第3話 第2章

文字数 40,136文字

第二章

「ボヘミアンライフ」とは自由奔放な生活の(いい)で、Nがどこかの本から見つけてきたものだ。なんでも日本の小説家の誰かが、フランスかどこかのこれまた小説家の影響を受けて、芸術家気質(かたぎ)の自由人をモットーに、それを謳歌したものらしい。それにプッチーニのオペラにもそんなテーマの作品があるとか・・・とにかくそのことに感激したNの影響を直に受けた僕ら、とりわけこの僕は、早速それを真似た。つまり、自由気儘で奔放な暮らし、芸術への惑溺、気の合った者たちとの共同生活、放浪・・・全て欲しくてたまらないものへの強烈な志向である。とりわけ、Nにとってはそのロマンティックな性向から、それへの思いは切羽詰まったものであったし、Nに比べてペシミスティックな僕でさえ憧れは切なるものであった。二人は、その強烈な憧れを「モンマルトル」という言葉に結晶化させた。しかし残念ながら・・・実に現実は如何ともしがたく、親がかりの僕らにとって、それは制限つきのものでしかありえなかった。いわば疑似ボヘミアンライフであったのである。でも僕らは結構楽しかった。

「誰かいるの?」
「スースー」
「誰?」
「スースー」
 誰かが気持ちよく寝ている。僕は奥のベッドへ向かって土間から上がり込んだ。満君だった。まだ夕刻ともいえないこんな時間に満君がいるのは珍しい。Nはいないようだ。
 ここはNの家。焼いた杉の木の棒が二本立っているだけの門を通って、鍵の滅多にかかってない玄関を開けると広い土間があり、そのすぐ左手に洋間がある。この十畳ほどの部屋が僕たちに「提供」されている。以前は倉庫でもあったのだが、少し改造されてNの勉強部屋になった。僕らのボヘミアンライフの拠点(アジト)である。
 僕らは高二になっていた。Nは我が中学校の歴史始まって以来初めての県南部の有名進学校へ、満君はトップクラスの子が行く県北部の進学校へ、僕は一応の進学校へ通っていたのだが、いつのころからかNの部屋を溜まり場とするようになった。つまり、この三人が僕らのボヘミアンライフの主たるメンバーということになる。だがしかし、ほかにもこの部屋へよくやって来る者がいた。たあちゃんと僕の村のお祖母ちゃんの家に引っ越してきた正巳である。あと、久臣君もたまにやって来た。久臣君は、中学に続いて野球のクラブに入り、激しい練習に明け暮れていたため来られる日は限られていた。小柄だが浅黒く引き締まった身体で、小さい時から鍛えていたのでとても優秀であった。のちに実業団野球で活躍する。さて、この三人がいわば準構成員ということになるのだろうが、当然誰も差をつけはしない。従って、僕らというのはこの六人(初めに断っていたあの六人である)のこととなる。
 ついでに久臣君以外の者のクラブのことなど、少し高一のころに戻って紹介しておこう。満君は入学後すぐにバスケットボール部に入り、とても張り切っていた。この部屋の窓から見える杉の門柱のうしろのスペースで、当時ディフェンスの型などをよく僕らに紹介してくれていた。喋ることに気を取られるせいか、色白の身体の動きがとてもぎくしゃくしていたのを覚えている。最近はレギュラーになろうと必死である。正巳は陸上部であったが、興味はだんだん女の子に移ってきた。オシャレでかっこいいのでモテないわけはないのであるが、あまりに積極的になり、このごろ女の子たちは敬遠気味になってきている。僕と同じ高校である。たあちゃんは久臣君と同じ家の近くの高校で、バスケットボール部に入ったのだが、すぐ先輩と仲が悪くなり、今は止めてしまっていた。ヌーボーとしていて、よく分からない暮らしぶりである。Nは相変わらず独立独歩、馴染みのない高校へ行ったのも、周りに知り合いがいないからということで、クラブになんて絶対入らず、今の時代であれば、確実におたくと呼ばれていたであろう。専ら机に向かって詩のようなエッセイのようなものを綴ったり、謄写版で文集づくりに励んでいた。僕は父が勧めたESSに入って、まあまじめにやってきていたが、最近次期部長との声が聞こえてくるようになった。決して望んでいないが・・・密かに喜んでいるのは、少し身長が伸びてきたことである。
  
「・・・よう寝た」むっくりと満君が起き上がった。制服姿のままだった。
「珍しいな、こんな時間に」
「うん、クラブ早めに終わった。テスト前やから」
「Nは?」と念のために聞いてみる。
「さあ、僕が来た時は誰もいなかったけど・・・」
誰もいないのにひとの家で熟睡するとは・・・でもこれが僕らがボヘミアンライフと言う――その所以の一つである。満君の寝ているベッドは、Nの父親がどこからか貰ってきたものだそうで、セミダブルサイズでスプリングが利きすぎる代物だった。僕らはここで時には三人並んで寝た。大きめのサイズとはいえ、ここで高校生の男三人が寝るというのはきついものがあった。でも僕らはまるで三人が一つの塊になったようにして寝たものだ。意外や、それでみんな熟睡できたのである。それに冬場は、冷え性気味の僕には体温の高いNは炬燵(こたつ)代わりとして最高だった。部屋にはほかに窓際に机が三つ(一応Nと満君そして僕のものとなっていた)並んでいるだけだった。
「N、ひょっとしてあの宗教団体のとこへ行ったのかな?」試すつもりで聞いてみた。満君は、やはり事情が分からないようで、
「それなんのこと?」とぽかんとしている。僕は最もよくこの部屋に来るし、夜も父親の特段の言いつけがなければここで寝ている。満君は泊まることはほとんどなく、クラブが終わってここへ直接やって来て、夜遅くに自転車で自宅に帰ることが多かった。だからNの現況について知らないことのあるのも当然だ。

 僕はNと二人、ベッドに横になりながらよくいろんな話をした。そして話題はだんだんとお互いの内面に踏み込んだものとなっていった。Nは小さな子供のように素直で、隠しだてがなかった。僕はここで初めて、自分の家族についての思いを口にした。そんなことを他人に話せるなんて我ながら信じられなかったが、相手が心の扉を開いていれば、自然にこちらも心を開くのだ。
 父は家族思いで優しいが、その身についた威厳が僕にとっては息苦しく、時に反感さえ抱くということも伝えた。その時Nは「なんで反抗しゃーへんの?」と僕を不思議そうに見つめたが、僕が「そんなことをしたら、あとで惨めになるばかりや」と言うと、「一遍やったらええねん、楽になんで!」とこちらを勇気づける。僕は、「それができるくらいなら・・・」と悔しく思いつつ、(そして自由なNにジェラシーを感じつつ、)心の中で、どこかで聞いた「心よ心、沈みて静めよ!」というフレーズを何度も繰り返した。このフレーズは、僕に馴染みのものなのであるが、そもそも誰の言葉なのか、ひょっとして自分自身が考えついたものなのか、それさえ分からなくなっていた。とにかくも、僕にとっては、苦しい時どうしようもない時に、自ずと口をついて出てくるおまじないなのである。すると、赤く沸騰した心が青白く凍りつくのだ。
「お母さんと弟はどうなん?」とNが聞いた。僕は、二人共とても平凡で穏やかで、話がしやすいと答え、誕生日や記念日には、ささやかなプレゼントを贈ることにしていると伝えた。Nはそれを聞いて、「プレゼント?、考えられんわ!」とびっくりし、それに対して僕は、「愛しているという格好は、続けたい」と応じた。Nはますますびっくりした。
 
 最近のNの話題はE教のことが多かった。Nは中学校の時から、数学好きのせいか、無限とか、原理とかについて強い関心を持っていたが、このごろでは、生きる上での真理というものの方へその関心を転じていっているようで、特にE教の説く絶対の真理とかいうものに異常な程の関心を示していた。僕にはほとんど興味のない話であったが、Nに言わせると、「もし永遠絶対の真理がないのであれば、人は暗闇を歩くしかなく、自らの意志しない、とんでもないところへ行ってしまうことになる。真理の灯がなければ、生きる意味さえ見いだせない」ということになる。
 僕はなんとなく遠くの景色を見ているような気持になって、「うんうん」と相槌(あいづち)を挟みながら漫然と聞いていることが多かったのだが、Nは一人どんどんE教にのめり込んでいった。尤も当時は例のO真理教の事件もなかったので、高校生の中で宗教に走る子は珍しくなく、H教などには多くの青年信者が集っていた。まあNは、そんな子たちとは少し傾向が違うような気もするのだが・・・だからつまりその、しつこく僕を勧誘することはなかったのだ。
 僕は、「Nは満君にE教の話はしていないんだ」と思いながら、ともかく話題を秋の文化祭のことに転じた。僕のクラブでは毎年英語劇を上演することになっており、文化祭期間中の休日には親や他校の生徒たちも結構見に来てくれるのである。満君の高校では学園祭と呼ばれていたが、それは県下で最も人気があり多くの来場者を集めていた。満君のクラスではそこで今年英語劇をやることにしたらしい。そんなわけで僕らは、満君のクラスの『ハムレット』と僕が脚本を書き始めた『忠臣蔵』のパロディ劇とについて興味津々情報交換に励んだ。まあ最大の眼目は、いかにして、我が父からの助力を得るかということであったが・・・

 七時になってやっとNが帰ってきた。自分から、E教の支部へ行ってきたと言う。満君は、「何それ?」と尋ね、Nは、カバンから今日貰ったという雑誌を取り出し僕らの前に置く。新書判くらいの大きさで、薄っぺらい。紙質は更紙のようなものだった。E教の青少年用の入門誌らしい。僕がまず手に取り、ぱらぱらと捲り目を通す。ほんの少しだがカラー写真も組み込まれている。漫画もあり、そのタイトルが英語で、『スピリット・オブ・・・』となっていた。僕は自分でもなぜだかよく分からないのだが、このスピリットという言葉がとっても好きで、その漫画だけしっかりと読んでみた。でも内容はアメリカのコミックみたいで、単純でつまらなかった。満君に渡す。満君は最初のページからじっくり読みだした。
 そのうち正巳がやって来た。途端に座が軽薄な感じになる。勿論正巳は平気だ。どこかのおっさんが口にするような話題がどんどん出てくる。体型もおっさんじみてきた気さえする。Nは憮然としている。満君は雑誌から目を離さない。従って専ら話し相手は僕になる。察するところ、正巳はたあちゃんに会いたかったようなのだが、たあちゃんは来てないし、今日のNは取りつく島もないようすだし、満君にも声をかけにくいので、さすがにほかにどうしようもないのだ。まあ正巳と僕はおんなじ高校なので、世間話には事欠かない。
 しばらくして、Nが「米、炊いてもらうわ」と部屋を出た。ところでそのころ僕らは、できるだけNの家族に迷惑をかけないよう、それぞれに工夫をして、自前の食を確保するようにしていた。特に満君はそうで、よくお土産のようなものまで持参していた。それでもNのうちの好意で、食べ物を用意してもらうこともあった。食べ物と言っても今の世とは違って、主に握り飯であったが、僕らにはごちそうだった。
 一時間程して、Nがみんなを台所に呼ぶ。その時にはたあちゃんも来ていて僕らは五人になっていた。我らの部屋の左隣が台所で、広さは、15畳くらいはあるだろう。そこに三つ穴の開いたおくどさん(かまど)が設えてある。そこから長く煙突が伸び、昼間でも薄暗い天井あたりには古い蜘蛛の巣が纏わりついていた。言うのを忘れていたが、ここも土間である。Nは焚き口の前の腰かけに座り、火の世話をしていた。慣れているようでとても手際がいい。顔が真っ赤に光っている。焚き口から熾火(おきび)が見える。その上の一番小さい釜口には大きなやかんが載っかって「シューシュー」湯気を立てている。一つ置いた隣の一番大きな釜口には、びっくりする程大きな釜も載っかっていた。こちらはもう火が落ちていて、炊き上がったご飯をうましていた。それにしても大きい。普通の感覚での大きな釜よりまだ二回りは大きい。
「さあ、よばれよか」遠慮のない正巳が、椀を探そうとする。
「待て待て」とN。そして、
「みんなで握り飯作るんや!」と決然とした声を出す。皆、待ってましたとばかりに腕まくりをし、手を洗い、お結びを作る準備に入る。誰の顔もにこにこしている。
 大きな皿に、でっかい塩結びが三つずつ載っている。というか、三つしか載らない。一つのお結びがでっかいソフトボールくらいの大きさなのだ。そんな皿があちこちに置いてある。どれも湯気を立てていて、本当に旨そうだ。
「さあ、食おか!」とN。
皆が一斉に手を伸ばす。
「・・・」
「・・・」
誰も口を利かない。その口から湯気。
突然誰かが、
「誰や、こんな仰山(ぎょうさん)塩つけたんは・・・」と叫ぶ。
「知るかー、いらんかったら、俺が食ったる」とまた誰か。途端にワイワイガヤガヤ、喧しくなった。飛んだ米粒があちこちに散らばる。
 たった五分で、みんななくなってしまった。Nが沸かした湯で番茶を入れてくれる。
「ほんま旨かったな」と正巳が、スケベそうな顔を緩ませて言う。みんな無言で同意する。胃が弱くて、何を食べても心から美味しいと思えない僕も、皆で食うこんな飯は、堪らなく旨い。「ボヘミアンライフ」は、僕を健康にする。
てきぱきとあと片づけをして、皆部屋に戻りほっと一息。するとベッドに座っていたNがしみじみと、「腹減ったな」と言う。途端に皆の笑いが弾ける。いい冗談だと思って・・・洒落ているとも思って・・・しかし、満君はちょっと違うようだ。笑いながらも、「ほんとそうだ!」という顔つきをしている。尤も普段からどんぶり飯七杯食べていると言うのだから、それもむべなるかなである。正巳もこのごろ食べ過ぎで胃拡張だと言うし、ほんとみんな僕と違ってよく食べる。Nの言も冗談ではなかったと思うべしか。   
 Nと何やら喋っていたたあちゃんが、突然「帰るわ」と言って立ち上がる。「なんやね、遅う来たくせに、食い逃げか⁈」と正巳。やっとたあちゃんとじっくり話せると思ったのにがっかりしたのだろう。顔が少し引きつっている。「かんにん、かんにん」たあちゃんは本当に申しわけなさそう。
 いいことも悪いことも冗談ぽく、つまり僕らを温かく煙に巻きがちなたあちゃんにしては、えらく生真面目なようすである。憎まれ口を聞いた正巳も、怪訝(けげん)な顔をしている。
「ちょっと用事ができて、行かんならんらしい」とNが助け舟を出す。
「すまんな。はよ終わったら戻ってくるさかい」たあちゃんはあくまでも下手に出る。

