?」    
 結局、僕はNを残して「おはな」を去ったのである。一人歩いて駅前に着いた時、妻との約束の迎えの時間はとうに過ぎていた。

 たあちゃんに子供ができたとの連絡をもらった。Nが電話で知らせてくれたのだ。もう大きな子供がいてもいいK子との間柄であったのに・・・たあちゃんも30近い・・・でもとにかくよかった。引き続き実家近くに親子三人住むという。仕事は変わって、香具師の叔父さんの手伝いをすることになったとのこと。叔父さんはその親方で、たあちゃんの気性もよく知っているので、僕は諸々のことがうまく回っていくような気がする。とにかくもうふらふらすることなく、頑張って欲しいと心から願う。
 そんなことで、僕も親として、社会人として頑張っていこうと前向きになっていたところに、不幸事の知らせが来た。六歳になった正巳の子が亡くなったとのことである。お通夜に行く時、正巳が決めた五千円を包んでいく。やりきれない。
 実家の広い和室に小さな祭壇が作られ、内輪の人だけが集まっておられた。とても静かな中で正巳の声だけがよく通る。しばらくして、僕らは玄関脇の洋間に通され、正巳が手ずから運んできたビールと寿し桶を前にして座った。正巳は忙しく、その後顔を見せず、僕らも、何をどうしていいのか分からずとにかくおとなしくしていた。
 半時間ほど経ったころ、たあちゃんが呼ばれ部屋を出て行く。五分程して戻り、僕らに子供の顔を見てきたと言った。たあちゃんによると、子供は最近体調が良くなかったが、急にいけなくなったということであった。とてもかわいそうだったと言う。たあちゃんは何回か子供に会ってもいたらしい。僕とNと久臣君は一度も子供に会う機会はなく、そういうこともあって今夜はたあちゃんだけが呼ばれたということであったが、正巳よりその辺のことはたあちゃんから皆によろしく言っておいてくれと頼まれたとのことである。僕らは、扱いが違ったことについては、全く異存はなく、ただただ幼くしてこの世を去った一人の女の子を痛ましく思っていた。随分時間が経って、正巳が奥さんと酒や食べ物をたくさん持って現れた。顔色が良くない。声にも張りがない。先程の声は空元気だったようだ。久臣君が気を利かせて、当たり障りのない話を続けてくれた。
 翌日の告別式には僕らは参列しなかった。近親のごく僅かな人だけで執り行われたのである。そんなこともあって、中逮夜(忌中の中日の法要)の日のお供えをしようと話がまとまり、僕とNが前日正巳の実家を訪れた。お母さんが一人おられただけなので、僕らはすぐに辞したが、とても恐縮しておられた。帰り道を歩きながら、僕らはたった数分間のことだったが、とても気疲れしていることを体感していた。正巳たちとご両親との間の軋轢(あつれき)はまだまだ
鬱勃(うつぼつ)たるものがあったのである。ため息をつきながら、Nが、
「ちょっと休んでいこか」と言った。僕も気分を変えたかったので、「うん」と答え、車を止めさせてもらった店への気遣いもあり、「ここのファミレスでええやろ」と誘う。
 休日とはいえ、中途半端なこんな昼間の時間には、客はほとんど入っていない。僕らは窓際の席を取り、コーヒーを頼んだ。窓の外はすぐ国道で、スピードの乗った車がほとんど途切れることなく通り過ぎてゆく。僕らは時々コーヒーを啜りながら、黙ってそんな車を眺めていた。だんだん落ち着いてきた。Nが語り始めた。
 例によって、この時Nが言ったことから二つ述べる。
 一つは、僕の質問に答えるものであった。この時僕は何を考えていたのだろう。Nに、「昔の神経症の発作はどうなった?青い色で対応してるのか?」と聞いてしまったのである。さすがにNはドキリと顔を赤くしたが、なんとか気を取り直して、次のように言った。
「このごろ大切にしている概念がある。それは、オーディナリーということ。発作じみたことが起こったときは、できるだけオーディナリーな対応をとることに努めている。ブルーの対応も忘れたわけではないけれど・・・」
 それを聞いて僕は、急いで頭の中にある辞書を繰り、エクストローディナリイという反意語を認め、それを「非凡」と訳した。Nが中学時代よく言っていた「僕は平凡な人生は嫌だ・・・」のあの非凡である。僕はここ十年程の間にNにもたらされたものの大きさに目がくらむ思いがした。 
 もう一つ、それは経験という言葉への親近感についてであった。以前に述べたことだが、Nは経験という言葉に対して忌避の気持ちを持っていた。高校時代には、そんな気持ち故、正巳に対して反感を示すこともあった。この世にあるべき絶対的真理こそが尊く、各々の経験など相対的で不確かなものだと切り捨てんばかりだったのである。ところが、今Nは、それぞれが生き抜いていく中で、必死の戦いの中で、少しずつ少しずつ身につける知恵のようなもの、個性的でかけがえのないもの、それを生む「経験」は決してないがしろにできないと言う。僕にとっては、何を今さらと思えることであるのだが、Nも様々な経験を積むことで、かつて正巳が言っていた「経験が大事」ということを偏見なく受け入れようとしているのだと思った。
