第4話 第3章

文字数 38,241文字

 第三章

「1971年、四月。ボヘミアンライフ後期開始」
空ろな響きだ。なぜなら前にも言ったように、僕らは日常的には会えなくなったからである。だのになぜ後期なのか。これも言ったと思うが、それはNと僕がまだ夢の中で、ボヘミアンライフを生きようとしていたからである。そして僕ら以外の四人も、それなりにそれにつき合ってくれたからである。  
 Nは志望していた大学の文学部に合格した。僕の父が「やるなあ」と褒めた。学都に向かう日、僕は自転車の荷台にNを乗せ、寒い中駅まで送った。その日僕は多分に饒舌で、Nに数日後に出発する北海道旅行の話をしていた。旅行はささやかな僕自身への褒美というわけである。僕は残念ながら希望の大学には入れず、近くの外国語大学に行くことになった。実家から歩いてでも行ける距離である。               
 正巳は希望通り東京の大学に行った。八畳の間借りに住むことになったが、皆その家賃を聞いて目を回した。ここいらの三倍もするのだ。よっぽど親が期待しているのだろう。しかし、正巳は楽しい経験をたくさん積むことに専念するだろう。久臣君は野球チームを持つ中堅どころのメーカーに就職した。工場勤務となり、既に四月前から仕事に野球にびしびしと絞られていた。たあちゃんと満君は同じ大阪の予備校に入った。たあちゃんの彼女も一緒なので、満君が当てられて困るとこぼす。
 さて、Nは荷台の上で、お椀に冷たくなった赤飯を山盛り入れ、そこにお湯をぶっかけたものを盛んに掻き込んでいた。揺れる自転車の上で器用なものだ。センチな別れの気分も吹き飛んでしまう。でも二人夜行を待ち、吹きっさらしの駅の二階のベンチに座った時には、さすがにしんみりとしていた。僕らは少なくとも三ヶ月は会えなくなるのだ。
 Nは、見晴らしがいいはずなのに、やたらと暗くて特にこれといったものも見えないプラットホームで話し始めた。僕は聞き耳を立てた。でもその時僕は正直感情が泡立っているような具合で、Nの言葉はお腹の中にストンとは落ちなかった。おまけにその話は複雑かつ随分と長いもので、その上かなり行きつ戻りつするものでもあった。だけど今、ようやくそれぞれのこれまでの生き様が俯瞰(ふかん)できるこんな年になって、応分の白々しさと共に、Nがあの時一番言いたかったことはこういうことだったと話すことができる。それは、Nが哲学科に入るにおいての目論見であり、つまり「まず世界の全面的な理解を手に入れ、なおかつそれを水も漏らさぬ体系に仕立て上げ、その後それに基く己(人類)の生きる指針を明らかにする」というものであった。Nはその試みを夢見心地に、かつ自信有り気に語ったのである。なんという気宇壮大な自負心であったことだろう。ドン・キホーテも顔負けではないか。

 世に言う五月病の季節を過ぎた。Nは以前より内向的になった気がした。といっても手紙を通してのことだから、想いを綴るうちにそのような傾向になりがちなのは当然のことでもある。誰だってそんなものだ。がそれにしても、僕とは随分違う世界に行ってしまったものだ。一方僕は、Nとは逆に外向的に進んでいったようだ。大学生活は、僕にはぴったりだった。何より数学だの、化学だのをやらなくてよいというのが嬉しい。一般教養なんぞはほとんど無視して、専ら英語の習得に励んだ。クラブはESSに入り、先輩たちのディベート戦の資料探しに明け暮れ、そしてまた全てを忘れるかのように、タイプライターのキーを叩く修練に没頭した。
 Nは旧制高校時代からあるという学寮に入り、本当のボヘミアンライフを彷彿(ほうふつ)とさせるいわば放埓(ほうらつ)な環境にいた。天上に墨の足跡がいくつもあったり、板戸に詩のようなものが彫られていたりしているらしい。人の出入りも異様で、深夜に同室の先輩の友人がギターを鳴らしながら登場したり、明け方にビラの束と糊の入ったバケツを抱えた数人の男たちがひそひそと出て行ったりするそうである。それに旧制高校からの伝統とかで、「ストームをかける」とか言って女子寮に潜り込んだり、やくざと喧嘩したりということもあったようである。因みにこのNと同室の先輩は年度末に中途退学を余儀なくされているそうだ。
 我が学園は殊の外平穏で授業もきっちりと行われていたが、Nの大学は日本で有数の紛争校で、反代々木系というセクトがヘゲモニーを握っていて、ストライキなどで授業はほとんど行われていないということだった。なんか分かったことを言っているようであるが、反代々木もヘゲモニーも本当のところはよく分からなかった。実は我が学園でもただ一人立看を書いたり、たまにアジ演説をしていた女の子がいたのであるが、いつの間にかいなくなっていた。随分あとで知ったことであるが、その子が代々木系だということであった。
 当時のNからの手紙を見ると、いろんなところでNが面食らっていたのがよく分かる。こんなことが書いてあった。「日本が変わるラインがある」ということである。これはこれ以後も、折に触れてよく聞かされたことだ。Nは学都へ向かう途中で別の国に入る関門のようなものを感じるらしいのだ。「どこで?」と問うと、「糸魚川静岡構造線あたり」と答える。Nはそこで「関西人であることを止める」と言うのである。「どうして?」と聞くと、「そういう覚悟をしておかないと嫌な目に遭うのだ」と言う。実際、僕らの地元ではなんでもない冗談や軽口が、ひどく顰蹙(ひんしゅく)をかってしまったり、自分としては真面目に考えてのことなのに、ふざけているように捉えられたりしたことがたくさんあったらしい。傍若無人の感じさえするNがこんなにナーバスになるのは意外であるが、芯はナイーブなNなのだ。この辺は同じ立場である正巳とは全く違うところである。正巳はなんにも感じていないようで、自慢げに変な東京弁を使いだした。
 うどんの汁が黒くてやたらに辛いとか、ヨシモトのことを誰も知らないとかいう話に混じって、やはり学園紛争といわれる状況についての悩みもよく聞いた。寮の先輩や、クラスメイトから、今まで全く知らなかったことを知らされ愕然(がくぜん)とすることも多かったらしい。高校時代に数回、教師との団交じみた話し合いに参加したこともあったが、その時は自分の中身にまで思いを致すことはなかったということである。つまり今回は、いわゆる己が価値観というやつが揺さぶられていたのだろう。僕が見るところ、Nはもともと保守的だったが、(環境のせいだろう。皆それぞれその家独自の雰囲気を当然身につけているのだ)。初めて左翼的な考えを咀嚼(そしゃく)せねばならない機会に立ち至ったというところだったろう。こんな時Nは僕と違い、ひどく純粋なのだ。
 
 マルクスの勉強を始めると言う。入学前には、E教のこともあり、宗教哲学に興味を持っていたようなのだが、随分変わってしまった。『ドイツ・イデオロギー』という本が素晴らしいと感激して、書いて寄こしてきたこともあった。しかし、僕にとってマルクスは経済学のジャンルの人であり、Nとは結びつかないものであった。ただ当時の大学の状況、ベトナムの戦況などから、僕にもマルクス主義の由々しさは理解できたし、世界が赤化してゆくような感覚もそれ程違和感なく抱いていた。
 ところで、Nのマルクスへの関心はやはりユニークで、ジャーナリスティックなものからは遠く離れたいわば倫理的なものだった。従ってより一層僕には疎遠であった。でもNよりの手紙には、詳しい紹介がその都度あり、今でも保管してあるので、簡単に披露しておく。

〖Nは、敗戦直後にまず日本の文学畑に起こった、『主体性論争』と呼ばれた議論を源流として、その後人間の主体性と唯物論との関りの問題について、論争された事案に大いに興味を持った。なぜなら、Nにとって生きることとは、主体的であるべきことであり、つまりいかに生きるかを常に自らに問い続けることであったのだ。その意味で、一方の当事者が述べた『革命戦争の中で死んだ闘士は、自らの体験しえぬ未来(最早あらゆる搾取がなくなった、いわゆる人類の後史)のために、どのような理由で死ぬことが出来るのか・・・しかも人間だけがこのような矛盾を生きるのであり、またそのことによって人間なのである。この矛盾の解決を求めるところにひらかれる個人全体の領域に、史的唯物論は足を踏み入れたことがあるだろうか』との問いに、他方の当事者から、『それこそが、いわゆるプチブル意識なのだ』と決めつけられたことが、とうてい納得できなかったのである。そして、誰ぞやが述べた『もし人が人類の発展のみを確立し、あるいは人類の発展を最高のものとして確立するならば、世界史的発展を遂行するために、世代から世代へ無数の個人を犠牲に供する神の濫費は何と説明せられるか』に共感した。〗