 解せない顔の僕らを置き去りにして消えたたあちゃんは、結局この日戻らなかった。少し先走るが、数か月後、秋の文化祭も終わり、修学旅行の時期になったころ、僕らは大体の事情を知ることになった。(その時期とは、つまり修学旅行が近づき、旅先でどの娘とペアになるのかという話題で大いに盛り上がるころのことである)たあちゃんはこの時、女の子に会いに行ったのだった。それもかなり差し迫った事態で、つまりまあ「告白」ということなのだ。相手は四月に鹿児島から転校してきた娘で、たあちゃんは一目惚れをした。何事にも自ら動くということが滅多になかったたあちゃんにしては珍しく、その娘と同じクラスの委員になろうとしたり、積極的に学校の案内を買って出たりしたらしい。そしてついにこの日を迎えたというわけだった。さて、話をもとに戻そう。

 たあちゃんが出て行ってしばらくして、僕の胃がようやく落ち着いたころ、正巳が、皆の隙を見てウインクをしてきた。助平ったらしい内緒話を求める顔だ。学校でもよくやられる。僕が「何?」という顔をすると、顎を出口の方へ向けて振った。Nや満君には内緒にしたいのか・・・とにかくたあちゃんと話せなかったので少し苛ついているようだ。
 正巳が「ちょっと出るわ」と部屋から出る。僕はNと満君のようすを見る。Nはさっきの雑誌に集中しているし、満君も勉強が佳境に入ったという感じである。ころ合いをみて部屋を抜け出す。門の裏に正巳が立っていた。
「運動場へ行こ」と、小声で言う。
「うん、どうしたん?」僕は不安だった。これでもいろいろ秘密もあるのだ。
「心配しゃんでええ、タバコや、ちょっと吸いに行こ」
ドキッとした。なぜ正巳が知っている?僕は疑心暗鬼に陥った。誰が正巳に教えたのだ、僕がまたタバコを始めたことを?――「とにかくNに知られてはならない」「とにかく早くここを離れねば・・・」という思いが僕をせっつかせる。
 僕がタバコを初めて吸ったのは中二の時、隆二からの勧めだった。というより、命令だった。そして高校生になってからも時々吸っていた。自分で買うことはないが、よく同級生が呉れ、不自由することはなかった。学校にばれれば、停学くらいにはなる。「止めなきゃ」と思うのだが、意志が弱く、断れない。ついつい悪ガキどもとタバコだけでなくほかにもろくでもないことにつき合って、そしてあとで必ず後悔する。
 僕は正巳について門を右に折れた。田舎家を二軒過ぎ、また右に折れて同じくらい行くと、そこはもうもとの小学校の校庭である。静かな校庭から空を見上げると、たくさんの星が出ていた。正巳は胸ポケットからセブンスターのパッケージを取り出し、慣れた感じで振って、二・三本フイルターを覗かせた。隣の家からの薄明かりでも、その色の白さは際立っていた。
 ふらふらと一本取ってしまう。正巳が手際よくマッチを擦る。気がつくと煙が空へ拡がり、星と重なっていた。「旨い」と思ってしまう。半分ほど吸ったところで、正巳が、いわくありげな顔をして、
「つったんも新興宗教へ行くのかなあ?」と言う。さっき、例のパンフレットを見たようだ。
「つったん」というのはNの愛称である。こんな場面におかしいが、少し紹介しておく。「たっつん」というのもある。以前に言った「バタン」と合わせてこの三つがだいたい使われていた。ほかの者のも遅ればせながら紹介しておくと、正巳は「にーちゃん」、久臣君は「久ちゃん」。僕と満君には愛称がなく、それぞれ苗字や名前で呼ばれていた。
「どうかな、あいつのは信仰というのとは違う気がする」
「ふーん。俺らの学校でも増えてきたんかな?田中とか、梶山とかHに入ってんのちゃうの?」
「田中は違う」僕のクラスメイトの名前が出たので、否定しておく。僕は田中君とは親しいのだ。
「そうか、田中はちゃうのか。せやけど、よう梶山とつるんでるで」
いつも感心するのだが、正巳はこういう類のことに本当に詳しい。いろんな情報網があって、積極的にそこから新知識を得ようとしている。
「僕をタバコに誘ったのもそういうことか・・・」
僕は疎ましい気分になり、「つるんでても、皆それぞれや」と尖った声を出す。
「なるほど・・・、皆それぞれ、いろいろ経験したらいいね」正巳の声が低くなった。が、それを聞いて僕ははっとした。この間のセブンブリッジの時のこと、そして数日前のNとの会話を思い出したのである。

 僕らは年に数回六人全員が揃う日を持っていた。気候のいいゴールデンウィークの一日、解放感溢れる夏休みの初め、秋の文化祭シーズンの一日、クリスマスケーキが安くなる師走の26日などがその日である。これらは皆がぜひそうしようということで集まったわけではなく、偶然皆が揃う日があり、そんな日のうちいくつかが、恒例化したものだった。だいたいNのうちに集ってセブンブリッジをすることが多かった。
 そんなある夜、正巳が「経験」という言葉を口にした。その時は、女の子のことに話が及んでいたので、「経験」とは当然あれのことを言うのだとみんな思った。そして白々しい空気が拡がった。いったいに正巳は武勇伝を吹く傾向があったのだ。皆はことさらカードに集中した。というわけでこの話はいつものようにお粗末な結末を遂げたのだが、実は後日談があった。しばらくして、Nが僕に、「経験」を講釈したのである。二人ベッドに入り、起きているのか眠っているのかよく分からない時である。
 以前にも言ったことだが、僕らは一つのベッドで寝ていた。二人の時もあったし、三人の時もあった。(ベッドを横使いしてそれ以上の時も)そんな時、僕らはいろんなことについて語り合ったものだ。中学でも同じようなことがあったが、僕らはもう高校二年だ。話す中身が変わってきていた。前にも言ったが内面的になってきていたのだ。まあこれはNの影響が強かったということが一つあるのだが、やはりそれぞれ年を経て、それなりに物思うことが多くなったということも一因である。例えて言うと、女の子のことにしても、中学生の時には、あの娘かっこいいとかかわいらしいとかそんなことだったが、今は、好きになるってどういうことなのかとか、恋愛と結婚は違うとか、つまり、そのことの自分にとっての意味を僕らは追及するようになったのである。それに実際異性とつき合い始めて、お互いの間に起こる様々なトラブルに苦しむ奴も身近にいた。悩むこと考えるべきことが僕らそれぞれに近づき、食い入ろうとしていた。
 僕らはそんな時の話を「寝物語」と呼んでいた。勿論僕らだって、いわゆる寝物語の意味くらい知っている。でも、本当は僕らの「寝物語」の方がよっぽど興味津々なことなのである。物語はNが口火を切ることが多かった。半分はそうだったろう。そして、あとの半分の多くを僕と満君で取り、残りの僅かをたまにやって来るたあちゃんなどが取った。こんな風に綴ると、僕らは真面目一方に語っていたようだが、実はふざけることの方が多かった。正確に言うと、おふざけから始まることが普通であった。しかし、話はやがて熱を帯び、僕らは真面目にもなり、よく考えるあまり何も喋れなくなることもあった。僕らみんな「寝物語」が好きだったのである。
 特に、どんどん時間がたって睡魔に抵抗し難くなり、そのうえ話がだんだん込み入ってきて、僕らは話しているのか、聞いているのか判然としなくなってきて、自意識が朦朧(もうろう)としてきて、もはや自分と相手とが、溶け合っているような具合になり・・・次の朝、再び同じテーマについて話を蒸し返すことがあっても、自分の意見だったのか、聞いたことだったのか分からず、無責任の(そし)りを受けたとしても、言いわけもできなくなる・・・そんな「寝物語」が僕らは気に入っていた。
 さて、Nが言ったのはこういうことだった。
「正巳は経験が大事だというが、俺はそう思わない。どちらかというと経験という言葉は嫌いだ。俺は真実というものを掴みたい。それも不変で絶対的なものを手に入れたい。でないと生きている値打ちがない。ふらふらと生きて、ついにそれを掴むことなく死んでしまったら・・・いったい俺は何のためにこの世界に生まれてきたんだ・・・死んでも死にきれない思いがする。そして、そういう真実はあると思う。このごろE教の教えを勉強して、ますます俺はそのことを確信している。それに経験、経験というけれど、いったい俺たちの経験ってどれくらいのものなのか。この世で、俺たちがぶつかる現実ってそんなにいいものなのか?E教では、むしろこの世の現実自体を幻のようなものと捉えている」
 鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていたに違いない僕に、それからNは、高校の倫社で習うプラトンのイデア論の話を熱心にしてくれた。その時は、僕は僕なりにNの説くイデア論というものを理解することができたように思うのだが、それがE教とどんな関係なのかは分からず、実家の隣のお寺の住職が常日ごろ口にしていた「全ては空なり」とはどういうことなのかなどと、ずれたようなことも考えていた。
 そんな僕のあやふやさを見破ったのか、Nが寂しそうな顔をしたように思えたので、僕は思い切って、
「この間、E教のパンフレット見たけど、そこにはプラトンって名前はなかったように思うねけど・・・」と尋ねてみた。Nは声を励まして、
「経典の中にはないようだけれど、教祖はきっとプラトンを意識していると思う」「教祖は、この現象の世界にあまり価値を置いてなくて、その奥にある永遠不変の真実の世界こそが本当と言っている」と答えてくれた。そして続けて、観念論とか唯物論、実在論とかいうものを僕に講釈した。
 しかし残念ながらこのあたりになると、倫社は昼寝と内職の時間だった僕にはピンとこず、眠くもなってきていたので謹聴するのはなかなか大変だった。それでも僕は、この世界は物質のみだという考えに与することはできないし、逆に、物質は心の反映と断じるのにも反対だった。ここのところは、僕には珍しく頑固に思ったのを覚えている。といって、「じゃどうなの?」と問われれば、僕には全く歯が立たなかったのだけれど・・・