 そしてここからがいかにもNらしいのだが、イギリス経験論の勉強を始めたと言う。フランシス・ベーコン、ロック、ヒュームの原典に当たるため、嫌いだった英語の勉強も始めるらしい。全く「ようやる」と思うばかりだが、昔、原理第一で経験的認識よりもアプリオリなものを信じ、プラトンや好きなユークリッド幾何学に向かっていった情熱が、趣きを変えて燃え上がったようだ。僕に「どこの大学が、こんな勉強に良いか教えろ!」と迫ってきた。

 20年近くの年月が経った。僕らは40代の後半となった。僕は二児の父親となり、仕事も母校の大学の教員に変わった。二つ理由がある。一つは我が子が反抗的で勤務形態を変える必要に迫られたことであり、もう一つは、職場で管理職と揉めたことである。僕は当時村の子供たちに補習をするボランティアに勤しんでいたのだが、それが原因となった。そしてそこに僕の初任校で退学になった元番長の青年がいたことにもよる。
 たあちゃんは香具師の親方となり、なかなか貫禄もでき村の相談役のようになった。にーちゃんは会社の重役となり、外国を飛び回っていた。女の子が生まれ、今ではいい娘さんになっている。久ちゃんは相変わらずの人徳者で、工場で重要なポストに就いている。悩みは男の子二人がプータローであることだが、そんなに気に病んでいるようすはない。野球からは引退した。Nであるが、結婚して子供が二人いることは知っているが、仕事のことなどはよく分からない。実は皆とは疎遠になったのである。
 疎遠になった「きっかけ」ははっきりしている。ある日たあちゃんの実家の前で、僕とたあちゃんが擦れ違った時のことである。僕は大学の助教授となり、久しぶりに両親に会いに村にやって来たのである。はっきり言って少し意気がっていた。スーツはアルマーニ、時計はカルティエを巻いていた。対してたあちゃんは見るからに香具師の親方風、気安く僕に笑いかけてきた。僕が悪かった。スーツも腕時計も関係ない、今までのように自然にしてれば良かったのだ。僕は、・・・言いわけはよそう・・・僕は気取っていた。大学や学会での立場、周りからの目――そんなものをついつい意識してしまっての日ごろの振る舞いが、嫌な形になって出てしまった。
 たあちゃんへの僕の笑いは引きつった不快なものとなってしまったのだ。たあちゃんの顔から少し血の気が引いたのが分かった。そしてなお悪いことに、僕はそのまま、たあちゃんに背を向けて歩き去ったのである。その時は何と言葉をかければよいのか全く分からなくなってしまっていた。僕は自失してしまったのだ。
 そして、これはあくまでもきっかけに過ぎない。実は、僕はもうこのころ既に学生時代に思っていたことを逆転させていて――つまりNたちとのことは仮で、今の僕の「英語生活」こそが本当であるとの認識になっていたのだ。そんな思いがたあちゃんに会った時にふとほころんで出てしまっただけなのである。実際Nにも、いつだったか覚えていないが、「出逢わなければ良かった」と毒を吐いたことさえある。出逢わずに、僕が今までよりずっと「現実」というものに集中していられたなら、僕はもっと英語の世界を極められたかもしれないのに・・・という本音である。僕は既に「僕ら」から抜けていたのだ。そして、だんだんと皆に年賀状を出さなくなっていった。返事も控えるようにした。不幸事などの連絡がきても、出席しないことが多くなり、出てもそそくさと帰った。こちらから連絡することは止めた。僕は、僕らが互いに疎遠になるように努めたのである。
 確かにあの日、家に帰ってもなぜあんな顔をたあちゃんにしてしまったのかという後悔が僕を苦しめた。しかし、同時に、妻によりますます立派になってゆく家の造作の中で、徐々に落ち着きつつあった子供たちのことを思うにつけ、このままこの家族たちを大切にして静かに暮らしていきたいと考えるようになったのである。ほかのことはもうどうでもいい。
 僕は父と別に住むようになって、かえってよく父と話すようになっていた。そしてそのような会話の中で、我が父も僕と同じような困難に出合い、苦しみを味わってきたとの感触を得た。僕はかつて父がなぜ家族をあれ程大切にし、最低限の仕事仲間とだけつき合うようにしていたのかが、自分のことのように分かったのである。そして僕は家族以外に親しくする者を持たなくなった。それが楽でもあった。