 六月の末に深刻な手紙が来た。その一部(僕自身による手入れ有り)を次に載せる。
「・・・今日体育館で教養部の学生大会があった。立錐(りっすい)の余地のない混み具合の中で俺は独りぼっちだった。スト権を確立するための集会で、次々に論者が現れ、その論を体育館一杯の聴衆に述べ伝える。が、俺にはそのほとんどが単なるアジテーションに思えた。それぞれのセクトが『ナンセンス』もしくは『異議なし』と答え、次の論者にマイクが渡る。慣れ合い――言い過ぎだろうか?」
「そんな感じが変わったのは、俺の顔見知りの二年生の男が、論壇に立ってからだった。彼は、つい先日のバリストで機動隊に捕まった後輩の遺書を読み上げたのだ。これまでの論者の金切り声じみた言いようではなく、ヘルメットを腰あたりに持ち、淡々とした力強い落ち着いた声だった。その内容は外連味(けれんみ)のない率直なもので、闘争に勝利しようという呼びかけで終わっていた。聴衆は固唾を吞んで聞き入り、会場の興奮のボルテージは静かに高まっていった」
「だが、俺は合点がいかなかった。なぜ死ななくてはならないのだ。自死した男は俺と同じ学年だ。入学してまだ三ヶ月じゃないか。いったい何があったというのだ。・・・でもいくらなぜ?なぜ?と問うてみても、俺には所詮分からないことである。だけど、一人の命が消えた――そして、そのことがこのような公然たる場所で明らかにされた――それはまごうことなき事実だ。そして俺にはありえない現実だ。俺は自分がどんどん後退していって、見聞きしていることがまるで膜の向こうの出来事のように感じた」
 その後、Nは「議場閉鎖」という声や弁護士事務所案内の放送を聞きながら、スト権が確立され、集会はそのまま無届けデモに移ることになったことをぼんやりとした意識で捉えていたらしい。しかし聞きつつも何をどうするということができず、そのまま席に座り続けていたとのこと。・・・が、かなり時間がたって、「こうしてはいられない!」との思いが突然強く湧き上がり、デモ隊を追いかけようと会場を飛び出した。体育館のある高台から、眼下を蛇のように数千人のジグザグデモがうねっていくのが見え、すぐ下の木造の研究室から老いた教官が飛び出してきて、Nに事情を聴いたそうである。
「・・・俺は初めて、わらわらと口が震えるということを経験した。何かきっと答えていたのだろうが、教授はたぶん何も聞き取れなかったろう。呆然とした顔をそのままにして俺は坂を駆け下った。本部キャンパスから50メートル程離れたところで寮の先輩を見た。そりが合わなくて敬遠している人だった。野次馬と一緒になって、盛んに路上の機動隊に毒づいている。放水車が止まっていて、カマボコ(機動隊員を乗せる改造バス)が次から次へとやって来ていた。俺は不審を抱いた。『あいつは、なぜここにいる?』既にデモ隊とキャンパスに入っているはずではないか?」
「既に校門にはバリケードが築かれていた。そして俺はそれを外から見た時、暗然と悟ったのだ。俺はこの先輩と同じだと。俺は卑怯者だと・・・堪らなく情けない思いが体中に湧いてくる。『ここにいてはいけない。キャンパスの中に入るべきだ』と決心した俺は、隣のM学院大へ迂回し、裏手から本部キャンパスに入ることを思いついた。学院大の正門付近は先程の状況とは全く違い、静寂そのものであった。俺は人通りのない垣根沿いの道を歩いて隙間を見つけキャンパスに潜り込んだ。誰もいない。投光機からの幾筋もの光線に(まばゆ)く照らされたバリケードの方に進む。間断なく指揮車からの警告が聞こえてくる」
「色とりどりのヘルメットを被った男や女が(うごめ)いているのが見える。機動隊の突入に備えて、火炎瓶用の空き瓶や投石用の瓦礫(がれき)を運ぶ者がいる。バリケードの上に人がいた。眩い光の中でその人は一人ギターを弾きながら歌っていた。異様である。前面の機動隊員や、傍らの学生たちにも詮方ないムードが漂っている気がする。Mさんだ。同じ寮の住人である。コール天の黄色っぽいブレザーにスリムのジーンズをはいて、無我夢中でギターを掻き鳴らしている」
「Mさんは教養部の二年生だが、実際の年は俺より三つも四つも上だ。先日、既に退校していた寮の先輩が、久しぶりに寮を訪れた時聞いたが、Mさんがもう学部に行くことはないとのことであった。また、Mさんが一年生の時、激しい闘争で捕まり留置場に入れられ、その際精神を病んだということ、そしてその折故郷から両親が来られ、先輩もいろいろ折衝に当たる中、とても辛い思いをしたということも聞いた。そのMさんが歌っている。俺は、このバリケードこそMさんの最も(きら)びやかで悲壮な最期の舞台なのではないかと思った」
「どれくらい時間が経ったのか。俺は校門から少し離れた築山のあたりに腰かけていた。目の前に展開するものごとが、また薄皮一枚向こうの出来事のように感じる。ただ催涙ガスの煙は一段と濃くなってきていた。話に聞いていた「水平撃ち」になっていたのか、目の前に円筒形の塊が転がってきた。ゴロゴロと乾いた音を立て、激しく煙を吐いている。誰かが、投げ返せと叫んだが、俺はなんにもできなかった。傷ついた男が両側から抱えられて鼻先を横切って行く。瞳から一筋血が噴き出ていた」
 僕にとってNの話は別世界の出来事であった。いや、分かりにくさは二乗である。Nにとってさえ理解できにくいものが、どうして僕に分かるだろう。大学生活に慣れ英語の勉強が面白くなり、公園で外国人たちに積極的に話しかけたり、他大学との合宿で、日本語を使わない生活に勤しんでいた僕にとっては、とんでもなく分厚い壁の向こうの世界であったのだ。折角手紙をくれたNに対して、僕は申しわけない気持ちにさえなった。しかし反面、いつかまた「寝物語」などするまでは、僕は僕の日常を生きるのみだとしらっと割り切っていもした。

 やっとNが帰省した時、もう夏は終わっていた。予定の三ヶ月を随分過ぎてしまったものである。ストでカリキュラムが滅茶苦茶になったとのことだが、僕たちにとっては無念なことであった。Nがいないと僕らはまるで水分のない粉のように、いくら固く握ってもぱさぱさしてまとまらないのだ。Nがいて初めて僕らは形となるのだった。僕らは待ちくたびれた。正巳は既に東京へ帰ってしまっていた。満君も久臣君もこの時期は極めて忙しく、連絡を取るのさえ気が引ける状況である。たあちゃんはどうしてるのかよく分からなかったが、Nの帰省を聞いて、夜になって駆けつけてきた。何とか三人、久しぶりにNの部屋でくつろぐ。
 Nが大笑いする。たあちゃんの髪型がおかしいのだ。このごろは誰も彼もが長い髪になっていて(久臣君と満君は超短髪)――かく言う僕もビートルズ由来のマッシュルームカットだ――珍しくもないのであるが、たあちゃんの髪の毛は極めつきのゴワゴワの剛毛なので、頭がいつもの倍以上に大きくなっていたのだ。僕は何回かこのヘアースタイルを拝んでいたので、抵抗力がついていたのだが、Nは初めて見て、堪らず爆笑してしまったのである。さすがのたあちゃんも機嫌を損ねた風である。Nも悪かったと思ったようで、嬉しそうな顔で、「似おてる。似おてる」と言いながら、たあちゃんの頭にヘッドロックをかけた。
 僕らはがやがやとこの場にいない満君や久臣君、正巳の噂話に興じていたが、たあちゃんが恒例の夜のデートに出ると急に静かになった。僕はNに、
「都会的になったな」と呟くように言う。
「なんで?」と意外そうにN。
「垢抜けてきてるで」僕は、淡々と言ったが、ほのかに芽生えた嫉妬心みたいなものを隠していた。
「そーか・・・」Nは何も感じていないよう。
「向こうの話聞かせてよ」と、努めて冷静に聞く。
「ちょっと出えへんか?」Nが低い声で言った。
「うん、久しぶりやな・・・夜の散歩と洒落込むか」まるで女の子と逢引するみたいに、僕は少しドキドキした。
 このN家から西へ延びる道は、半年ぶりだったがいつもと変わりない。お寺があり、国鉄の線路が横切り、そのそばに農機具小屋がある。ただ、この前来たときは北風の強い日だったが、今日はビールが飲みたくなるような日和である。つい、
「ちょっと、『おはな』へ行こか?」と言ってしまった。
「『おはな』?あのラーメン屋の隣の?」
「うん。大学のコンパで時々行くようになった」
「ふうん、よう飲むの?」Nの声は優しいが、目は珍しいものを見るように細くなった。
「まあ、結構飲んでる。焼き鳥がうまい」
僕は昔から甘いものが苦手だったのだが、このごろ酒を覚えてしまって、自分は左党かも知れないぞと思い始めていた。「おはな」という店は大学の先輩に連れられて行ったのが初めだったが、建物自体は中学生のころから知っていた。町はずれの小さな飲み屋街にあるラーメン屋――いちびりの中学生のよく行くところ――の隣にあったのである。中年の姉妹がやっていて、その妹の方の旦那さんが包丁を握っていた。つとむちゃんと呼ばれている。なかなかの腕だ。
「そうか、行こか。俺は寮できつい酒ばっかり飲んでるけど、今日はうまいもんが食いたいな」と言いつつ、Nはすっと道を左に取る。僕はあとを追いつつ、その後ろ姿が一回り痩せたのに気づいた。改めてこの数か月の間に二人に吹いた風の違いを思う。僕は少し太っていたのだ。 