「つったんは、もうタバコ吸わんみたいやな?」正巳が物思いにふけっている僕を現実世界に引き戻す。
「うん、このごろ、結構ストイックや」
「こないだ俺のタバコ見つけて、変な顔しとった」正巳の顔が少し歪む。
「停学食らって、ナーバスになってる」
「停学?」正巳の声が裏返る。
「こないだバイク無免許運転して、黒パトに捕まった」
「俺知らんかったぞ、つったんが・・・そうか、せやけど、よう皆捕まってるなあ・・・それでもう停学は終わったんか?」
「日曜挟んで三日間で、終わった」
「ふん、それでショック受けてるんか?」正巳は尋ねながら、二本目のタバコに火をつける。僕にも勧めるが、それは断る。
「いや、そうでもない。停学中も外出してるくらいやから・・・でも、親のこと思って気い遣ってるとは思う。親、学校に呼び出されたんが辛かったらしい」
「そうか、せやから俺がタバコ持ち込んだんが嫌やってんなあ・・・」正巳が頷きながら煙を細く吐く。そして、はっきりした声で、
「お前、タバコ吸っててもええんか?」と僕を見て言う。
「な、なんで?」思わず、自分でも情けない程の頼りない声が出た。
正巳はよくは知らないようだ。実は、Nは停学を機にタバコを止め、僕もそれに同調してタバコを捨てたのだ。どこの家のことであれ、親が苦しむ姿は、擦り傷のようにひりひりと僕自身を苛む。この思いは生来のそして心からのものだ。ましてや尋常ではない世話をかけているNのご両親である。僕がこれからもタバコを吸い続けるなんてありえない。・・・しかし、だのにである。Nの喫煙がもともと遊びで、量もごく僅かだったのに比べ、僕のタバコはもう癖となってしまっていた。意志の弱い僕は、またしても悪友からの誘惑に負け、Nには内緒で吸ってしまっていたのである。
「つったんには言わんといて!」
僕は追い詰められた気分だった。すがるような顔を見せ、なんとか秘密を守るように頼んだ。口の軽い正巳もさすがに僕の切なるようすを不憫と思ったのか、同意してくれたよう。頷きながらタバコを吸い続ける。そして吸い終わって、下に落とした吸い殻を足で捩じりながら、    
「お前、自分の息の匂い、知ってるか?」と聞く。その正巳の声がますます落ち着いてくるように感じるのは、こちらの僻みか・・・また少々上ずった声で、
「匂いしてるか?」と、尋ねる。正巳は、
「当たり前やろ。服にも染みついてるわ」と冗談ぽく苦笑いで返す。そして、「あんまり気にしな」とつけ加えた。
 迂闊(うかつ)だった。「このまま帰るわ。みんなによろしく」と言って正巳が帰ってから、僕はまだ存続している隣の幼稚園の水場まで歩き、何度もうがいをした。汚れた蛍光灯の光が照らす園舎は僕が通っていたころと変わりなく、古い羽目板の外壁が風雪に耐えている。垣根の枝ぶりは相変わらず豊かで、どこからか虫の声が聞こえてくる。水を飲んだせいか少し落ち着いたようだ。それにしても、なんという意志の弱さだ。おまけにそれを隠そうとして、正巳に無様なところを見せてしまった。
 不意に、この間見たフェリーニの『道』のシーンがフラッシュバックしてきた。ジェルソミーナが嘆いている。
「あっ、この顔――この目、この口は僕と同じだ・・・」僕の顔は泣き顔だと・・・面と向かって言われたことはないが、時々誰かがそんな風に言っていたと聞いたことがある。自分でも鏡を見てそう思う。嫌な顔だ。
 この道を歩いて小学校に通っていた――そのころからの己の不甲斐なさが苦い胃液のようにこみ上げてくる。心が硬化したゴムボールのようになった。

 部屋に戻ると、二人は一生懸命勉強していた。満君が、「遅かったな、何してた」と聞いてくれた。Nは僕を見て軽く頷いただけだった。僕は、「正巳は帰った」と二人に伝え、自分の椅子に腰を滑り込ませた。静かな時間が過ぎる。12時近くになって、満君が自転車で帰ろうとした。僕も一緒に出ることにした。家で寝るのは久しぶりだった。 
 家のベッドにあお向けに倒れ込む。適度な硬さが心地よい。といっても寝る気はない。寝れそうにもない。劇の脚本作りも、ましてや勉強などする気がない。結局ルーティン・ワークじみた自己嫌悪に馴染んでいく。長い時間が過ぎる。そして、いつもの諦めがやってくる。嫌なことでも、慣れていれば安心できる?
 見上げた天上ボードにある染みが妙に新鮮だ。いつもは鳥や獣に見えていたのに、今日は目線が別の影を追っている。人の横顔や女の立ち姿が見えてくる。鬱陶(うっとう)しくなって、目を瞑る。静かだ。周りに誰もいないのは、こんなにも静かなことだったのか?家人はとうに寝ている。瞑った眼の中に、Nの顔がぼんやりと浮かぶ。「温かい季節が好きだ」と言っている。僕は寒い方がいいのだが・・・
 Nには他人の思惑などものともしない大胆なところがある。僕は逆に、自分の思いより他人の意向を細心に確かめることを優先している。今更ながら、お互いの違いのあれこれに苦笑する思いだ。それにしてもこんな二人が、こんなに親しくしているとは・・・不思議だ、実に。
 このごろNは、ナンバーワンであること、百点満点であることに拘っている。クラスメートに「がり勉と言われた」と言っていたが、僕に言わすとそんなものではない。Nは完全であること、そのことを全てのことにおいて求めているのだ。全く冗談ではないと思う。でもそのくせ、愛らしいところがあり、「情緒だ、情緒だ!」と叫びながら、床を転げまわって、美しい女・素晴らしい景色・優しい心根を礼賛する。「変な奴!」思わず声が漏れそうになった。慌てて飲み込む。

 実におかしな、そう全く妙ちくりんなノートがあった。
まだ僕らのアジトができる前、Nの部屋に入れてもらえるようになってまだそんなに日が経たないころ、僕は一人そのNの勉強部屋兼倉庫にいた。Nはお祖母さんに呼ばれて出ていた。Nの机は、タンスのようなものが林立している奥にあって、誰からも覗かれない。僕は椅子に座りながら意味もなく部屋の中を見回していた。
 ふと、机の上の小さな本立てが目に止まった。そこに立ててあったB5判の青いルーズリーフが気になったのである。それは分厚く、たくさんのインデックスがまるで鬼の角のように天井に向かって生えていた。後年Nの部屋は本だらけになったのだが、当時は図書館などから借りて読むくらいで、立ててあったのは教科書をいれて20冊もなかった。その中でその青いノートは、一種異様な雰囲気を醸し出していた。僕はよく考える間もなくそれを手に取ってしまった。気が咎めたが、好奇心を抑えることができなかったのである。Nはしばらく戻って来そうになかった。
 とりあえず居並ぶインデックスそれぞれに目を通してみる。「勉強・趣味・体・持ち物・・・」なんだこれは?僕は全く予想がつかぬまま、とりあえず趣味の欄を開いてみた。比較的分かり易いのではと思ったのである。しかし、その欄の最初にあった項目を見たとき、僕はくらっとなってしまった。「口笛――週に一度、テレビ番組の主題歌を吹くこと」とあり、その下に、その際注意すべきことが下手な口蓋の断面図(N自身で画いたもの)と共に列挙してあったのである。中身はほとんど当たり前のこと、言わずもがなのことであった。一例をあげると、「夜十時以降は禁止」である。
 なぜこんなことを書かなくてはならないのだろう。口笛を吹くのが好きなら、適当な時、好きなように吹けばいいだろう。なぜ週一でなければならないのか、なぜ主題歌以外はだめなのか――全くもって理解不能である。
 ページを繰って勉強の欄を開く。まず最初に、「数学(最も大切な教科)」とあり、以下順にページを改めて最下位の英語まで続く。数学の項目を見ると、①幾何とあり、次に②関数とある。気分が悪くなって早々に「体」の欄に移る。身体を鍛えるメニューなどがたくさん記載してある。そしてそれぞれのメニューごとに、やるべきこと及びその回数、注意点、それぞれの用具の収納場所などが列記してある。例えば「歯磨き」では、磨き方やその順序(右上何回、左上何回、右下何回・・・)まで事細かに書いてあった。そしてそれらは文字のようすから見て、日々刻々と追加修正されているようなのである。
 僕は小五の時を思い出していた。初めてそして最後でもあった同席のNが、頻りにメモを取っていたことをである。(僕はそれ故当時Nを密かに「メモ魔」と呼んでいた)Nは・・・ひょっとしてあのころからずっとこんなことを書き続けていたのだろうか?もしそうだとすれば・・・僕は背筋が寒くなると共に、「こんなことをしているより、さっさと単語の一つも覚えれば」とうちの学校の教師が言うようなことまで思った。ほんとに変わっている。
 その後もしばらくこのノートにつき合った。もう逐一言う気はない。書くのが憚られることも結構あったし、こっちが恥ずかしくなるようなことも書かれていた。しかし当時僕は、いやこれは今も同じ気持であるのだが、変だとは思ったものの、嫌だとは決して思わなかった。なんというか真摯なNの姿が、そこに確実にあったからだ。そして同時に、日々増殖するメモの作成に労力を吸い取られているだろうNを本当に案じた。最後のインデックスには「点検」とあり、すべての点検項目が書き出され、決められた日時に点検・評価が行われ、〇△✕が記されていたのである。そしてその上、その項目も日々修正追加されているのである。このこと一つだけで人間の能力を超えていると僕には思えた。

 窓が少し明るくなってきた。まだ睡魔はやってこないようだ。
 いつだったのか?どういう経緯だったのか思い出せないが、毛細管現象というものが、僕ら三人の話題になったことがあった。物理のことなので僕はもっぱら聞き役であったが、Nと満君の話はなかなか聞き応えがあった。満君は真面目なオールラウンドプレーヤーなので、表面張力だったかそんな力でもってその現象が起こることを僕にも理解できるように丁寧に教えてくれた。
 Nは凝り性らしく、液面の高さを三角関数などを使った式で表現することや、有名な科学者がそれに関わっていたことをアナウンスしたが、僕の最も印象に残ったことは、そんなことではなく、Nがなんというか妙な威厳を持って僕ら二人に宣わった「毛細管現象で液体が動くその刹那、それは生命現象とも捉えられるのではないか?」との提言なのである。日ごろからNの言動についてはかなりの免疫力を持っていた僕も、満君も、それを聞いた時には唖然とした。正しいとか間違っているとかではない。目の前のNの発想のとんでもないユニークさにちょっとした恐怖感のようなものを感じたのである。僕はその提言を聞くまでは、「難しい話だがいずれにしても単なる物理現象に過ぎない」とある意味高を括っていたのだった。
 隣のお寺から、カサコソと乾いた音が聞こえてきた。こんな時刻に、和尚さんは何をしているのかと思ったが、すぐに音は消えた。猫か(いたち)だったのだろうか・・・それとも・・・いつの間にか眠っていた。