 この間の僕が知る限りの、Nの「思想的」遍歴について述べておく。経験論までの話はした。そのためNは英語の鍛錬に努め、英米の哲学の原典に親しんでいた。それから自分の勤務の合間を縫って、長年にわたり、大学で線形代数や相対性理論、量子力学、宇宙論の講義を聴講するようになった。僕には全くチンプンカンプンであったが、それでもNの噛んで含めるような話から、例えば量子力学では、おおよそ次のことが分かった。「原子核や電子・光といったいわば自然界の主役の振る舞いは今までの我々の常識が通用しない。これらには、確率論に基づく気まぐれな性質があり、本来通り抜けることができないはずの壁を擦り抜けたり、何もないはずの空間から、突然生まれたり消えたり、一つのものが同時に複数の場所に存在したりする。また、不確定性原理により、一つの粒子について、位置と運動量のように互いに関係ある物理量を同時に正確に決めることは不可能である」
 僕は、このような話を聞かされる中で、幼い時から、いわばニュートン的、ユークリッド的なものへの希求の念が強かったNが、このような物理学等の新知識に強い影響を受け、かつて虜になっていた絶対とか公理とかいうものから、遠ざかろうとしているように思えた。
 もう一人哲学者の名前を挙げておかなくてはならない。それは、セーレン・キルケゴールというデンマークの人である。僕がこの聞き慣れない思想家の名を忘れないでいるのは、ひとえにNが呉れた色紙による。それには、Nがわざわざ僕のために書き写してくれたキルケゴールの言葉が書かれてあった。よっぽど気に入っていたようである。まだ持っているので、ここに書き写しておこう。
  『それでは現実性とは何か。それは理想性である。
  しかし美的と知的には、理想性とは可能性である。
  倫理的には理想性とは個人そのものにおける現実性である。
  【現実性とは、実存をかけて生きることに無限の関心を持つ内面性である。】
  このことは、倫理的個人にとって固有なことである。』(【 】はNによる)  
  (キルケゴール著作集8『哲学的断片への結びとしての非学問的あとがき 中』P251
    白水社)
 量子論などと同様、この色紙の言葉も僕にとってチンプンカンプンであることに違いはない。しかしこの色紙の文言を読んだ時、僕はある感慨をもってかつての情景を思い出すことができた。その情景とは中学校時代のことである。Nの家の隣にあった廃校になった小学校のジャングルジムに上って、僕とNと満君が遊んでいた時の情景である。その時Nは僕らに宣言した。「俺、哲人になりたいね」
 僕の感慨とは、それからいろいろのことがあって、そしてその長い時間の間に、「Nはともかくもここまでやって来たんだなあ」という自然に僕の心に湧き出してきたものなのである。僕はNの肩を優しく叩いてやりたかった。僕にはよく分からないけれども、色紙のこのキルケゴールの言葉には、僕の心線を震わせるものがあったのである。「何を、適当なことを言っているのだ。そもそもお前はこの文言の哲学的な系譜を知っているのか?」と問われれば、「知らない」と僕は素直に答える。それにこの文言は、「哲学的断片への――あとがき」という大作――Nの言によると全三巻――の中のたった数行なのである。僕はてんからNの思いの総体を捉えることなど考えていないし、そもそもそれは変転していくのだ。
 色紙を僕に渡しながら、Nは僕に述懐した。
「俺は、ほんとにつまらん人間や。特に20歳を過ぎてからしてきたことは、恥ずかしくて、井戸にでも飛び込んでしまいたいようなことばっかり・・・それははっきりしてる。そしてもう一つ、はっきり言えることがある。それは、『そんなくだらん人間の俺は、間違いながらも、これからいかに生きていくかということをいつも心に抱いている』ということだ――こんなイメージがある。俺は走っている。時にこけたり立ち止まったり、たどたどしく走ってる。そんな俺はいったい何を目指して走っている?・・・それは、なんとあのお月様!呆れるやろ?決して辿り着くことがないんやから・・・でも、あの美しいお月様こそ俺の行先に違いない」
 Nはその時、「倫理論的に生きること」とも言った。僕は倫理的に生きると言うのかと訝しく思って聞くと、Nは、「倫理的やない。そもそも俺は倫理的には最低ランクなんやから」と言った。
 僕は、かつてヘーゲル並みに哲学体系を!と吹いていたNが、そしてまた到達地点を織り込んでしか動こうとしなかったNが、絶対や永遠や無限におもねろうとせず、「相対的であること、限定的・個別的であること、現実的であることを忘れずに」という今までとは随分違うところにやってきたんだと泣きそうになった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み