 縄暖簾をくぐるとぽってりした方のお姉さんが目を大きくして、「へえ毎度」と言った。おかみさんである。Nが苦笑する。僕はすうっとカウンターの一番奥へ進む。
「堂々たるもんやな」と後ろからNの声。
「ESSが常連やね」僕はNの分まで椅子を引きながら腰をかける。
すっと前に回ってきたつとむちゃんが、熱いおしぼりを広げながら「何しましょ?」と聞く。
「焼き鳥適当に見繕って・・・あと生二つください・・・何食べたい?あさりの酒蒸しもうまいで・・・」我ながら酒飲みのおっさんのようでちょっと気が引けたが、Nは隣で聞いて嬉しそうにしている。
「いい雰囲気の店やってんなあ。知らんかったわ」と熱いお絞りで顔を拭きながらNが言う。
「うん、なかなかいいやろ」せっかくの夜の散歩を突如変更して少し気後(きおく)れも感じていたのだが、Nが気に入ってくれたようでほっとした。
 さて結局この日僕らは、店の看板まで腰を据えることになった。落ち着いた雰囲気の中、よく飲みよく食いまたよく喋ったが、予感していた深刻な話題はNの口に上らなかった。「おはな」の雰囲気がそれには不似合いだったのだろうか?今思い出す二つの話がある。一つは僕には意外であった女の話で、もう一つはNが参加していた小難しい読書会のことである。
 Nは僕らの仲間内では最も女の子のことには縁遠く、むしろ抹香臭い傾向さえあった。勿論Nが木石ではないことはよく知っている。でも、周りが女の子とつき合ったり、振ったり振られたりしている中で、Nは基本的には、女の子の言う「白馬に乗った王子様がいつか・・・」の如く、一人夢みたいなことを言って過ごしていたのである。だがやはり大学生になって、Nもそれなりに女の子のことに関心を持ち、アタックも始めたようなのだ。何しろ世間では「同棲」の声の喧しかった時代なのである。でも、Nが大学のクラスメイトにデイトの申し込みをしたと言うのを聞いていて、僕は胡散臭い感じがした。
 デートの相手は高三の時と同じように、ごく少ないクラスメイトの女の子のうちの一人であった。(今回も五十人中女子五名ということである。Nには近場で済まそうという傾向があるのか?)本人の話によるととてもキュートな娘らしいのだが、どうも怪しい。何もその女の娘がかわいくないと言うのではない。Nのようすに一年前僕と満君の前で吠えまくっていたのと変わらないふわふわするもの、世間の風潮に迎合しようとの思いを感じたのだ。実はその時、僕にもつき合っている娘がいた。そして僕は悩んでいたのである。その娘を愛そう愛そうと自分に強い、愛している格好をすることに疲れていたのである。気障な言い方であるが、「戯れに恋はすまじ」である。僕は幾分白けた気持ちになり、Nの話がデートの中身にまで及んでいかぬように工夫した。
 読書会とは友人二人と、主催者である元唯物論研究会員の老教授、そして牧師さんとの計五人で・・・と言っても、もともとは教授と牧師さんとでやっておられたところへNが友人を誘って半ば強引に参加を決め込んだようなのである。この著名な教授はNのクラス担任でもあり、Nが大学で初めて聞いた哲学の講義の担当でもあったそうだ。
 ところで、読んでいるのはヘーゲルの『小論理学』というものらしい。とんでもなく難しい本で、日本語で読んでもよく分からないのに、老教授が時たまドイツ語の原典に踏み込むので大変だという。僕は「おはな」でこの話を聞いた時、「ああそんなものか」とほとんど鼻であしらってしまったのだが、最近勤務する大学の教授会で知り合った御仁(哲学畑)と雑談をする中、「ははん」と肯けることがあった。前にも書いたように記憶するが、それはつまり、「Nはその当時、哲学の体系化を企てていたんだ!」という思いである。これなら僕はその当時のNの性向から見て、よーく理解できるのである。理解できるというより、Nならこのとんでもない事業をやり切ることができるかもという「妄想」じみた期待を抱いてさえいたのである。「小論理学、Nがそれを求めていた。なる程・・・」40年以上も経って分かることもあるのだ。 

 数日後の朝早く、僕とNとたあちゃんは建設会社のマイクロバスの中にいた。工事現場に向かうところである。僕ら以外に十人程の職人さんも乗り込んでいた。なぜ僕がここにいるのか?実は、近づくESSの遠征の費用が欲しくて、Nを通してたあちゃんに「親戚の土建屋に雇ってもらって!」と頼み込んだのである。ペイはとても良く、並みのバイトの二倍くらいもあった。それにしても暇なNはともかく、受験で忙しいはずのたあちゃんまでがなぜ一緒に稼ぎに行くのかと解せずにいたのであるが、Nから、たあちゃんと彼女との間によんどころない事情ができたということを聞いた。どんなことか具体的には分からないが、たあちゃんの顔には鬱屈した色がある。
 ところが現場では、意外なことにたあちゃんは本当によく働いた。僕のイメージでは、たあちゃんはどちらかと言えば怠け者というイメージだったのだが、今目の前で、陰日向なく一生懸命働いている姿は感動的でさえある。周りの職人さんたちも感心している。これは随分のちのことであるのだが、Nからたあちゃんの仕事ぶりの超真面目さについて話を聞いた。それによると、たあちゃんはお父さんからそういう薫陶(くんとう)を受けたのだということである。滅多に小言や説教じみたことを言わないのに、特に肉体労働については、『手抜きをしてはいけないのだ』と強く言われたらしい。たあちゃんも、お父さんからそういうことを言われるのがあまりにも稀であったので、(すべか)らくその訓戒を堅持しているとのことであった。
 ということで・・・僕もたあちゃんを見習って真面目に働いた。ただ陰日向は正直あったと言わざるを得ない。陰日向なくサボりがちだったのはNである。でもこれは誤解で、Nとしては十分しっかりと働いているつもりでいたのである。ただレベルが職人さんたちと乖離(かいり)していたというわけなのだ。しかし、Nは嫌われてはいなかった。職人さんたちの中で、心底嫌われていたのは、常に楽な方へ楽な方へと回っていくプロだった。そいつは、泥のついていない服を着て、スコップには決して触らず、大きな機械のそばから離れようとしなかった。
 ところで、Nは現場監督にはいじめられた。相性が悪かったのかもしれない。よくミキサー車の掃除をさせられていた。回転ドラムの横穴から中へ入れられ、電気ハンマーで中にこびりついたコンクリートを砕き取るのである。僕も一度やらされたことがあるが、耳はガンガンするし、やたらと埃は吸うしで大変だった。何人かで交替でやっていたのが、いつの間にかNの専売特許になってしまった。休憩時間に皆が集まって、川で冷やしたスイカを食っている時も、N一人ガンガンやっていた。それを見ているのはとても辛いことだったが、雇われ人の僕にはどうしようもない。ところがある日、几帳面にコンクリを剝がそうとしたNが、ハンマーでドラムのオイルボックスに穴を開けてしまった。オイルボックスは回転ドラムの最も運転席寄りにあり、鉄が薄くできている。従って、そこのコンクリを剥がす際には、いつもより柔らかく電気ハンマーを扱う必要があったのだが、Nはそのような注意は受けていなかった。Nは突然空いた穴に面食らってしまった。周りの者も「これは、しょうがない」とNを責めることはなかった。ただ現場監督だけが、いつも以上に苦々しい顔をしていた。まあそれも尤もだったのである。穴自体はそんなに大きなものではないので、溶接すれば終わりなのだが、何しろオイルが充満しているところだったので、すぐには手をつけられなかったのである。というわけで、Nのドラム潜りは中断した。(実際は中止)
 夜はよくNの家に行った。毎晩几帳面に京都で彼女に会い、(彼女は家族と共に京都に引っ越した)最終電車で帰ってくるのがルーティンワークだったたあちゃんをおいて、僕らは二人でよく散歩をした。興に乗ると、僕が十二絃ギターを掻き鳴らし、二人でフォークソングを歌いながら歩くこともあった。たまに顔見知りと出会うことがあったが、Nが全く自然にその人の目を見ながら歌うので、かえってその人の方がどぎまぎしていた。僕はNの陰で、気負いなくギターを弾いた。つまり、Nは僕にとって巨大な防波堤だったのである。ところで余談めくが、Nはなかなかいい声をしていた。しかし、残念なことにハーモニーというものが分かっていなかった。かつて「花」という唱歌を無理やり二部合唱で覚えさせられたトラウマから、「ハーモニーというのは大変だ」と珍しく尻込みしていたのだ。でも僕がどんな歌でもその都度自由にハモるのを知り、そのコツが飲み込めてからは楽しんで歌ってくれるようになった。ごくたまにやって来るたあちゃんとも歌ったが、僕らのデュエットに猥歌を被せていた。
「ところで、深刻なNの話はどうなった?」と聞かれそうだが、勿論、今のNにとっての最も切実な問題についても話し合った。しかし、この類の話は手紙と同様一方的なものになりがちで、つまり僕がNのレクチャーを受けているという感じで、僕の方から話すということはほとんどなかったのである。でも、僕にとってはとても新鮮な話であり、聞いていて楽しいということはないが、さりとて「もううんざり」と拒否することもなかった。
 手紙でマルクスの名は頻繁(ひんぱん)に出てきたが、今Nを悩ませているのは、やはりそれとE教との関りであった。高校時代、NはよくE教の会合に参加していたのだが、遠くの大学に行ってからもそういった会合への誘いがあると言う。その上、彼の地のE教の支部に連絡を取りたいという申し出さえあるらしい。マルクスが、「宗教はアヘンである」と言ったとかいうのは僕でさえ知っているが、NがマルクスとE教をどう知的に嚙合わせるかは大問題であるだろうし、現実的にE教の会員との関りをどう「清算」するかはこれまた切実な問題であることだろう。手紙で名も知らぬ哲学者の名前をよく見たが、この度は「フォイエルバッハ」という名を教えてくれた。キリスト教を批判する立場をとって、マルクスにも影響を与えたそうだ。細かなことは忘れてしまったが、Nはこの哲学者の著作を読みつつ、自らのE教との関係を捉えなおそうとしているらしい。
 さて、こんなふうにNと僕は散歩をしたり酒を飲んだりバイトに汗を流したりと、久しぶりの「共同生活」に明け暮れていたのであるが、ついにわが学園の新学期が始まってしまった。僕は再び授業に、そして特にクラブに時間を取られるようになってしまったのである。Nは、まだまだ夏休みが残っており大学に戻っても仕方がない状況で、向こうの言葉でしきりに「かったるい」と呟き、顔つきにも覇気がない。僕は「こっちにいろよ」とは言うものの、昼間はほとんどつき合えない。それどころか、授業が終わってからも、いや実はそれからが忙しくなって、部室に一回生が集められ、先輩たちからの様々な指示に忙殺されたのである。我が学園は上位下達の風が強い上に、僕はこんな時には「義務感」に縛られてしまうのだ。
 そんなわけで、Nはその分たあちゃんと過ごすことが多くなったようである。ところで、たあちゃんこそ僕以上に忙しいはずなのであるが、このごろではもうほぼ予備校へ行くことの意味を喪失していたみたいで、二人は結構退嬰的な行動をとるようになった。一度僕の大学へ来たみたいで、「変な男の二人連れが、授業中の教室に入り込んで、騒ぎを起こした」という噂を聞いたことがあった。僕から二人に確かめることはしなかったが、二人はそれとなく仄めかしていた。多分、まじめに勉強している学友の姿に反感があったのだろう。
 二人はよくパチンコに行っていた。たあちゃんはとにかくこれが好きで、毎日欠かさずという感じだった。Nはつき合いで、(むしろいやいや)よそ見をしながら打っていたようである。そしてそのままふっと消えてしまうこともあったらしい。僕もたまにはつき合った。でも、いい目を見たことはない。たあちゃんがいくら儲けても、Nや僕が負けるのである。つまりたあちゃんの球を二人で浪費するのだ。たあちゃんが負ける時はそれこそ悲惨で、僕らのライターや時計が質草となり、たあちゃんが結局は無駄な抵抗に終わる最後の勝負を賭けるのである。