 休日前の夜の散歩は、僕にとって「ボヘミアンライフ前期」のハイライトだった。僕はその時、約束の散歩の時間がきた犬のようにソワソワしたものだ。ところで、「――前期」というのは、僕らの高校時代と重なっている。不完全ながらも共同生活が一応成立していた時期なのである。ボヘミアンライフ後期は、僕の大学時代と概ね重なる。皆が揃う日がほとんどなくなり、共同生活は不可能となってしまった。遠くの大学に行った者、浪人生活に甘んじた者、皆それぞれの境涯に進んだが、それでも僕らの心には、共同生活を志向する気持ちがまだ灯っていた。年に数回しかなかったが、僕らは極力会うことに努め、その時々の「果実」を得た。
 さて、散歩の時間は夜八時開始が定例であった。うちで夕食をとってNの家に着くとだいたいそんな時刻になるのだ。満君は休みの日もクラブで忙しかったし、休日前夜は「家族との団らんも大事」ということで、この行事はNと僕の二人だけで執り行った。(平日の短時間のものには勿論満君もつき合ってくれた)
 暗い田舎道を気の向くままに歩く。滅多に街灯はなく明かりはもっぱら月明り、星明り。工場や病院などの照明は灯台だ。僕らは何を見ても、何を聞いても楽しかった。そして時が過ぎると共に、町もぐんぐん暗くそしてずんずん静かになり、ついに二人きりの世界になる。冬は星の瞬きが美しい僕の季節だ。『あゝ!心といふ心の陶酔する時の来らんことを!』ランボーの詩の一節が口をつく。僕らは寄り添い、心と心が直に語り合う。春はNの季節、まさに、『六月の宵!十七歳!・・・うっとりするね』だ。そしてNは連呼する、「情緒!」「情緒!」と。Nにとってこのシラブルは特別のもの、体幹から悦びがこみ上げてくるらしい。今もふり向くと、「耳の後ろが暖かくなった」と目を細めている。僕には「情緒」という言葉は、ぴたりとこない。が、それでも歓ぶNには完全に同調できる。春の宵の生暖かい空気は僕にだって優しい。そして、夏は身軽に、秋はしっとりと、僕らは時を食べ尽くす。狂気の旋律が脳髄に湧き、景色は尋常でなくなる。僕は新しい自分を得る。
 高速道路の建設現場に辿り着く。もはや山としか言いようのない砂の置き場が目の前だ。Nが一気に登り始めた。僕はその頼もしさにうっとりする。Nは矢じりのように「今」を切り裂いてゆく。僕も決して遅れない。でも、僕一人だと絶対このようなことはできない。「きっと誰かに見つかり、嫌な目に遭う・・・」と身が(すく)んでしまうのだ。Nは(おびただ)しく砂が崩れ落ちてゆくのに構わず駆け上がり、頂上に立つ。高さは五十メートルもあるのではないか。既に完成した道路が東の山に続いている。西にはまだ手つかずの地所が続く。なんという眺望だ。こんな景色を見られるのは、ほんの限られた人たちであるだろう。部外者でここに立つのは我々だけだ。ほんの束の間ののち、「えい、やー」とNは飛び降りる。一気に十メートルほど落下したのではないか。落ちてゆく姿が大きな鳥に見える。砂が大きく崩れ、その分着地は穏やかだ。すぐさま次の跳躍に入る。僕も続く。落下する時間、僕は十分意識的だ。そして、ただただ爽快である。数回のジャンプでもう地上に降り立っている。でもその時Nは既に次の場所に移動していた。ほぼでき上がった高速道路の高い法面をじっと見ている。
「どうしたん?」期待に声が裏返る。Nの言葉は僕にとって時に啓示でさえあった。
「きれいやなあ、この花なんちゅうんやろ?」優しい声でNが尋ねてくる。小さいころ図鑑をよく買ってもらっていた僕が、花や鳥などの名前に詳しいことをよく知っているのだ。その花は、三十センチほどの細い針金のような茎の先に米粒大の薄紫の花弁をつけていた。法面一杯に群生している。
「分からん、でも、かわいい花やな」
「この色が何とも言えへんなあ、この空の色に相応しいわ」何ともカマトトぶったというか気障というか、ほかの誰かが言ったのなら、僕はきっと眉をひそめていただろう。でもNが言うと、確かに(きら)めく星を散りばめたコバルトの空には、この花の色が合っているような気がしてくるから不思議だ。こんな唄を思い出す。
蓮華(れんげ)摘み摘み花摘んで♬
 今年の蓮華はよう咲いた♬
 お耳を回してスットントン♬
 も一つ回してスットントン♬』という童謡である。通っていた幼稚園で蓮華摘みの季節に皆で歌ったものだ。あどけない唄だが、高校に入ってしばらくしたある春の宵、Nが西の空一面の夕焼けを見ながらこの歌を歌った。低い声で妙に不気味な歌い方だった。そして僕にこう言ったのだ、
「あの桃色の雲に乗って、如来と何人かの着飾った観音がこちらにやって来るような気がする」と。
 すると僕には見えたのだ。Nの声に合わせて女たちが楽器を奏でるうちに、気高い顔の男がすっくと前を見て立っている姿が・・・鮮やかに光輝く薄緑の着物、数々の楽器、僕ははっきりと思い出せる。
 あの時僕はNの催眠術にかかってしまったのだろうか?いや、そんなはずはない。そんな作為的なふるまいはNになかった。自然で素直だった。ではいったいなぜ?・・・この年になって思うことだが、Nの発想には、何か僕らが忘れてしまったプリミティブなものが潜んでいたように思える。そしてそれが周りの者を揺さ振ったのかもしれない。
 こんなことがあった。後年、大学の友人と列車で旅をした時のことである。車窓に夏の夕日が真っ赤に映っていた。熟れたトマトのようなそれは延々と僕らを追いかけ続けて来ていた。その時、僕はついその友人に、「あれは太陽があるのじゃなくて、実は丸い穴で、それを通して向こうの燃える世界が見えているんだよ」と言ってしまったのである。いいかっこして、気の利いたことを言いたかったのだ。実は、ほんとのことを言うと、これは全くのNからの受け売りで、つい調子に乗ってしまったわけなのである。すると・・・というか、ところがというか、その友人が、えらく感心した風に「面白いことを言う。それはどこかのネイティブの考えにもあるよ」と教えてくれたのだ。事程左様にNにはそんなところがあるのである。
 ところで、この高速道路の建設現場は、いわば幻燈の世界であった。名も知らぬその薄紫の花には、夜露が点々とついていた。Nが言う。
「見てみ、水玉に照明灯の光が写ってるわ。あっちにもそっちにもそこいらじゅうに・・・キラキラ光ってる。夢みたいやな」僕はこの時、目の前が法面をカンバスにした作品のように見えた。高速道路のオレンジ色の光を受け、景色は単なる景色を超え、僕はいつもの自分から少し浮遊した。(恍惚としていた。今思う、僕は恋をしていたのかもしれない)
 知らぬ間に夜はどんどん更けていった。夜の散歩は僕らの別世界旅行であった。僕らは見慣れた近所の景色が、夜の魔法によって(きら)びやかな世界に変わる時間を持つことができた。この時間こそ僕にとってかけがえのないものだった。そしてそれはNと一緒でないとだめだった。

 帰り道は難しい話となってしまった。言い出しっぺは僕だったので、文句は言えないが・・・。今夜の素晴らしいショウが跳ねてもNは興奮冷めやらず、いろいろな出来事を反芻し続けていた。僕もそれにつき合って、思い入れを込めて、少し大げさに反応していた。そして、どのタイミングかは忘れたが、「ツー・オブ・アスの世界や!」と言ってしまったのである。
「何それ?」Nが怪訝(けげん)そうな顔で聞く。僕は少し自重して、
「ビートルズの曲や」と淡々と答える。Nは顔立ちがジョン・レノンに似ているのに、当時あまりビートルズに興味を示さなかった「奇特な」人間である。それ故僕は続いて、「つまり、夢みたいなもの」とごまかしておくことにしたのである。しかしこれが誤算となった。
「ふーん。よう分からんけど、夢というより、ショーペンハウエルの世界に近いような気がするわ」とまじめにN。
「えっ、ショーベン・・・何?」
 僕は尋ねながらも、分からないことを言い合って、せっかくのいい雰囲気が汚れた雪のようになってゆく気がした。でも仕方がない。言い出しっぺは僕なのだ。
 その後僕は、Nの『デカンショ節』のデカルト・カント・ショーペンハウエル説、『意志と表象としての世界』論に粛々と聞き入った。正直少し胡乱(うろん)な気がしていたが、僕らはその後共に青き哲学者になって、宇宙の果てとか、肉体と精神とかいろんなことを、好きなように語り合った。いかがわしさはあったが、こんなことを喋れるのはNだけだ。
 夜の散歩には他にもたくさんのエピソードがある。逐一書くのはとても無理なので、いっそのこと全て割愛して、次に昼の散歩のことを書く。これは休日の昼間、長い時間をかけて執り行った。夜の散歩から連日引き続いて敢行したことも多く、当時の僕らのタフさを思うと、今の我が身の体たらくさには涙も出ない。さて、これも二人だけの行事であったが、その理由は先に述べたとおりである。
 概ね、それはN家近くのひょうたん山へ登ることから始まった。ひょうたん山はひょうたんを縦に二つに割ってそれを伏せたような形をした高さ数十メートルの、Nが子供の時から馴染んできた山である。そこからずっと東へ、遠い高原まで分け入るルートがあった。それ以外にも、僕らはよくいろんなルートに立ち入り、様々な景色を楽しんだ。楽しむだけではなく時には恐怖も味わった。とっても高い崖に気負って取りついたものの、突然湧いた死への恐怖で足が竦みどうすることもできなくなったり、とんでもなく透明な水を湛えた淵に出合い、思わず身を沈めたものの、初めは天国ではないかと思った水中の景色が、その深みに地獄を潜ませていることに気づき、身体の芯から冷え切ったこともあった。
 死の恐怖と言えば、Nが死にかけたことを思い出す。夏、自転車でT山の頂上まで登り、汗だくの身体を冷やすため、ダウンヒルと称し上半身裸で車道を駆け下りたのだ。Nが先、僕はその後ろについた。しばらく降りるとNのようすがおかしい。ふらふらしている。「危ない!」。道は川に沿っており、河床は十メートル以上も下にある。おまけにガードレールがない。落ちれば死ぬ。車輪は崖から数十センチのあたりを走っている。「おかしいはずだ!」。Nの首に巻かれたシャツが、風に煽られ顔を塞いでいる。Nは前が見えていない。が、僕には何もできない。恐ろしすぎて声もかけられなかった。
 結局Nは命を長らえた。
 一時は崖から数センチのところまでタイヤが迫った。だが、僥倖(ぎょうこう)とはこんなことを言うのだろう。Nは崖から墜落することなく、なんとかシャツをむしり、ブレーキをかけ路上で止まることができた。僕が追いつくとNが笑う。屈託のない笑顔である。僕は怒りを感じたくらいであった。でも、Nにすれば、最も恐ろしい時のことは見ていないのだから、しょうがないのかもしれない。僕らは休息を取り、僕はできるだけNが怖がるように見たことを脚色して話してやった。
 だが、何より僕の心に残るのは、恐ろしいことなどより、やはりNとの「幻燈」である。何と昼間でもそれは可能であったのだ。それは山登りの途中、今思うと何ということもない昔ながらの農家の前を通りかかった時のことである。僕らは意気軒高だった。Nは弾むように歩きながら家を見つつ、「やあ、高原のお嬢さんのうちだ」と大きな声で言う。するとその普通のおうちの二階に静かに佇んでいるお嬢さんの姿が僕らの脳裏に浮かんでくるのである。それは僕らにとって何も特別のことではない。どこにでもあり、いつでもあること――次から次へと起こることなのであった。そして僕らはお嬢さんに届けよと大声で唄を歌った。僕らの唄にお嬢さんが気づき、窓を開けてくれることを願って。「それはむしろ自己催眠の類だ」などと冷たく言うなかれ。幻術魔術いいではないか!遠い昔にそれを失ってしまった僕は、今は追慕の念を募らせるのだ!
 尤も現実とは皮肉なもので、真っ赤な三角屋根を被ったそれこそまさしくお伽話に出てくるような円筒形の建物を山で見つけ、「これこそ魔法使いの家だっ!」と二人歓喜し、激情に身を震わせ、勇気を奮い、垣根を越え、丘の頂上にある建物に突入したものの・・・なんとそこに見つけたのは、たくさんの本物の銃。「すわ、ここはやーさんの隠れ家⁈」僕らはほうほうの体で丘を転げ落ちる・・・ということもあったのである。
 出かけるのは山ばかりではなかった。自転車で気楽にそちこちに出かけ、そこここの鎮守社で休息をとるということがよくあった。のんびりと静かな鎮守の森のベンチで二人寝っ転がっていると、いつの間にか子供たちに囲まれてしまっているということもあった。Nは子供が大好きで、えらそばりもせず遠慮もせず、心から楽しんで子供たちといろんなことをやり始めるので、子供たちの方もはにかんだり、警戒することがなかった。(当時の社会情勢では、一般的にいって最近の子供のようなことはなかった。つまり、「見ず知らずの者に関わってはいけない」という意識が希薄だったのである)特にNがその辺に転がっているものを適当に使って、昔の遊びを始めると、みんなキャーキャー言って大変な賑やかさで楽しんだものだ。ヒーローになり、子供たちに定期的に顔を見せることを要請された。去り際、名前を問われることもあったが、そんな時Nは「天然居士」と名乗り、まるで月光仮面のように去った。僕はそんな風にはいかず、内心多少、最近の言葉で言う「引いていた」のだが、Nにつき合って「不自然太郎」と名乗った。
 さて、そろそろこの話(昼の散歩)を切り上げ次へと思うのであるが、一つどうしても書き残しておきたいことを思い出したので、・・・ご容赦いただきたい。それはまたまた散歩の話なのであるが、実はその散歩の折に、鉄板定番ともいえるあることを僕ら二人がしていたのである。こう書くと「何か怪しい」と思われる向きもあるかもしれないが、とんでもありませぬ。
 その散歩の目的地は、Nの家から三キロほど離れた山際にある小高い丘で、一面芝生に覆われていた。よく手入れされていて、僕らは立ち寄れば必ずその快適な斜面に寝っ転がったものである。最高の勾配で実に気持ちがよく、なおかつ目の前の景色が開けていて、とても開放的でリラックスした気分に浸ることができた。どうしてこんなに素晴らしい環境が維持されていたかということであるが、実はこの丘の頂上には一アールほどの丸い池があり、農家の人がその池を大切にされていたということなのである。
 僕らは芝生に寝そべり、たくさんの時間をお喋りに費やした。そしてそんな中、いつも必ず話してしまうことが、「僕らは表現者」ということであった。二人意識して、ここへ来た時には必ずその話をしようと決めていたわけではない。背中に感じる芝生のごわごわした感じが僕たちを押し出すのか、目の前の景色がそれを引き出すのか・・・とにかくよく分からないのであるが、僕らはここで必ずそのことを口にしたものだ、それもかなりのパトスを込めて。特に僕は、普段は何においてもNのあとについていくことが多かったのに、この時ばかりは自ら率先して、自分の表現への思いを口にした。Nから、「世界が凍る言葉」というのを聞いた時には、僕にもそのような言葉があると、Nを圧倒する勢いでもって長い時間喋り続けたものだ。
 ところで、「僕らは表現者」ということには二つの意味があった。一つは、「僕らは二人とも表現者として生まれついている」という巨大な自負心であり、今一つは、「僕らは二人とも表現者になりたい」という少し自信無げな願望である。僕らはこの二つの思いの間で、さて、小説家になるか、詩人になるか、ミュージシャンになるか・・・という選択の揺れを含めて、まるで船のように心のローリングとピッチングを繰り返したのである。