 風が秋らしくなる。Nの大学の新学期が始まった。帰る日の前日、Nの家に泊まる。朝布団の中で、Nが面白いことを言った。起きる直前、目を閉じたままで「今自分はどこで寝てるのか?」と考え込まずにいられない時があると言うのだ。そうしないと不安で起きることができない、まるで起きる予行演習をしているみたいだとも告げた。僕はそれを聞いてなる程そんなものかと思うと同時に、「僕にも同じようなことがある」とふとNに伝えそうになった。
 結局思い留まって喋らなかったのだが、僕にも二重生活のような意識があり、Nに対して密かに後ろめたい気持ちでいたのである。それはNの言う西と東でのギアチェンジのような身の処し方の違いとは異なるが、Nといる時とESSのメンバーといる時との僕の態度の違いなのである。作為的とまでは言いたくないが、クラブで僕は闊達(かったつ)な社交家を演じ、Nとはその真逆を生きようとしていたようなのだ。事実、不安はあった。即ち、Nとクラブのメンバーとの鉢合わせである。(この不安は、二年後現実となる)

 駅まで自転車の二人乗りで行く。今日はNが学都に戻る日である。
「また寂しなるな」と自転車を漕ぐNの腰を強く押さえて言う。
「うん。いっぺん来いよ、珍しい食いもんもあるで!」息を弾ませながらNが答える。あちこちに空いている穴ぽこを避け器用に走っているが、おかげで後ろの荷台がグニグニ揺れ、僕は思わず「尻が痛い」と叫ぶ。するとNが、
「役所は何しとんねん。しっかり舗装しゃんかい。危のてしゃない!」と弾んだ声で言う。僕は、この間から二人でいろいろ話したことをちらちらと思い出しながら、明日からまた平板な日々が始まるとしょんぼりした。
 また二階のプラットホームのベンチに座る。昼間で明るく、町の中心部が一望できた。この度は風が心地よい。街路樹のイチョウの葉がさわさわと揺れている。僕らはもう話は止した。二人煙草に火をつける。静かに時が流れる。
「じゃ」
「じゃ」別れの言葉はこれだけだった。

 時の流れは速い。特に僕にとってNのいない時間はそうである。
 Nとの手紙のやりとりは頻繁(ひんぱん)だった。一度金がないので煙草も吸えないと書いてきた時は、小包で「チェリー」を少し送ってやった。大学は相変わらずのようで、成田空港・沖縄問題などに呼応して揺れ動いているようだった。世情も不穏で爆弾事件も起き、ドルショックで経済も苦境が続くという状況である。12月、時間ができたので信州へ一人旅をした。本当はNと行きたかったのだが、Nの大学の状況が緊迫してきていたので、どうにもならなかった。二人初めての長旅のチャンスだったのに残念だった。当時信州旅行はとても人気があり、ユースホステルでも多くの大学生や若い女性を見かけた。とても賑やかで楽しそうだった。Nの世界を遠く感じた。勿論僕も別世界の者だ。でもそんな僕でも、たくさんの人に疲れることがある。そんな時は、一人散策に出た。雪を被ったアルプスを見つつ、これまでのことをいろいろ振り返った。
 結局、ボヘミアンライフ後期はかなりしょぼいものになってしまったということだろう。僕ら――特にNと僕――は相変わらず夢を食べる「獏」ではあったのだが、それでも背中には堅い甲羅のように現実が貼りつき、自由な行動を邪魔し続けた。この後も僕ら二人は機会が生じれば会い、いつものように呆けた話をしつつ、現実か幻想か定かでない、つまり全く無責任な未来へのプランを立て続けたが、足もとからは常に世の中の冷えが伝ってきていた。
 残念なことにこの年の正月についての記憶が飛んでいる。記録も見つからない。想像するに、浪人組は入試に忙殺されていたのだろうし、正巳や久臣君はそれぞれの新しい環境にそれなりに適応した生活を送っていたのだろう。ところでNは?・・・二月消印の手紙があった。中身はこんなことだ。
 紛争がエスカレートし、定期試験ボイコットが提起され、Nもそれにどう対処するのか自問自答していると言う。Nを取り巻く状況は苛烈なものになっているようだ。Nの多くの友人たちは紛争に積極的に関り初め、どちらかと言えばノンポリの側にいるNは孤立しかけているらしい。逆に早々に試験を受けると表明した者たちは決然とした態度で、ある意味すがすがしくもあると言う。Nの困惑の原因は、定期試験ボイコットの意味がN自身にとって漠然としていることであるが、何よりも家人の気持ちを思うと、忸怩(じくじ)としてくるのだそうだ。当たり前だと思う。東大駒場祭のポスターに、『とめてくれるなおっかさん、背中のいちょうが泣いている・・・』とかいうのがあったようだが、手紙からはじりじりとした焦燥感が伝わってくる。「ツー・オブ・アス」とハモっていた僕たちに氷雨が降りかかる。僕にはじっと見守ることしかできない。