 さて、話は高二の夏休みである。休みゆえ僕らは当然よく会ったが、皆それぞれに結構忙しい日常もあった。久臣君は甲子園出場をかけた県大会に三番ショートというチームの要として出場し、大活躍であった。学校創設以来初めて準決勝に進み、その時はNとたあちゃんが球場まで応援に行った。結果は残念にも敗退ということであったが、部員一丸となって捲土重来を期している。僕と満君は、秋の文化祭めざし油の乗り切ったところ。正巳は意外にも進学塾の信州合宿という最も柄に合わないところに出かけていた。Nとたあちゃんについては、ともに鵺(ぬえ)のようなところがあり、僕にもよく分からないところがあった。(尤もたあちゃんは例の女のことでバタバタだったろうが)
 そんな夏、もう休みの終わりのころであったろうか、僕とNは満君の家を訪れることになった。Nは中学校の時から時々訪れていたようであるが、僕は初めてだった。ところが今回の訪問については、そのリーダーシップをとったのは僕である。これにはわけがある。実はNと満君の間にちょっとした軋轢(あつれき)があったのである。
 優しい満君と、良くも悪くも自由でおおらかなNと、気ばっかり使っているこの僕にとって、長い時間の散歩は三人共通の話題に上ることなく経過していった。満君から「どこへ行ったの?」くらいは聞かれたと思うのだが、Nはきっと淡々とどこへと答えて終わりだったのだろうし、僕は適当なことを言って済ますようにしていた。このような状況を破ったのは、Nである。
 忘れてしまったが、その日は何か特別の日であったようで、僕ら二人が長い散歩から戻ると満君が部屋にいた。おまけにその日の散歩はあまりに「情緒的」で、部屋に戻ってもNの興奮は醒めなかった。上気した顔のNは、その日のことをぜひ満君に伝えたいとの思いを身体中に溢れさせていた。しかし、満君は全くいつものように静かに机に向かい、勉強に勤しんでいた。僕はこれも満君の優しさ故だと思っていたのだが、Nが爆発してしまった。
 Nが満君に言い募ったのは、「せっかくのボヘミアンライフなんだから、一度くらい散歩にもつき合えよ!」ということだ。(ここでいう散歩とは、件の長時間の散歩のことである)対して満君の言うのは、「申しわけないけど、どうしても夜や長い時間は無理だ」ということである。常識的に言えば、「一年のうち、一回や二回無理してくれてもいいだろ」ということになるのだろうし、全くフリーな休日がないというのも変である。現に今日はここにいるではないか・・・僕は、満君には僕らに言いにくいことがあるように思えた。
 このちょっとした事件は、極めて印象的な結末を告げた。ジェントルマンの満君がまるで駄々っ子のように部屋の押し入れに閉じ籠ったのである。そして、帰る時間がくるまでいっかなそこから出てこなかったのだ。こんな姿を見せる満君は今までなかった。常に満君は自制的であったのだ。一方、Nは全くの知らんぷりを決め込んで、斜交(はすか)いの方を向いたままだったし、僕は、こういう両雄並び立つという局面では全く無力だった。
 じりじりと時は過ぎ、とうとうもう帰らなくてはならない時刻となった時、押し入れの戸が静かに開き、青白い顔の満君が、押し入れの上段から音もなく飛び降りた。そして、淡々と帰り支度を済ませ、僕の方を見て、「人は、群れたがる動物やから・・・」と小さな声で言った。そして、何も言えずにいる僕の脇を通り、未練気なく、部屋を出て行った。Nは向こうの隅で本を読んでいた。
 自転車のガチャガチャという音が消えて初めて、僕は「えらいこっちゃ!」と思った。つまり、ここは何が何でも自分が前に出て、早急に二人の関係を修復しなければならないところだと覚悟せざるを得なかったのである。それにしても僕には荷が勝ちすぎる局面である。実際ついさっきもなんにもできなかった。でくの坊のようにじっとしているだけだった。Nの変わらない仏頂面を尻目に、僕は「どうしよう、どうしよう」と心の中で呟き続けていた。
 というわけで、二人の間に入った僕は、一念発起してこの訪問を段取りしたのである。「とにかく夏休みのうちに、できるだけ早く二人を会わせなければならぬ」というのがただ一つの僕の考えだった。ほかにどうこう考えても無駄なことのように思えた。Nと満君のつき合いは、僕なんかよりずっと長い。その二人が直接会ってだめなら、その時はその時といささか投げやりに腹を括ったのである。
 満君のうちは、僕らの仲間内では最もハイブラウで、お父さんが会社の重役、お母さんは小学校の先生、お兄さんは京都大学理学部の大学院にいる。そんな風に聞いていた僕は、Nに教えられたその家が思いのほか小さいのにまず驚いた。勿論二階建てのしっかりとした造りではあったのだが、僕は勝手に大きな門構えの大邸宅を想像していたのだ。門はなく、玄関が直接道に面していた。
 僕らはまだまだ暑い中、長い距離(五キロ)を歩いて乾ききっていた。特に汗っかきのNは背中がべとべとで、もう我慢の限界だったのだろう、着いて玄関を開けるや、出てきた満君に「水くれ!」と大声で頼んだ。遠慮も何もないものである。それどころかあの軋轢(あつれき)の片鱗も伺えない。すると、奥の部屋で聞いていたのかお兄さんが、「喉乾いたやろ、ちょっと待って」と満君の後ろから顔を出された。少し変わったイントネーションだった。満君は珍しく顔を少し歪ませながら、玄関脇の応接間に僕らを案内してくれた。僕はもう満君にはそれ程のNに対しての悪感情はないと思っていたので、(事前の連絡のため、電話で話した折に感じた)この顔つきは合点がいかなかった。
 重厚な造りの洋間に入ると、ピアノが目に飛び込んできた。Nは、何を思ったのか、さっとピアノの丸椅子に向かい、そこに腰をかけた。僕と満君は高価そうな皮のソファーに座った。(ひょっとしたらNはソファーに汗をつけたくなかったのか?)ソファの前にガラス製の小机があり、上に象嵌(ぞうがん)の宝石箱のようなのが置いてある。僕はつい蓋を開けた。たばこがぎっしり詰まっている。慌てて閉める。目のやり場に困って周りを見回すと、壁にたくさんの賞状が飾ってある。お父さんらしき名前やお兄さんのものがある。お母さんや満君のもあるようだ。突然、譜面台に立ててある楽譜に目を向けていたNが、「なんやこれ?」と珍妙な声を上げた。
「どうしたん?」と怪訝(けげん)に思って尋ねる僕に、NはA4サイズの紙が入った透明なファイルを手渡した。それは楽譜ではなかった。英語の文章ではあるが、びっしりと僕の大嫌いな数式も書き込まれている。僕は汚いものみたいにすぐさまNに返す。Nはじっと目を凝らし、「きれいやなあ、何かの証明らしいで・・・QEDって書いたる」と呟く。さっきから落ち着かなそうにしていた満君が、辛抱が切れたように、「出よ!」と声を荒げ、さっと玄関に向かう。こんなにせっかちな満君も初めてだ。つられて僕らも部屋をそそくさと出る。
 玄関の敷居を越えたその時、お兄さんが顔を出す。ふり返った僕に「これ飲んでいき」と、お盆を差し出してくれた。氷の入ったコップが三つ載っている。「すいません」と外から戻ったNが早速一つ取り、一気に飲み干す。「おいしかった!」と言うのと、お兄さんが「ブルマン一気に飲むとは・・・たいしたもん!」と言うのが同時だった。お兄さんの声は笑っていたが、目は丸まっていた。満君は「さあ、行こ」とじれったさそうに再び声を荒げる。
 玄関を出て、家の周りに沿う道をぐるっと回り裏庭に入る。垣根はない。勝手口から小石を敷いた小径が伸びている。なかなかの趣きだ。隅にベンチが設えてあり、三人そこへ腰を下ろす。Nが盆を見つめながら、「ブルマンって何?」と聞く。満君がむっつりしているので、僕が「高いコーヒーや」と答える。「ふーん。一気に飲んで悪かったかな」と、Nがしんみり言った。
「ええよ、気にせんで」満君の声が優しく返る。ベンチと反対側の隅に手入れの行き届いた大きな百日紅の木があり、満開の花のピンクが美しい。ひっそりとした午後、夏の終わりという感じである。水溜まりのような池が目の前にあって、そこに一匹小さな青ガエルがプカリと浮いて僕らを見つめている。僕らも黙って見つめ返す。誰も何も喋らない。静かな時が流れる。でも、僕らの心の中は揺れていた。それぞれにいろんなことを考えていたに違いない。僕は苦いコーヒーを啜りながら、満君のお兄さんの目が少し青く、日本人離れしていたのを思い出していた。
 しばらくして満君が、「プールへ行こう」と言った。
裏庭の前を広い道が通っており、その斜め向こうに、ある宗教団体の持つ大きな競泳場があった。今と違って当時出入りは自由で、コンクリートの階段を三・四階分も上ると、擂り鉢状の観客席の頂上に出る。風が強い。眼下に50メートルプールが見える。大勢の水泳部員らしき学生がいた。その右隣には県下では珍しいダイビングプールがあり、深い緑の水に次から次へと飛び込む姿が見られた。満君はよくここに来ているようで、慣れたようすで水しぶきが上がるのを見つめている。隣にNがちょこんと座り、何やら話しかけている。満君も相槌(あいづち)を打っている。僕は二人から少し離れ、一人物思いに耽る。
「人は群れたがる・・・」って、満君はそのあといったい何を言いたかったのだろう。あの日僕らに立った波風、そのいわば捨て台詞だったこの言葉の本当の意味はなんなんだろう。あの日から一人、僕はこの言葉と向き合ってきた。いつものようにNに、意見を(ただ)すことを封印したのだ。つまり僕は、Nに話せばそれは依怙贔屓(えこひいき)のようになると考えたのである。かと言って僕には、満君に直にそれを聞くという、いわば率直で真っ当な方法をとる勇気もなかった。今日も僕は二人の斜め後ろで、「あの言葉は僕らに対するもの?」あるいはひょっとして、「満君自身に言いたかったこと?」などと、ああでもないこうでもないと、うじうじ考え続けるのみであった。
 中学時代のあの勉強会に満君がやって来た時、僕は新しい文化がきたと思った。満君のすること――例えばお菓子を持ってくること。そして、上品な所作とか言い回しなど――そんな一切のことが僕には本当に新鮮だったのだ。勿論満君だって怒ることはあった。特にNに対しては声を荒げて叱ることも珍しくなかった。でもそれは謂わば男らしいストレートパンチとでもいうようなもので、あの日そして今日と、満君が見せた屈託というか、いつもの満君なら決して見せない苛立った顔つきに表れていた屈折したものとは異なっていた。
 二人は仲良く語り合っているようだ。僕は、とりあえず目的は果たせたのでは――と少し自分をいたわった。これで何とか満君は僕らのアジトにまた来てくれるのではないかと期待できたのである。50メートルプールでは、リレーが始まりそうだ。整然と行われていた練習が終わり、コースごとに部員が集まっている。時計を持った者が散らばり、妙にざわついている。同じグループ同士で互いを鼓舞し、隣のグループを威圧するかのように、聴き取れないが大きな声を出している。先程までは、みんな一つになって和気あいあいとしていたのに・・・緊張感が高まる。
 僕は不意に、満君の見せた苛立ちのようなものは、僕と同種のものではないかという霞のような思いに憑かれた。そしてその思いはだんだんと僕にはしっくりとするものとなった。僕はずっと父に「怯えて」きた。といって我が父は決して暴力を振るったりはしない。僕は父に小突かれることさえなかった。これは僕の弟も同様である。むしろ僕らは優秀な父に感謝していた。でも一方で、僕は苦しんできた。母や弟に対しては全く感じなかった父への緊張感にである。不思議であった。僕から見て、弟や母は父に対してフランクであった。どうして僕だけがそうなれないのか?
 片や中学以来、満君と知り合ってから、「満君はそんなことはない、満君の家は円満に違いない」と僕は勝手に想像してきた。満君の持つ上品さ、穏やかさ、優しさが、自然と僕にそのような思いを抱かせたのだ。そしてこれは決して僕だけのことでなく、皆も同様であったと考える。
 しかし、今日満君の家のようすの一端を垣間見て、僕の今までの思いは随分とずれたもので、本当はお父さんやお兄さんあるいは家族全体に対して――分からないけれど――満君も何か憂いを持っているのではないかという気がしてきたのである。勿論これは僕の勝手な思い込み、いや偏見かもしれない。でも正直僕にとって、満君の家の重厚な雰囲気や満君のお兄さんへの態度はそういったことを想像させうるものであったし、先日のあの軋轢(あつれき)もひょっとしたらそこに一つの原因があるのではないかという気さえしたのである。僕は無邪気に新しい文化がきたなんぞと思っていたけれど、あの当時も今も満君の現実はそんなものじゃないのかもしれない。満君は必死の思いで久臣君の家やNの家にやって来たのではないか?僕は満君を思い遣って、なんだか悲しいような淋しいような気分に陥ってしまった。
 競泳のスタートの笛が鳴った。Nと満君は競技に釘づけになっている。
「・・・案外、Nはそのことを知っているのではないか?」並んでいる二人の背中を見ていると、そんな気がしてきた。Nは僕なんかよりずっと昔から満君とつき合っている。どのような出会いであったのか知らないが、たぶん二人の気が合ったのだろう。少なくとも僕のように誰かの付録でつき合い始めたのではないだろう。それに僕は数少ない満君嫌いのひねくれ者でもあった。・・・そうだ、あの「人は、群れたがる――」への僕の考えもとんでもないもの⁈・・・敏感なNはきっと満君の家の何かを知っているに違いない。
 いったいにNは今の言葉でいうKYで通っている。初対面の人間がまごつくような言動がとても多い。だから、友達の数はとても限られている。僕だって、いや僕こそNが苦手だったのだ。でも、親しくなると、そんなNの相貌が全く違ったものになる。Nとは世間知らずだが、実に繊細で敏感で純な人間なのである。しかもそのことを隠そうとする。
 ある日、僕の知人とNと四人で会うことがあった。その時僕は、知人たちがNを誤解したのがよく分かった。そしてNは知ってか知らずか、その誤解に対して全く何の対応もしなかった。知人たちが帰ってから、僕はNに、「そんな風にしてたら、誰もお前のこと、理解してくれへんぞ!」と珍しく忠告した。しかしNはその時、淡々と「ええねん」と一言呟いただけだった。毅然としたNの顔は「結果は引き受ける」と語っていた。Nは「空気が、読めない」のでなく、「空気を、読まない」のだ。
しかし何より僕は、Nがどうこうという前に、まずもって直接満君に、あの日の言葉の意味を聞くべきだったのだろう。胸襟を開いて話をすべきだったのだろう。しかし僕はこの日、白熱するリレーを観戦しつつ、「またいつか話そう、その時、直にいろいろ聞こう」とそのチャンスを見送ってしまった。何やらますます親密に話し合う二人の後ろで、僕は「今日はNと満君が仲直りしてくれただけでいい」と、強い風に当たっている自分を心地よく思っていた。浅はかだった。