 三月の末、待ちわびた手紙がやっときた。最も知りたかった定期試験のことは、「結局受けなかった」とのことであった。我が学園でそのようなことは全く考えられないので、いったい今後どうなるのか僕には想像もできない。ただこの間の新聞で、関西の大学でも、「授業料値上げ反対」闘争で、多くの学生が留年を余儀なくされたとの記事を見た。間違いなく時代の嵐があちこちで吹き荒れている。しかしそれは僕とは無縁である。だから、「not A or A」などという価値判断もできない。ただ、何か噛み切れないものを口の中に入れているようなやるせない気分だけが拡がる。
 Nは初日、とにかく一応試験を受けようと学校へは向かったとのことである。しかし親しい寮の先輩に出会って、いろいろ話しているうちに時間がどんどん経ち、そのままボイコットした者たちの集会場へ合流してしまったらしい。細かなことは分からないが、結局試験は全て受けず、そのうち教養部はロックアウトされ、状況は混沌としたものとなった。手紙もこのあたりから支離滅裂気味で、僕の想像も交えて言うと、Nはふらふらと旅に出て、東京にも長逗留していたようだ。自分の寮には身の置き場がなかったのだろう。勿論実家に帰れるわけがない。専ら泊りは正巳の下宿、あとで詳しく言うが満君の寮、それから僕らの共通の友人たちのアジト如きところ(美大の再受験を目指すグループ)を渡り歩いていた。
 満君に会ったことはとても嬉しかったようで、それぞれの身の上についてじっくりと話し合ったと書いてあった。ところで満君はかの早大法学部に見事合格し、早々と寮住まいを決め、既に移り住んでいた。気鋭の思いが溢れていたのだろう。寮は大学の近くで、郷里の実業家の篤志により建てられたとのこと、Nの寮とは違い近代的で清潔とある。二人は早大の校内を散歩したり、夜ともなれば、池袋の居酒屋あたりで痛飲するのが日課のようになっていたらしい。満君も新学期が始まっていないので時間が十分にあったのだろう。羨ましい話がいくつも書いてあった。
 ところで二人の身の上話のことなのであるが、随分あとになってNから、その折満君は弁護士になりたいと言ったということ、そして僕のことを随分気にかけていたということを聞いた。弁護士云々という話は初めてだったのだが、Nがいろいろある中で、「革命家となって生きるしかないのでは・・・」と漏らしたのを満君が聞いて、「その気持ちはよく分かるが、自分としては弱い立場の人に寄り添って生きていきたい、弁護士として人を助けたい」と内心を吐露したとのことであった。僕には、Nの思いはともかく、満君がその浪人生活の中で自分を冷静に見つめ、このように考えを深めていたという事実が実にフレッシュで驚きであった。
 僕のことを気にかけていたという話はショックであった。とりわけ満君が僕のことについて「田舎に燻(くすぶ)って・・・いったい何をしようとしているのか?」と言ったということは大きな衝撃であった。確かに僕は田舎で「燻って」いた。僕自身もそれを認め、一回生の初めにはなんとか郷里を離れようと、珍しくも父に強く食い下がった。「一年だけ浪人させて、頼むから!」・・・でも、父からの許しは出ず、僕は、英語の習得に我を忘れて暮らすしかなかった。満君はそんな僕を当時不甲斐なく思っていたのだろう。「Nのように断固我が道を行けとは言わないが、もっと自分自身の人生を大切にしては・・・」という気持ちだったのではと想像する。 
 ここで僕の「義務感」なるものについて話させてもらおう。僕はNなどから「なんでそんなことをするのや?とか、なんでこうしないの?」とかよく聞かれた。人生の岐路のようなところに立ち至った時、僕はNのようにいささか乱暴に自らの道を切り開くということができなかったし、満君のように自分にとって何が正しい選択であるかを追求することもなかった。勿論僕だって重大な人生の局面においては精一杯努力をし、選択を行い、それなりに成果も得た。しかしそれはつまるところどちらに転んでも大過ないものであったのだ。つまり、Nのように失敗すればとんでもないことになるといういわばギャンブルは決してしなかったし、満君のように一筋の道を行くという気概もなかった。僕は臆病であった。何より僕にとって大事なことは、「どこへ行ったとしても安心できる」ということであった。僕は、常々Nに「セキュリティがなければダメなんだ」と漏らしていた。
 そんな僕が、Nや満君の忠告や詰問に何らかの答えを出さなくてはならなくなった時、つまり追い詰められた時、言明したのが「義務感」だった。「僕がこうするのは、義務感故なんだ」と、言い募ったのである。Nも満君も僕のその答えを聞けば、もうそれ以上のことは言わなかった。二人とも他人の価値観に土足で踏み入るような輩ではない。二人は僕の考えを尊重してくれたのである。つまり僕は二人の追求をそこで終わらせ、窮地を脱することができたのである。僕の「義務感」の正体を明らかにすることなく。
 我が父は、知的で子煩悩で家族思いであった。激務の間にも、僕や弟のために時間を作り、丹精込めて僕らを育ててくれていたのである。その身体はラガーマンのようにがっしりと逞しく、身辺は月に二度も行く散髪や隙のない服装のせいで、いつもスッキリとしていた。地域の有名人であり、僕も弟も心の底では鼻高々であった。小学校の低学年の時、僕の部屋には世界児童文学全集が揃えられ、各種の色鮮やかな図鑑や、珍しい文物も部屋に溢れていた。ボスやその取り巻きたちは、それを目当てに我が家を訪れ、多少のおべっかを僕に使うことさえあったのである。
 僕は幼い時からそんな父の愛情には「無抵抗」で、父に背くことなど考えられなかった。父の広い背中を見、「父のようにしっかり、きっちり!」と思い続けていたのである。いやそんな言葉さえ知らないころからそんな風であったのだろう。僕は生きるとは父のようになることだと思っていたのかもしれない。そして僕のそんな思いは成長するにつけ、いつの間にか塩の粒が大きくなるように「義務感」という言葉に結晶化していった。僕の「義務感」とは、父に対する義務感だったのである。僕は、父の期待(はっきりしたものも、(おぼろ)げなものも)に添うことに努め、父の期待を裏切らないことに腐心した。そしてそれはいつの間にか、直接父に対してだけでなく、僕の周りのいろんなところへと及んでいった。今気づいたのであるが、そんな僕を逆に外から眺めれば、盆栽のようなものであった気がする。
 さて、二回生も目前となって、僕はすっかり「家出」を諦め、田舎暮らしにそれなりの充実感さえ感じていた。喜びはどこにでも見つけられるものである。こんな僕の本音を当時満君が知っていたら・・・僕はちょっと恐ろしい気がする。
 ところでNは東京で正巳にも会い、二人で新宿のコンパというところで飲んだり、盛り場をうろついたりしていたらしい。結構楽しかったようだが、世界一の高層ホテルの下の公園で、正巳から同郷の女を口説いたいきさつを実地に解説されるのには閉口していた。

 再び夏が来た。久臣君は仕事が忙しい。社会人には敬意を払わねばならぬ。正巳と満君は帰省しない。東京が楽しいのだろう。たあちゃんはなんとか京都の大学に滑り込んだが、相変わらずのパチンコ通いで、学校にはほとんど行ってないようである。Nは九月になって帰ってきた。会った時、さらに二人の間が開いてしまった気がした。僕らの間にこんな断層ともいえるものが生じるとは、お互いに毛程も想像していなかった。そんな二人のギャップが明確に表れた「事件」があった。しかし、多分Nにとってはそれ程のことではなく、もう忘れてしまっているだろう。しかし僕にとっては昨日のことのようにありありと思い出せる出来事である。
 ある日、Nの家に初老の警官がやって来た。その時Nの家には僕たち二人しかいなかった。警官は聞き込みに来たと言う。中身は、先日の我が町をも走る私鉄電車の爆破事件についてであった。僕は応接するNの後ろにいて、警官がなぜここへやって来たのかということを考えていた。「Nが怪しいと思われているのか?・・・しかし、事件当日Nは帰省してなかったし、そもそもこの町にはいないはずの人間なのである。警察はNのことをどこまで掴んでいるのか、それとも、ただ単にこのあたりを虱潰(しらみつぶ)しに調べているだけなのか?」       
 僕は自分の心臓の鼓動がはっきり聞こえた。しかしそれにしても、Nの態度は落ち着いたものであった。いやむしろわざと喋り方を横柄にしているような気さえした。「知らん。知ってても言う気はない!」木で鼻を括るように、立ったままこう繰り返すだけだったのである。こんなNの態度を見るのは初めてだった。どちらかといえば僕よりもシャイだったのに・・・そういえば、手紙に「先輩が盛り場で警官たちに囲まれているところにぶつかり、その先輩から、カンパの入った封筒を手渡されてドキドキした」と書いてきたことがあった。結局その時は、先輩が警官たちを振り切って、カンパも無事だったらしいが・・・そんなこんなの経験がいくつも重なって、Nをこんな風にしてしまったのか。まさしく擦れたと言うのがぴったりくる態度なのだ。
 初老の警官は五分もいないで帰っていった。その話の内容から、特にNを目当てにやって来たようでもなかった。しかし、帰り際の警官の態度には明らかに不審と嫌悪の思いが伺われた。Nもフンとした顔つきを隠そうともしない。僕はこの町にはついぞ見かけなかった官憲への反抗的な行動パターンを見たのだ。今僕の周りには教師に対しても従順な学生が多いが、この町にも雷族もいれば「不良」もいる。彼らも警官に対して反抗的である。しかし、彼らの反抗はNと比べてホットだ。対してNのはどこまでも冷たい。僕は正直「嫌だな」と思った。Nが嫌だなではなく、そういう風になっちまったその場が嫌だったのだ。
 実は、数日前にも同じように思ったことがあった。それは、二人で最近はやりのカラオケのあるバーへ行き、そこでNがカラオケを切って「インターナショナル」を歌った時のことであった。妙にしんとしてしまった店の中に、アカペラで歌うNの声が陰々滅々と響き渡る。僕はそんな風になっちまった場が嫌で嫌で、堪らず隅っこに置いてあったジュークボックスの中から必死にビートルズの曲を探し出し、大音量でかけたのである。曲は、「Nowhere Man 」だった。
 この年の僕らはいろんな面でちぐはぐだった。というかクロニクル的には、この年から僕らのちぐはぐさが際立ち始めたというべきだろう。二人だけでいる時、いつも僕の心の耳に流れていた、何とも言えぬ懐かしいメロディーは少しずつ聞こえなくなっていった。Nはますます学都の風に染まっていったのに、僕は昔風のままだったのである。やっと念願の二人での長旅に出た時もそうであった。

 東京駅で落ち合い、「とにかく北を目指そう」との僕の意見にNが従い、上野から適当な列車に飛び乗った。木の匂いのする古いタイプの客車で、ドアを自分の手で開けて入るというのが僕には新鮮で、それだけで旅情が掻き立てられたものだ。堅い座席に座り、外の景色に没頭する。関東平野の広い平地から、だんだんと東北の雪をかぶった山々へ、僕の興味は尽きない。かつての二人での散歩を思い出す。Nはどうだろうと顔を見ると、外の景色も見ないでしらーっとしている。それにしてもこの容貌の変化はどうだ。初めて東京駅であった時は、唖然としてしまった。高校時代は刈り上げていた髪の毛も超ロングになり肩まで届いている。まるで後期ビートルズのジョンではないか。
 窓から外を眺めながら、「いい感じやな。こんなのを情緒と言うんやろ?」と思い切って振ってみると、
「ちょっと前には、上野発青森行きの鈍行があってびっくりしたもんや、あん時は大変やった」とこちらとしては足もとを(すく)われた気分。話が繋がらない。どうも、夜の散歩で僕を引き連れ、未来を切り裂いていってくれたNとは違う。
 暮れて列車は奥羽山脈の中の駅に着いた。どかどかと高校生が乗り込んできた。皆男だ。それに詰襟の黒い学生服に、足もとはなんと高下駄ではないか。「旧制高校か⁈」と僕はたまげ、思わずNの目を見ると、Nは、
「腹減ったやろ。駅弁買ってくるわ」と立ち上がる。僕は置き去りにされた気分である。その後行き先を変え山寺駅で下車するまで、こちらから話しかけることはなかった。
「山寺」で泊まることに。ここでも一悶着(言い過ぎか?)があった。Nが「近くのホテルにしよう」と提案したのに僕が、「旅館にしよう」と逆らったのである。Nが若干疲れ気味だったようなのに対し、僕は貪欲に旅の情緒を求めたのだ。宿賃が多少高くてもシックで落ち着いたところが望みでもあった。まるで昔とは逆なのではないか。
 結局泊りは、Nの身体のことを優先して、客引きさんの勧めた大きなホテルとなった。僕は本当にがっかりした。それでも二人風呂に入り、部屋で夕食を取りつつ、うまい地酒を酌み交しするうちにいい気分となった。二人はよく飲み、よく食い、よく喋った。
 明けて「山寺」は雪国となった。夜のうちにかなりの雪が降ったのだ。ゆっくりと朝食を取って僕らは歩き始めた。すぐに大きな橋に出た。欄干が凝った造りである。雪の積もった河原の中を一筋きれいな水が流れていく。橋の向こうからこちらへ一人女が歩いて来た。ほかに人はいない。近づく女は縦縞の着物を着て、雪下駄を履いている。肩にかけた角巻の鮮やかな赤と、爪掛けの小豆色が対照的だ。黒っぽい畳んだ和傘をそっと抱えている。静かだ、本当に静かである。「ここは僕の知っている日本ではない」僕は呆然と、去り行く女を見送った。胸がジーンとした。
 気づくと一瞬立ち止まったNがもう橋を渡り切っていた。奥に雪を被った立石寺の建つ山が見えた。

 三回生となり、僕はクラブの中心的なボジションにいた。ディベートの大会では、後輩たちが集めてきた様々なデータを組み立て、相手を論破する方途を決定していた。結果は上々であった。次の部長との呼び声が高かった。(はて、以前にもどこかで・・・)このころだったか、Nから失恋したという手紙が来た。探せば見つかるだろうが止す。とても嫌な手紙だったという記憶があるのだ。このころのNには以前にもまして辛い事件が立て続けに起こり、折に触れての手紙にも闊達(かったつ)さが全く感じられなかった。うじうじジメジメとした繰り言ばかりが目立っていた。
 この失恋は、僕には予感できた。Nからその娘のことを聞く度に、Nはやはり今までと同様「恋に恋してる」、恋している自分しか見ていないと感じざるを得なかったからである。ただNもそんな自分自身の危うさには気がついており、帰省した折、僕に「俺はあの娘が好きやけど、何をどうしたらいいのかさっぱり分からん!」と漏らしたことがあった。自分でも己が思いを持て余していたのだろう。しかし、かく偉そうなことを言う僕も実際には高三の時と同じく、「好きになったら、僕なら一日中その娘のことを思い続けるだけだ」と繰り返すだけだったのである。
 とにかくNは恋を失った。そして、思いの外の手痛い打撃を受け、自分に対して持っていた自信が大きく揺るがされた。小学校時代から、皆が行く方には断じて行かないという風なN、他人が何を思おうと決して自分を変えようとしなかったN、他人の誤解にさえ言いわけしようとせず、ある意味傲岸とさえ言えたN(勿論それは表面的なもので、僕はその下に潜む繊細さもよく知っている)は急激に変化した。そしてなお悪いことに、Nはその痛手を、新たな恋で埋めようとした。他学部の美人の誉れ高い令嬢につけ文したのである。「Nよ!恋は手段ではない」
 当然新たなこの「恋」も失敗に終わり、報いを受けNはますます落ち込み、身体も痩せた。顔は青白く生気も失せ、能面のような印象を受ける。視線も逸らしがちで、地面を見ていることが多い。帰省の折、僕に会いたくて、家に着けば間髪を入れずに連絡を寄越していたのに、今では帰省後数日経ってから「戻っていた」と言ってくるようになった。実はたあちゃんとこへ入り浸っていたのである。僕はこの事実を知った時激しい衝撃を受けた。恨みにも思った。理不尽だとも思った。少なくとも、何がしかのエクスキューズはあるべきではないかと言いたかった。何よりなぜなのか聞きたかった。しかし僕は、自分の思いを一切口にしなかった。その時僕には知らない振りをする余裕があったし、そのことをNに質すことを(はばか)るものが心の底にあったからである。(このあたりのことは、先にも述べた)
 Nは失恋後寮を出て、三畳一間と流しだけのアパートに引っ越した。そしてそこで一人地下生活者のような暮らしを始めた。夕方になってふらふらと起き、外へ出るのは、近くのスーパーで買い物をする時くらいであったそうな。従って、学部に顔を出すことはほとんどなかった。ところでNは何とか教養部を脱出した。理由は多くの試験がレポートに切り替わったこと――一学年上の多くの留年生を救済するため?――大量の二回生を学部へ追い出すため?――などいろいろ便宜が図られたということであるらしい。Nはそこに紛れ込んだ感じなのである。Nは、「ドッペら(落第し)なかった」とあっさり言っただけであったが、両親はホッとされたことであろう。それにしても、布団から出ると、窓から夕焼け空が見えるというのは、なんとも寂寥たる思いがするようで、のちにNが折に触れ語った「人生最悪の一年」という言葉に嘘はなかったであろう。
 変な手紙がくるようになった。「戸締りをした。(はずだ?)確かに俺は鍵をかけた。(と思う?)だが、実感がない。不安でしかたがない。もう一度アパートに戻るか、それともこのまま行くか、いつも困惑する」と書いてある。出かける途中で戸締りをしたのかどうか不安になって、路上で立ち止まって苦しんでいるのだ。こんな風だから余計に外出することが減っていくのだろう。もっと酷いのもある。「俺は今電気を消した。その消えた電球は目の前にある。でも、消えたと思えない。だからもう一度電気をつけて、また消してみる。でも、消えたという実感が湧かない。何度やってもだめだ。点けたり消したり、何度やればいいのだ」というものである。
 Nが強迫的な不安の中にいるということは間違いない。最近ではこういうのを神経症と呼び、世間的に認知されてもいるが、当時はまだそれほど一般的でなく、(神経衰弱という言い方があった)Nは、わけの分からない暗闇の中で右往左往し、日常生活に支障をきたしていた。電車やバスに乗ることさえできにくくなり、閉めたはずの部屋のドアの前で、脂汗を流し、うずくまり続けることも珍しくなかったようだ。そしてその上良くないと思えるのは、Nはそんな自分の姿を周りから隠そう隠そうと努めたことである。僕は専門家でも何でもないから正確なことは分からないが、他人から己のほんとの姿を隠すことには、とんでもないエネルギーが必要になることは分かる。これは二重の苦しみである。そして、更に救いのないことに、Nは今では当たり前の病院へ行くこと、薬剤に頼ることを潔しとしていなかった。自分の心の、精神の問題は自分だけで解決すると決意していたのだ。
 長くNの苦闘が続いた。僕も無策でいたわけではない。Nが唯一僕のみに己が苦衷を知らせていることを知り、とにかく手紙を出し続け、やっと時間を見つけNのもとを訪れた。夜行に飛び乗り、Nの狭く雑然としたアパートに泊り、翌朝、渋るNを引っ張り出して旅に出たのである。とにかく内に籠ろうとする気持ちを外へ向けなければと考えたのだ。
 だがこの旅も話したくないことの一つとなった。Nは海を見ても、山を見ても、どろんと濁った眼を輝かすことがなく、楽しみと言えば、見知らぬ街で酒をあおることだけという有り様だったのである。勿論僕も手を変え品を変えいろいろチャレンジしてみた。しかし、何の効果もなかった。そして、僕らの輝かしいはずのボヘミアンライフの「夢」、その核となる「旅」まで薄汚れてきた気がし始めた。数日後ついに僕はNに別れを告げ、一人日本海側を南下した。誰もいない鈍行の車両の中で僕は海を見つめながら、憧れであった一人暮らしにも幻滅を感じていた。
 帰ってしばらくして、Nからの手紙が着いた。殊勝に詫びる言葉のあとに、Nが自分自身で編み出したという苦悩を突破する「ある方法」なるものが書かれてあった。それは、激しい不安で身も世もなくなり、何もできずに絶望的な孤立感、不能感に陥ってしまった時に、そのような状況から脱するための方法だと言う。
 いろいろ書いてあったが、例えば「外出」でまとめてみるとこうだ。
鍵をかけたかどうか不安になる。(勿論その前に、ガス栓は?電灯は?などと散々苦しんだあとのことである)そして、ドアの前でうずくまる。同時に、そんな姿を誰かに見られないようにとガチガチに緊張している。そんな時Nは、頭の中に図を描くと言うのだ。図とは、例えばガス栓を表す□、電灯を表す◎、ドアを表す☆というような簡単なものらしい。そしてNは静かにその三つの図を頭の中に描く。そして次に気になる全ての図がブルーに染まるように思念する。その結果、見事ブルーになれば、ガス栓も電灯もドアもOKということになり、外出が叶うというわけである。とにかくガス栓はどう、電灯はどう?・・・といくら考えてもだめで、言葉を捨て、一旦ブルーという色に変換しないと事態が前へ進まないのだとのことである。
 しかし無事外出できても、問題は次々に起こる。バス停で、バスの中で、バスを降りても・・・その都度Nは頭の中に図を描き、ブルーを思念するのだ。Nは一日に何回こんなことをやっているのだろう。涙ぐましい思いがする。ところでどうしてブルーなのか?ほかの色ではだめなのか?まさか信号の色ではあるまい?いや、やはり進めのブルーか?僕は何とも奇妙な思いに捉われた。確かにものごとが、生活が前に進むことはいいことなのだろう。だが、このような代替えともいえる心の操作は、かえって本当の解決からNを遠ざけてしまうのではないのか?
 ・・・しかし、僕には本当のところは分からない。やはり僕には、もう見守ることしか残っていないようだった。