 二学期は行事行事の日々であった。自分が教員になって、このことの切実さがよく分かったが、勿論当時はただ楽しい日々が過ぎていっただけである。文化祭は成功した。客観的に言っ
て、脚本が良かったのだが、これは我が父の功績が半分以上あるので、大きな声では言えない。
それより僕が何より嬉しかったのは、カーテン・コールで皆が舞台中央に集った時の、身体がぞくぞくした快感である。甚だぼんやりとしていて、儚いものだったが、ここにこそ僕の本当のやりがいがあると感じたのかもしれない。そして、その後の一種の虚脱感が過ぎたころ、僕らは修学旅行の季節に入った。それぞれの高校によって、時期に多少のずれはあったものの、僕らはそれを同じ時期だと捉える感覚で共に過ごしていた。
 そんな僕らの最大の関心の的は、女の子のことであった。「誰と旅先でペアになり、例えば渚を一緒に散歩するのか」これはやはり、僕らをワクワクさせる事柄であったのだ。僕らは折に触れ、学校の中でも外でも、噂話に興じ、互いの話に興奮した。さてその結末は?一挙に報告といこう。
 たあちゃんは、恋人と共に、(紆余曲折はあったが、もはやガールフレンドという段階ではなかった)修学旅行の実行委員という全く柄にもない役を嬉々としてこなし、旅行中は周りが当てられまくったらしい。もはや結婚を待つのみと言う輩さえいた。久臣君はモテるので、女の子から引く手あまただったらしいが、本人は博愛主義で、特に誰をということなく、みんなと旅を楽しんでいたとのこと。正巳は出発前多くの候補の中から、どの娘をペアにするかの算段に夢中だったが、旅先ではパッとしなかった。このごろ少し鼻っ柱の強さに陰りが出てきたようだ。僕は旅行直前突然、クラスのあまりよく知らない娘から「ペアに!」との申し出を受けた。なんとなく引き受けてしまい、旅先では仲良く行動していたのだが、旅のあとでは全くの没交渉となった。別れて寂しいとかの感傷は全然なかった。いったいあれは何だったんだろう?Nは残念なことに理系の男子クラスだったせいでか、浮いた話は聞かずじまいで、満君については、本人からも周りからも情報が入ってこなかった。いったいどうしていたのだろう?
 さて、そんなこんなで時は過ぎ、気がつくと僕らは冬の季節にいた。そのころのことで思い出すのは、夜のセブンブリッジの会である。といっても、セブンブリッジはそのころだけに限ったものではなく、本当によくやったものなのだ。今、手元に残っている古ぼけたスコアを見ると、当時のことが蘇ってくる。Nと僕が固定メンバーで、たあちゃんがよく来ていた。正巳と満君がそれに続いて、久臣君の名はほとんど載っていない。最も強かったのは正巳で、ゲームに真剣に取り組んでいた。案外弱かったのはたあちゃんで、勝負への拘りがなかった。それにしてもたあちゃんは変わった。小さいころから無口で、何を考えているのかよく分からないような子だったのに、最近は本当によく喋る。それもほとんど露骨な下ネタである。
 親がカードを繰って机の真ん中に置き、子の中でそれが気に入らない者は、適当にカードの山を割って積み替える。しかしたあちゃんのスタイルはちょっと違い、いつも黙ってプロみたいな手つきで「トン」とカードの山を突く。即ち、「これで結構」との合図なのである。ところが、どんな時でもこのやり方を遵守していたたあちゃんが、いつの間にかその時に、「オ○コ」と叫ぶようになった。僕と満君は苦笑い、Nは無視、久臣君は優しく「止めやー」と言い、真面目に怒るのが意外に正巳であった。僕はきっとこれは彼女ができたからだと思う。たあちゃんの身体からそのことからくる自信みたいなものが滲み出ているような気がするのだ。
 お金も賭けずにだらだらとゲームは続いた。手を作るのが楽しくないわけではないが、それよりも、皆で噂話をしたり、ほらを吹き合ったり、くだらないお喋りに興じることが何よりだった。久臣君も満君もごくたまにではあるが、夜明け近くまでつき合ってくれた。それにしてもみんな一癖も二癖もある連中だ。空中分解はいつでも起こりえた。それが起こらずに済んでいたのは、僕はNのおかげだと思っている。
 みんなで面白おかしくやっている時にはそれ(Something important)は深く沈んでいて、まるでないようにさえ見えるのだが、一旦ことが起こったら、例えば失恋など誰にも言えないようなことを話したくなったら、僕らはそれを求めNのもとへと走った。それは非日常的で、明るいお日様の下では恥ずかしくて正視できないようなものであることも多いのだが、僕らは時々(頻繁に)それを切望する破目に陥る。Nはそんな時、いつでも何でも、今の言葉で言うとウエルカムであり、広々としていた。そしてその折、僕らはNの心の深いところに届くように、己の心を見据えつつ、言葉を紡がねばならなかった。非日常の世界に降りなければならなかった。僕にはそのこと自体が貴重な経験であった。もし楽しい時間だけのつき合いであったなら、僕らはとうに空中分解していただろう。こんなことがあった。
「『橋のない川』という映画を見よう!」と勧められたり、逆に上映阻止の議論を求められるという錯綜した状況がクラスにあり、クラス会で話し合うということも珍しいことではなかった時期のことである。
 どうしてこの話が僕のところへ届いたのか思い出せないのだが、「たあちゃんが、お父さんに『お前はこの映画の村と同じや』と言われたと、Nに伝えた」ということを聞いた。話の中身は、その時、たあちゃんのお父さんはあっけないほど淡々としたもの言いをされたということ(たあちゃんは返答も何もできなかった)と、その直後たあちゃんが、「なんで俺がちっさい時から今まで、周りの大人から『おとなしせい、おとなしせい!』と言われ続けてきたのかやっと分かった」とNに打ち明けたということであった。僕は思うのだが、もしこの時たあちゃんのそばにNという存在がなかったとしたら、たあちゃんはきっと自分の身を保つことに、とんでもなく苦労したと想像する。
 実は僕にも同じようなことがあって、それはもうかなり以前のことなのであるが、Nと自分たちの家族について話すうちに、自分の出自に関わることについてNに話してしまったのである。僕は話すうちに感情が激してきて、異常な行動をとってしまった。この時、Nがずっと僕につき合ってくれていたことは僕の生涯における僥倖(ぎょうこう)の一つである。そして、久臣君や満君、それに正巳だって、きっと皆の前では話せないことをNには伝えていたのだろうと思う。僕らにとって、Nは全く規格外の友人であるとしか言いようがない。
 高校時代も最後の年となった。今このように当時のことを綴っていると、もう忘れてしまっていたことがいろいろ思い浮かぶ。僕は高三の時も高二の時と同じように過ごしていたと思い込んでいたのだが、資料に目を通したり、改めて振り返ってみると、やはり高二と高三とでは違いがあった。まず何よりも大学受験を巡る様々なことに時間を取られ、いろんな「僕らのエピソード」の量が絶対的に減っていたことである。
 そんな中、Nに異変があった。四月早々恋の病に(かか)ったのである。Nは高二では男子クラスであったのだが、高三では学年で唯一の理系男女混合クラスになった。そしてそこに五百人近くの高三生徒のうちたった九人の女子がいた。その中の一人にNはいかれてしまったのである。Nよりの山程の「情報」によると、彼女は小柄でとてもかわいくて、何より声がいいとのことであった。(因みにこの声がいいということがNの今後の恋愛においても重要な要件である)
 とにかくNは喧しかった。僕と満君が一生懸命勉強している横で、ベッドに仰向けになり、いかにその娘が素晴らしいかを吠えまくるのである。僕らははた迷惑に思いながらも、(特にこの熱中の最後期にはほとほとうんざりしつつも)勉強に一段落着いた時には恋の繰り言に涙ぐましくもつき合った。僕はNに、ただただその娘のことを思い続けることの大切さを伝えた。実は、僕は高校の初めのころ、通学時に見かけるある娘を気に入り、密かにその娘のことを思い続けていたのだが、ついに高三では同じクラスとなり、このごろでは何人かで喫茶店に入るような間柄になったのである。無論このことは誰にも言っていなかったが、なぜか正巳がその事実を知り、めちゃくちゃ羨ましがっている。その娘はわが高校のマドンナなのである。そして、満君はただひたすらにNの機嫌を壊さないように努めていた。
 それにしても満君は不思議だ。誰が好きだとか、誰からアタックをかけられたとかいう類の話が全く聞こえてこないのだ。勿論僕らも露骨にそんなことを問い詰めるような野暮なことは、誰にだってしはしないが、今となっても「?」である。しかしまあ、このあたりのことは久臣君もおっつかっつなので、結局すごくモテる男はこんなものだということかもしれない。ところでNのこの熱狂は一学期の終わりに急に冷めた。Nはその理由については教えてくれなかったが、僕は、Nの女の子への思いに、僕とは決定的に違っているものを見てしまった気がした。