 11月、僕のチーム(四人編成)はディベートの西日本大会で優勝した。大学も喜んでくれ、僕らは鼻高々であった。クラブの部長として僕は数々のセレモニーに晴れがましくも出席した。12月には東日本大会で優勝した東京のS大と試合があり、僕らはそれにも勝利した。僕の名前は結構流布したようで、いろんなところから僕のところへ手紙などが届くようになった。
 年が押し詰まってのある夜、僕は初めてチームの一員であるF君を自宅に招待した。そして、古くからの友人以外では初めて僕の部屋に招き入れた。このことは僕にとってとても勇気のいることだった。僕は自分を曝けだすようなことには極めて臆病だったのである。それでも僕は今回の勝利の喜びを最も苦労を共にしたF君と分かち合うと共に、これからのクラブのことについて話し合いたかったのである。僕らはしみじみとこれまでのことについて話した。先輩の言うことを消化するだけで精一杯だった一回生のころのこと。いろいろなプログラムに積極的に参加し、互いに実力をつけた二・三回生。多くの時間を共有してきた僕らは祝勝会などとは異なり、心置きなく互いの気持ちを吐露することができた。僕は愉快だった。
 ところが、今後のことへ話が移ったころ、突然Nがドアから顔を出したのである。
「おう、久しぶり」
「・・・」僕は動転してしまって声が出ない。F君もどう反応していいか分からず呆然としている。NもF君がいるのと、僕の普通ではないようすに驚いたような顔をしている。「しまった。こんなところにNが来るとは・・・」
 僕は人によって話し方も、態度も変える人間である。小さい時からそうしてきた。いや正確に言うと、そうさせられてきた。そうしないとひどい目に合うことが多かったのである。ただNに対してだけは、己を偽らずに、いやこれも正確に言おう、偽るとか偽らないというのではなく、そのような技を意識しないで、つまりそう自然に、向き合ってきたのだ。それはそもそもNがそうだったからである。ところが今夜は違った。
 F君は紳士である。僕らは同じクラブ員として互いに真摯につき合ってきていた。と言っても、同じクラブの同僚として、それなりにわきまえた喋り方、態度というものが自ずから生れでてくるのは当然である。
 もしここで僕がいつものようにNに喋れば、それを聞いたF君はびっくりしてしまうだろう。僕という人間の印象が激変するのは間違いない。逆にNに対して、学校での言葉遣いをしたなら・・・そんなことできるわけがない。僕は腋の下を流れる冷たい汗を感じながら、デクノ坊になったように黙り続けた。恐れていたことが起こってしまったのだ。
「今晩は」Nが思い出したようにF君に声をかける。ドアの外に立ったままだ。
「今晩は」F君も静かに応答する。Nが黙り込んでいる僕の顔を訝しそうに見ながら、
「元気にしてたか?休みで、帰ってきた」と声をかけてくる。僕は、「う、う、うん・・・」と下を向く。顔からも汗が出てきた。本当はここから逃げ出したい思いなのだが、身体は動かない。F君もいつものようすと違うので、不審そうにしだした。粘りつく飴のような時間が流れる。そこまで気を使わなくても・・・ときっと思われるであろう。しかし僕とNとの関係は僕にとってはこういうことなのだ。
「ちょっと下へ行ってくるわ」と思い出したようにNが言ってドアを閉めた。きっと何かを察してくれたのだろう。階段を降りる足音を聞きながら、僕は静かに息を吐いた。Nに「ごめん」と心の中で呟いた。
 数日をおいて、僕はNに会いに行った。すぐには照れくさくて、どうにもならなかったのである。しかしやっと正直にやればいいとの心境になり、出かけることができた。それにあの日Nに何か僕に対して用事があったのでは・・・とも思っていたのである。僕らのアジトであった部屋は、今はNの弟君が使っているので、僕らは裏の離れで、煮炊きにも使える練炭火鉢の形をした石油ストーブを間に挟んで話した。Nは正月用の餅を網の上に並べて炙り「弟のやけど・・・」
と言ってちょっと高価なウイスキーをグラスに注いでくれた。僕の好きな銘柄だ。ストレートで飲む。身体の芯が温まり気分が良くなる。Nは薄めたのをちびりちびりとやっている。体調があまり良くないみたいだ。僕の空いたグラスを見て手早く注いでくれる。僕は久しぶりに泊まることにした。
 随分更けて、僕はとうとうこの間のことについて話の口火を切った。そして、今までの僕の人づき合いについての思い、NがESSのメンバーと同席することへの恐れ、それを忌避したいと思ってきたこと、先日のこと、全てについて少しずつ伝えた。特に自分にとって、「英語」生活は仮のものであり、Nとのボヘミアンライフこそ本当なのだということについては強く語った。Nは静かに聞いていた。だけどそのことについて、はっきりとした思いを返してはくれなかった。僕の視線を避けようとしているようすさえ見受けられた。
「もう寝てもいいころ合いだ」という身体の声が聞こえてきた。Nもそんな雰囲気を漂わせていた。が、僕らは寝ることを止した。周りは静かで、これから昔のような、宝物のような時間が始まる――僕にはそんな予感がした。
 Nが話し始めた。アルコールが効いてきたのかもしれない。僕がディベートの大会で優勝したことを褒めてくれた。あの日、一階に降りて母から聞いたらしい。僕は嬉しくて、専門用語も使って、試合の経緯とか論題の中身について、こと細かに説明も入れながら話した。Nにとってそれほど興味深いとは思えないが、時に肯いたりしつつしっかり聞いてくれた。それでも話の途中にNが「ギリシャのソフィストみたい・・・」と言いかけ、慌てて口を(つぐ)んだことは印象に残っている。やはりNにとっては別世界の話だったのだろう。
 僕の話が終わるのを待っていたのか・・・出し抜けにT子のことを尋ねる。いったいT子のことなど誰から聞いたのだろう。どんな風に聞いているのだろう。T子は僕のステディ、大阪の女子大生で英文科。この夏からつき合っている。しかし、あまりに唐突で、Nに何をどう言っていいのか分からない。Nは、切れ切れで、くぐもったような声だったが、そのくせ執拗な感じがした。視線を逸らす癖も相変わらずだ。「あの日の用事はこれだった?」と(いぶか)る気持ちが沸く。
 彼女とはうまくいっていた。でもそのことをこの日Nに正直に言うことはできなかった。なぜか?何よりNの視線の中に、暗いものを感じたからである。前にも書いたが、僕をけなるく(羨ましく)思っているのかもしれないと感じたからである。先程とは逆に、僕が視線を外そう外そうとした。
 互いに鬱々とした時間が過ぎていく中で、僕はなぜだか『幸福の王子』という童話を思い出していた。燕が優しい王子の言いつけを守って、王子の宝石や金箔を貧しい人々に分け与える話である。が、そのプロットとは関係なく、きらきら輝いていたNが、王子のようにだんだんとみすぼらしい姿になっていくイメージだけが僕を引きつけて離さなかったのである。思えば中学校の時代から、ごくたまにではあったがNに対して、「?」と思うことはあった。ユニークで逞しいNに憧れつつも、「ちょっと違う」と感じることがあったのである。それは鏡に映るNのポジティブな姿に対して、いわば鏡の裏に僅かに透けてくるようなNのネガティブな姿とでも言えばいいのだろうか。それはむしろ僕のように気弱くうじうじとしたものであったのだ。勿論結果的にはそのような僕の感じは、あっという間に雲散霧消してしまい、再び太陽のような光に僕は包まれたのだけれど・・・しかし、この度のこのNの変化は、そんなものではない。もっと根本的で、恒常的で本質的なものに違いない。そして僕はその変化が結果的に、後ろめたそうに僕の視線を避けたり、女のことを執拗に聞いたり、それからたあちゃんのところへ先に行くことになってしまっていることが残念でならなかった。
 Nは「泊まっていき」と言ったけれど、僕は帰ることにした。宝物のような時間という予感は見事に外れた。自転車にささくれたような冷たい風が当たる。頬がピリピリした。でも、腹の底には熾火(おきび)のようなウイスキーの熱があった。ミスキャストだ。まるで今日の僕とNのように。 