 70年万博は、六人全員揃っての、ボヘミアンライフ前期最後の楽しいイベントだった。高三の夏の終わりの一日、僕らはたあちゃんのうちに集合した。みんなそれぞれ珍妙というかとにかく個性的な恰好であった。僕は父親から貰った本物のUSアーミーの迷彩シャツにブルージーンズ、そして、レイバンのサングラス。何とか都合をつけてやって来てくれた満君は、アイビールックで決めている。たあちゃんと久臣君は、実におとなしいポロシャツとスラックスで、Nは一昔前の体操服姿だった。正巳は、上等な生地のパンタロンスーツのようなもの・・・つまり、ホストのような感じである。
 六人ガヤガヤやっていると、隣の小屋からたあちゃんのお父さんが出て来られた。みんなのようすを見て、ちょっと驚いた顔をされたが、すぐにこにことNや正巳に話しかけられる。Nも正巳も実に紳士然と返答しているのがおかしい。僕の方を一瞥されて、「ちょっと待って」とたあちゃんに言うと、そのまま家の奥へと入っていかれた。しばらくして出て来られたら、手に鼈甲製の高価なサングラスがある。そして、たあちゃんにそっと渡された。たあちゃんはちょっと照れた風で、つっけんどんなようすで受け取ったが、ほかの五人は知らんぷりして、視線を外した。
 路地を抜け広い道に出ると、大きなステーションワゴンが止まっていた。こい茶色で渋い・・・なかなかいい感じである。久臣君が親戚から借りてきたのだ。久臣君はみんなの中で一番の早生まれで、18歳になるとすぐに免許を取っていた。早速助手席に正巳が乗り込み、その後ろに僕と満君、後部席には、Nとたあちゃんが座る。車が動くと、誰かが何か一つ言う度に、別の誰かが何か言い返す。そしてすかさずまた別の者が茶々を入れる。喧しいこと(おびただ)しい。みんな自分たちだけの初ドライブに酔っていたのだ。僕も浮き浮きしていた。
 不安に思っていた久臣君の運転にもだんだん慣れ、安心して車窓の景色を楽しんでいたのに、急に空模様がおかしくなってきた。ちょうど生駒山の山腹を走っている時で、急に周りが暗くなり、空気がざわざわしてきていた。窓に砂のようなものが当たるチリチリという音がする。頂上に近づくとにわかに沛雨となった。そして、雷雨となる。突然、久臣君が「前が見えへんから、脇に入る」と言う。確かにワイパーが激しく動いているのに、前のようすがよく分からない。道を少し入り、農機具小屋のような小さな建物の前に車を止める。途端に今まで聞いたことがないような大きい雷の音が響く。時々、薄暗くなった周りのようすが一瞬だけハッキリ見える。稲光だ。六人為す術もなく、声も出ない。雷の鳴る間隔が短くなってくる。恐怖感が高まる。なんとか早く過ぎていってくれることだけを願う。
 しかし、願いは聞かれず、雷はますます激しい。そして、すぐ近くに雷が落ちる。閃光が目を刺し、爆音が耳をつんざく。次々に落ちる雷、僕は白い煙のように見える光の中に浮かぶ六人の影が、もはやこの世のものではない気がした。そしてついに連続する雷に観念したのか、正巳が外へ出ようと声を上げる。「車は雷が落ちやすい!」と切羽詰まった声。それを聞いて皆浮足立つ。確かに車は金属の塊だ。一気にバラバラと跳び出して、外の小屋の軒下に避難する。小屋は藁葺きで、僕らは束の間安心する。「藁は電気を通さない」。しかしである。その屋根のすぐ前には電線が走っていた。僕たちは、間を置かず、次々にそこに数え切れない程の雷が落ちることを体験することになったのである。はっきりと稲妻の筋が見え、腹わたを揺すぶる衝撃が続きに続く。僕らは、化石になったようにただそこに立っているしかなかった。「もはや我が身に雷が落ちることを避けることはできない」皆そんな風に感じていた。
「ガタガタ・・・」後ろで戸を動かす音がした。ふり向くと気の良さそうなおじさんが驚いた顔をして、
「何してんの、こんなとこで?」と聞く。僕らは、ほかにも人がいたとホッとする思いで「雷を避けている」と答えると、
「車ん中に入ったらええのに!」と前の車を見て言う。「車は危ないのでは?」と尋ねると、「車の中は安全!」とのこと。僕らは礼もそこそこに車に跳び込んだ。「なんや、あほらしい」皆異口同音に呟く。正巳は赤面していた。
 間もなく雷も雨の勢いも収まってきて、再び車を出す。すぐに山頂の県境を越えた。驚くことに、こちらはカンカン照りの世界である。一滴の雨も降った形跡がない。前を走る車の後ろに埃が立っている。六人は六人とも全く狐に化かされた気分だった。誰も口を利こうともしない。ただ久臣君は仏頂面の面々の中で一人冷静で、遅れた時間を取り戻そうと、新しくできた高速道路に乗り、軽快に車を飛ばしていた。僕は眼下に広がる大阪の街を眺めながら、もう雷なんて怖くなくなるだろうなと思っていた。

「何、あの屋根?でかすぎるやん」
「まだ、『太陽の塔』の目ん玉の中に人いるのかなあ?」
「あの大きなパビリオン、ソ連の?アメリカの?」
会場に着くと、さっきまでの塞いだ気分も解け、再びそれぞれが口喧しくなってきた。六人ともこれが初めての万博ではなく、学校の遠足や家族でここには来ているのだが、仲間だけという高揚感で、初めて来たようなことを言っているのだ。僕も知っているのに知らないふりで色々喋っていた。こういうのをいちびり(お調子者)というのだ。まあ、会場は広すぎて、初めて見るところもたくさんあったのだけれど。 
 入場のゲートを入って、皆で「どこへ行こうか」と相談する。久臣君が珍しいことに口火を切って、「月の石を見たい!」と言う。六人とも月の石は見ていないので、「じゃ行こうか」となりかけた。そこにN。
「月の石も地球の石もおんなじ宇宙の石やんか」と可愛くないことを言う。
久臣君が、日に焼けた真っ黒い顔を綻ばせ、「せやけど、そこまで行ったというのがええねやんか」と諭すように言う。そして続けて、「つったんは、どこへ行きたいねん?」と尋ねる。
「混んでるとこは嫌やねん」とちょっと申しわけなさそうにN。するとそれまで静かにしていた正巳が、突然「インド館へ行こ!」と主張した。みんな一斉に正巳を向いて「なんでや?」という顔をする。すると、「いっちゃんの美人はインド人や。絶対握手したい!」と宣う。
 だいたいこの六人が農協のように団体行動をとるなんてあり得ない、それは重々分かっていたことであったのだが、折角六人揃ったのにこんなことになってしまうのは、ちょっと寂しい。
 結局、Nには僕がつき合い、たあちゃんが正巳に同道することになった。たあちゃんは本当はNと一緒で空いているところに行きたかったようなのだが、正巳はたあちゃんに対しておっぱいを欲しがる子犬のように(まと)わりつくので、優しく諦めたようなのである。そして、久臣君と満君は二人、アメリカ館の長い行列に並ぶことになった。
 Nと僕はフランス館に赴いた。何といっても、僕らにとってボヘミアンライフといえば、モンマルトル、フランスだったのだ。Nはいつかフランスあたりへ放浪するという夢を心の中に飼っていたし、僕もそんなNについていく気ではいたのである。しかし今のところこれは全くの夢であり、日々日本の片田舎を、ドン・キホーテの如くフランスを夢見て彷徨(さまよ)う僕らにとっては、むしろ誰かが歌った『ふらんすはあまりに遠し せめては・・・』の方がぴったりしていた。
 比較的短時間で入館することができた。入り口にシルヴィ・ヴァルタンの動画がある。Nは誰だか知らないと言う。奥に進むと、大きなカウンターがあって、多くのコンパニオンが忙しそうに接客していた。そこで僕は今まで見ることのなかったNの姿を見ることになった。それは外国人に対する異常ともいえる程の強いNの好奇心である。というか恥ずかしいばかりのコンパニオンへの擦り寄り方なのであった。ここで自分のことを言わせてもらうと、僕は幼少期から多くの外国人にまみえてきた。テレビの英会話の番組に出演している有名人もよく我が家を訪れた。つまり父の職業故である。己の成長の段階に従い、外国人に対してその都度いろいろな思いを持ったが、このごろでは特に何も感じなくなっていた。外国人といっても、特段の思いはなかったのである。
 ところが今、僕とは真逆ともいえるNのコンパニオンに対する「ミーハー的」積極性に触れて、僕は「引く」という感じになるとともに、その幼子のようなつまり曇りのないNの態度に息を呑む思いもしたのである。二人の外国(人)への思いの違いを、あえて俗っぽい言い方で言うと、Nは純情可憐、僕は擦れっ枯らしということになるのかもしれないが、(そしてこの違いは、将来の二人の間に生じた擦れ違いの一因でもあったように思える)僕は、取りあえずその時は、「サングラスを持ってきて良かった」と思いつつ、白々しく対応するだけのことで終わった。
 どんどん話しかける。しつこくつき(まと)う。そのコンパニオンが衝立の内に入れば、別の人にアタックする。あれっ!不意にNが左手を出した。その手のひらを、求めに応じてカウンターからわざわざ出てきた細身のコンパニオンが広げ、マジックペンで何か書く。Nはこれまで見たことがないようなニコニコ顔だ。気になったので、離れていた僕も近づいて、何が書かれているのか見てみた。顔を綻ばせたNが手を突き出してくる。緑色のサインペンで書かれた文字が並んでいる。残念ながら意味は分からない。「何、書いてもらった?」と問うてみる。「名前らしい!」とNが、涎が垂れるのではと思う程嬉しそうに答える。
 まるで大鵬や王選手にサインを貰ったかのようではないか。小学校時代のあの冷たい表情と薮にらみのような視線に慣れた者にとっては、なんとも納得できない気分である。散歩途中で子供たちと遊んだ時にも感じたことだが、僕はこんなNはあんまり見たくないのである。気障な言い方だが、Nにはクールでいて欲しいのだ。   
 約束した場所に遅れて着く。もうみんな揃っていた。たあちゃんの顔が苦虫を噛み潰したようだったのに、正臣が実に満足気だったことが、印象に残っている。帰りの道中のことはほとんど覚えていない。今となって改めて思うのは、「この日を境に、Nと満君が近い将来外国に行くということを強く意識しだしたんだ」ということである。Nはいうまでもないことであったが、満君はこの後、真剣にアメリカ留学を考え始めたようであった。アメリカ館で何かを感じたのだろうか。

 僕たちは、三年前もそうだったように受験勉強にだんだんのめり込んでいった。いや僕たちとは言えない。久臣君は就職がほぼ決まり、そこの野球部で頑張るつもりでいた。とにかく僕らは、それぞれの自分だけの生活に重心を移していったということであり、万博行き以後六人全員が揃うということもなかったのである。余談であるが、一度僕らのアジトにあの小学校時代のボスが顔を見せたことがあった。満君が連れて来たのである。二人は同じ高校で、よく話したりする間柄であったらしい。その折、Nがかつてを彷彿(ほうふつ)とさせる見事な超然さで優しく接したのに対し、僕は、ボスの機嫌を取ることに努めた。「なんともはや!」・・・ついでに言っておくと、あの当時ボスの手足となっていた者たちは、いつも僕に会うと口を極めてボスを罵っていたのである。それにしても、満君はいったいどういう考えだったのだろう?
 受験組のようすを少しまとめておくと――正巳は東京の私学に行くということで、信州や神奈川あたりでの受験合宿によく参加していた。大層な金が必要だが、両親は喜んで負担してくれるらしい。たあちゃんによると、「また、見栄張って・・・」ということだ。満君は勉強もしていたが、クラブ引退後も後輩のために自主的に練習に参加していた。何事によらず悠々としており、そばにいると受験ということを一時忘れることができた。たあちゃんは彼女とのデートに夢中で、勉強の方は熱が上がらないようだ。家では大学に絶対行くように言われているらしいが、どうなることだろう。NはE教の集会に行ったり、学校での「集会」に参加することが多くなっていた。この「集会」というのは対教師の強面の団交のようなものらしく、都立青山高校の紛争に影響を受けていると聞かされた。何よりびっくりしたのは押し迫ってからの急な進路の変更で、既に理系の大学の一次試験に合格していたのに、哲学科に行くと決めたと言う。そのことではたあちゃんが相談を受けたようで、その折、Nが哲学科は文学部にあると知ってとても驚いていたとのことである。こちらもどうなることか。僕は、後輩たちの英語劇のため時々部室に顔を出したり、小遣いを貯めて買った十二弦ギターの練習に精を出したり・・・つまりいつものように適当にやっていた。こんな風に書くと、「どこが、勉強にのめり込んでんねん!」と茶々が入りそうだが、Nについてはそれでも一日のうちのほとんどの時間を勉強に充てていたし、満君やそれ以外の者も、N同様頑張っていたことも事実なのである。

 さて、それはいつの夜だったのか?涼しかったのでたぶん秋だったのだろう。Nと僕とたあちゃんと正巳の四人が、たあちゃんの親戚のお宅の二階に集合した。なぜか?そこからは、僕の実家の隣の寺の、そのまた西隣にある墓地がよく見えるからなのだ。どうしてそんなところに?・・・端的に言うと、たあちゃんを「からかう」ためにということになる。
 言い出しっぺは正巳である。実はそのころたあちゃんは、お化けや心霊現象に尋常でない興味を持っていた。今で言うと、オカルトチックということか。僕も覚えているが、寄ると触るとそんな風なことを言っていた。何か強烈な体験があったのかもしれない。そんなわけで、周りの者もたあちゃんの真剣さに、できるだけ時間も取り誠実に対応していた。ところがである、たあちゃんの話はやたらと長く、くどく、しつこかった。初めは親身に聞いていた者もだんだんと白け、ついには久臣君や満君でさえ、そんな話の時は、うつむきがちになっていった。でも、たあちゃんは変わらなかった。いっかな話を止めようとしなかったし、短くもならなかった。遂に正巳が動いた。
 正巳にさほどの悪意があったわけではないし、たあちゃんをどうこうしようという作為など全くなかったと思う。ただちょっと面白いことをしようとの乗りであったようだ。ただ結果としてそこに久臣君や満君がいなかったという事実は、何か引っかかると言えばそう言えないこともない。
 四人が揃ったのはもう九時を回っていた。結局僕が一番乗りで、初めての家を訪問したのだった。顔見知りのたあちゃんのおばさんはざっくばらんであったけれども、僕は結構気を遣った。遅れてきた三人は、挨拶もせず、どかどか階段を駆け上がり、「村風呂に入って、お好みを食ってきた」と宣う。
 初めの数時間はだらだら過ごした。時々正巳がまだ十分に今夜のイベントの意味を分かっていない者に、そのことを不得要領(ふとくようりょう)気味に語った。一応まとめるとこうなる。
「親戚の者の誰かが言ってたらしいが、この墓に昔お化けが出たらしい。特に悪さをしたわけではなく、頻繁に出るわけでもないが、ここは一つ僕らでもって正体を暴いてやろうではないか!」
 僕は正巳が喋る度、にやけそうになる顔を隠すのに苦労をしたが、Nは飄然としていて顔色一つ変えなかった。どこまで分かっていたのだろう?そしてたあちゃんは極めて真面目で、正巳の言葉を一言も聞き漏らさないように緊張していた。12時を回ってあたりは静かになり、僕らは部屋の電気を消した。外はほのかに明るかった。たあちゃんは窓の敷居の隅に斜めに座り、墓を凝視しているよう。Nはたあちゃんの反対側に後ろ向きに腰をかけ、僕と正巳は少し離れて畳の上に胡坐をかいて座った。
 二時近くになったころだろうか、気づくとNが立ち上がり、窓の外を見つめている。そして突然、
「あれは何や?」と声を荒げた。たあちゃんがさっと立ち上がり、
「何?なんか見えた?」と聞く。声が裏返っている。
「うん、なんか白いものが見えた」
「どこ?どこに?」必死な声を上げながら、たあちゃんがNのそばに近づく。
「あこ、あの大きな墓石の横」Nが指さしながら答え、たあちゃんの頭をそれらしい方向へ捩じる。
「えっ、あの大きな石?白いもの?・・・見えへんで、見えへん!」うろたえるようなたあちゃんの声。
「どれ・・・あれっ⁈見えへんなあ・・・見えんようになった」つれなくも思えるNの冷静な声。
 それからが大変だった。必死に墓場のあちこちに目を遣るたあちゃん。鷹揚に外を見るNとそれにつき合う僕。正巳は、Nを見て、疑わしそうな顔。遂にたあちゃんが外へ出る。Nと僕もつき合う。正巳は上から見てると言う。墓を一つ一つ見て歩く。随分探したがそれらしいものはなかった。諦めて三人部屋に戻る。たあちゃんがNに詰め寄る。
「ほんまに白いものやったんか?」
「うん、そうや」
「なんやってんやろ?」たあちゃんは諦められず、何度も聞く。Nはその都度丁寧に答える。
 さすがに堪らなくなったのか、正巳がたあちゃんに、
「ひょっとしたら、お寺の奥さんの割烹着姿やったんと違うか?」と新しき見解。でもたあちゃんは冷静に、
「こんな時間になんで割烹着着て墓へ行くね。ありえへんやろ」と即否定。結局それからも同じような談議が長く続いた。空が白み始めた。僕は「家に戻らないとやばい」と皆に言って下に降りた。
 自分の部屋に戻り、ベッドに横になる。なんとか父を起こさずに済んだとほっと息をつく。
 これはのちに聞いた話だが、たあちゃんはずっと窓から墓を眺めっぱなしだったという。Nと正巳はついに我慢できず畳にひっくり返り、寝てしまったらしい。
 このエピソードはまだまだ続く。というか未だに続いていると言った方がいいだろう。長い時間が過ぎ中年になっても、たあちゃんは折に触れ同じことを繰り返したのである。「ほんまに白かったんか?何やってんやろ?」そして、その都度Nは「うん、せやけど、なんやったんかは分からへんわ」と答え、僕は無口に下を向き、正巳は「もおええやん。いつの話やねん!」と苦い顔をしたのである。
 
 Nの文集(『庭の四季』)について改めて少し記しておきたい。僕もこれに深く関わっていたのだが、それは僕が初めて文集に詩を載せた高校生当時、既に十数号の発刊を終え、見開きB4サイズで、更紙で厚さ一センチ近くのものとなっていた。いわゆるガリ版印刷というやつで、前にも言ったが謄写版などはNの家にあった。当時そんなものはどこの家にもなかったと思うのだが、Nにとっては天祐といえるこの謄写版は、Nのお父さんが入院される前に商売のためにと購入されたものなのである。残念なことにお父さんの入院が長引く中、それは随分埃を被っていたらしい。Nが初めてそれを使ったのは小学校の六年で、SFのような作品を書いて卒業式の日に何人かに配ったそうである。残念ながら僕は配ってもらえなかった。もし僕がその時手にしていたのなら、何でも残しておく僕の性癖ゆえ、今でも鑑賞できたのだが、残念ながらこの作品はこの世に姿を留めぬこととなった。
 さて、最初期のこの文集は今よりずっと薄く小さなもので、ごくたまに家族だけに配られていたらしい。僕が参加したのは十七号からで、詩やエッセイ、四コマ漫画が中心であった。ところで、この『庭の四季』という名の由来なのであるが、ある夏のある日、Nが何を思ったのか、(例の情緒故?)家の中庭に安物のビニールのテントを立て、一晩中蚊に悩まされつつ朝を迎えた折に、この名を思いついたということなのである。今手持ちのそれをパラパラと(めく)ってみると、Nの作品には政治的なエッセイと、軟弱な詩が多い。対して僕のものはノンポリティカルの極みで、寓話じみた創作が多い。そして号が進む程女の子からの詩の投稿が多くなっている。だんだんと僕がガリ切り作業の主役を務めるようになったようで、当時の金釘流の文字が懐かしい。高校時代最後の『庭の四季』に、Nの三島由紀夫についてのエッセイを見つけた。
 あの晩のことを思い出す。秋の行事が一段落して、本腰を入れた受験勉強が軌道に乗っていたころのことである。夕食が終わって二階の自分の部屋に戻っていた。階下から、Nが来たと声がかかる。階段を叩きつけるように踏む音がする。ノックも何もなしに、紅潮した顔がドアからぬっと抜け出た。
「聞いたか?」
「うん?」
「三島が死んだ!」
詳しくは書かない。いや書けない。というか、その時のNの話の脈絡に僕はついていけなかったのである。とにかくよく喋っていた。興奮していた。勿論僕にも人が死んだということへの痛みはあった。しかし、それは一般的なものだった。Nが三島の死について何か特別のものを感じているということは、僕には分かったし、そういうNのようすには共感できた。以前からNが三島に親近感を持っていたこともよく知っていた。しかし、その時Nが感じていたもの、考えていたこと自体は、僕にとってよそよそしいものだったと言わざるを得ない。Nと僕とのこのような擦れ違いは、これまでもあったし、この後も長く続いた。但し僕はその晩いつもと変わらず、Nの語りを穏やかに、まるでスポンジが滴ってくる水を吸い続けるように聞き続けたのである。
 今、そのエッセイを読むと、あの話していた時の興奮は見られず、むしろできるだけ冷静に論を立てようとするNの姿勢が伺われる。しかしやはり幼い。Nは確かに事件の重要性については気づいていたのであろう。でも、そのことを根本的に理解する資質には欠けていたと言わざるを得ない。資質は経験と言い換えてもいいだろう。偉そうなことを言ったが、その後Nはたっぷりとそのような経験を積み重ねる。反して僕はそのようなものとは全く別の世界に居続けた。
 Nの顔はずっと赤いままで・・・そして赤い顔のままドアから出て行った。しばらくして父が珍しく上がって来て、「三島の事件か?」と尋ね、僕の返事も聞かずに「突き詰めて考えるのは良くない」と言い、降りて行った。僕はもう勉強はできないと思い、ヘッドフォンをつけ、最近買ったビートルズの新しいLPを聞いた。
























 
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