 学年の終わりにNから「面白い」手紙が来た。Nにとって最悪の年の手紙は、どれも読んでいてうんざりするようなものばかりであったが、この度は「あれっ」と感じる内容があったのである。それはNが持て余す昼夜逆転した長い長い時間に、ドストエフスキーを読み始めたということであった。
 どうしてそうなったのか、掻い摘んで書いてみる。そもそもNが読んでいるのは、全21巻のドストエフスキー全集で、買い求めたのは大学入学からそんなに日が経ってないころだったと言う。つまりまる三年近くほったらかしにしていたわけである。それにしてもなぜドストエフスキーかというと、それは決して興味があったからではないとのこと。結局のところ、ドストエフスキーについてはその名前しか知らず、今まで読んだことがなかったからであるということなのである。
 つまりこの全集は、Nの祖母が入学祝としてくれた二万円を、なんとか形ある有意義なものに使いたいというNの思いから出現したものなのである。だから別にドストエフスキーでなく、例えばトルストイ全集であってもよかったのだが、たまたま幾つかのトルストイの作品を既に文庫本で読んでいたNにとっては、費用対効果が低かったのである。(ダブる本がもったいないということ)そんなわけで今まで全く読んだことのなかったドストエフスキー全集が選ばれたのであるが、なんとその値は二万と数百円であったと言う。
 さて暇にまかせて読み始めてはみたところ・・・第一巻の「貧しき人々」はまあまあであったものの、それ以降の作品は饒舌で退屈で、自分でもなぜ読み続けているのか不思議であったようだ。もし普段のNであったなら、途中で読むのを放棄していたであろう。Nは時間の無駄遣いが大嫌いで、意義を感じられないものごとはすべからく、忌避していたのである。
 しかし、僕にとってはこの手紙は吉兆であった。なぜなら、今後長く続くだろう読書の間は、とにかくNは生き延びるだろうからである。

 いよいよ四回生となった。またいろんなことが起こったが、順次手短に書きたい。
 満君が四月に米国留学に出発した。行先はアーカンソー州リトルロックである。僕は初めてそのことを知ったとき、まずその地名に驚いた。僕の周りでアメリカに留学を果たす者に、この地名を聞くのは初めてだったのである。そもそもアメリカ南部へ行く者がほとんどいなかった。それに「リトルロック高校事件」は僕にとって、ディベートにおける重大な関心事の一つであったが、なぜそんなところへ?というのが正直な思いだったのである。
 Nは、「やられた!」とショックを受けていた。自分が先頭を切って日本を飛び出すはずだったのに、「悔しい、先を越された」という気持ちだったのだ。満君と手紙で留学についてやり取りもしていたようだが、実際に飛び出したというのを知ったのは、事後のことだったらしい。
 僕はもう随分長い間満君とは没交渉で、詳しい経緯については全く知らなかった。Nのようにボヘミアンライフという面での焦りは感じなかったが、知人が留学にチャレンジする際に味わった「焦燥感」には駆られた。多分僕が手を挙げれば、手を挙げさえすれば、英米への留学はそれほど難しくなく果たすことができたはずである。実際に教授から勧められたこともあった。しかし僕は踏み出せなかった。理由はまず父の許しを請う面倒さで、(我が父は仕事ではともかく、外国へ出ることが大嫌いであった)次にESSなど自らの生活の惰性的墨守、ついでに全く今のところなんの兆しもないNとの「放浪」待ちなどである。

 たあちゃんが彼女と京都で同棲を始めた。彼女が短大を卒業し、京都で就職したことがきっかけである。たあちゃんの実家の前で久しぶりに顔を合わした時、たあちゃん自身からそう聞いた。Nが、米を十キロ持って引越しの手伝いに来たとも言っていた。Nらしいと笑っていた。僕はとりあえず「良かったな」と言い、あとは四方山話をして別れた。庭にたあちゃんが植えたという薄いピンク色のバラが咲いていた。
 家に戻る。心に引っかかるものがある。僕は、「Nには今女の話はタブーだ」と思い込んでいた。僻みとまでは言わないが、Nの顔つきには、女のことについての率直な話を拒むものがあったのだ。ところがたあちゃんの話を聞くと、Nの態度に違いがある。たあちゃんと彼女に対してはとても素直に接しているようなのである。たあちゃんが話を作ってる?・・・まさか、たあちゃんに限ってそんなことはあり得ない。では実のところ、Nはどんな気持ちでいるのだろう?たあちゃんたちに結構無理して接していたのか、それとも、既にNは回復傾向にあるのか、或いはNにとってたあちゃんは別格の存在であるのか?・・・苦いコーヒーを啜りながら、僕は久しぶりに物思いに耽った。
 正巳や久臣君にもそれぞれいろいろなことがあったが、申しわけない、ここではもう割愛させてもらいたい。

 ずーっと時間は飛んで秋。あの冒頭の小説『たあちゃん』の季節になった。Nは「回復」し、僕は「順風満帆」の中にいた。そんな中、僕はNから『たあちゃん』と題された小説を受け取り、ショックを受けたのだった。しかし振り返ってみるに、僕はそれでも結局のところ、とにかく前向きな姿勢で、『N君のこと』を書き上げ、Nにそれを見せるという約束をすることができたのである。しかしその約束の日から一ヶ月、僕は失恋をした。
 T子との別れの原因は僕の出自にあった。僕は狂った。誰にも何も言わず、強い酒をあおる毎日。身を持て余してのパチンコ通い。厳格な父も、そんな僕を見てもさすがに何も言わない。わけを問い質すこともなく、遠慮がちに僕を見守るだけであった。僕は、もはや体裁を取り繕うことなど全く考えず、身の周りに「誰にも何もさせはしない」というオーラを強く漂わせていたのだ。
 たまに学校に行っても、今までのように洒脱な態度が取れるわけがなく、むしろ近づいてきた者に毒を吐いた。友人、そして先輩も後輩もどんどん離れていった。ある日、親しくしていた友が見かねたのだろう。僕に会いに来た。僕の事情についてもいろいろ知るところがあったらしい。しみじみと語りかけてくれる中、「これまで、よう頑張ってきた」との言葉があった。強烈な怒りが湧いた。僕はすんでのところで、その友を殴り倒すところだった。だが、踏み留まった。一人走って家まで帰った。学校から一度も止まることなく家に着いた。
 部屋に飛び込み、Nに手紙を書こうと思いつく。やっと、汗が吹き出し、息が上がっているのに気づく。便箋を前に何もできない。・・・気がつくと夜だった。
 この時と、その後の何回ものNとの手紙のやり取りで、僕は何とか最悪の危機を脱することができた。だが決してNの手紙は僕をやさしく慰めたり、励ましたりするものではなかった。むしろ僕を突き放そうとする気持ちを感じたことさえあった。勿論決して冷たい言い方ではなかったし、自分も辛い経験をした者として、いろいろ気を使ってくれているのが分かりもした。しかしNは、僕のそばには来てくれなかった。僕は行ったのに・・・結局僕は一人でこの辛さを乗り越えるしかなかった。
 Nの思いもきっとそこにあったのだろう。自分の時のことも考えにあったのだろう。今となってはそれが当然ということが分かる。いや、それしかなかったということさえ分かる気がする。一人で、自分だけでしか解決に向かうことができない問題はあるのだ。しかし本当に辛かった。僕は毎日アルコールの力を借り、時には手紙で愚痴をNにぶちまけ、砂を噛むような日々を送った。
 本当の気持ちを言えば、僕はすぐにでも大学を辞め、Nのところに身を寄せ、そして、できれば共に日本を脱出したかったのである。実際その呼びかけの手紙も出した、ボヘミアンライフの本当の出発だと言って。だが、Nは先程も言ったように、それには乗ってくれなかった。勿論N自身が、海外へ飛び出すという夢を捨てたわけではない。僕と二人で放浪するというあの高校時代からの夢もそうである。満君が留学した時のNの焦りは今もあるのだ。でも実は、Nにとってもこの時は――四回生のこの時期は、人生の岐路だったのである。当時の僕は、周りをおもんぱかることが全くできなかったのであるが、Nは長い苦悩の時期を自力で抜け出そうとしていたのである。そのことに触れる。

 Nは暗闇の中にあった十分すぎる長い時間の中で、ドストエフスキー全集を読み進めていた。しかしそれは概ね退屈なものであり、もしもほかに少しでも楽しいことがあったのなら、すぐにでもほっぽり出されていたであろう。しかし遂にその時がきた。Nはのちにそれを「邂逅」と呼んだ。
 世に、「ドストエフスキー体験」という言葉があるらしい。Nも僕に「ドストエフスキー体験」と言っていた。しかし僕はここで文学論を述べるつもりはないし、そんな力量もない。僕が言いたいのは、ドストエフスキー全集全二十一巻の後半に至って、Nのそれまでの読みが変わったということなのである。それは、激しい衝撃をNに与え、自身の人生についての考えを転換するにまで及んだのである。
 それではその変えたものとは何か?――それは、『罪と罰』、『悪霊』、『カラマーゾフの兄弟』などNの魂をその根源から激しく揺さぶった読書体験である。それはもうNにとって読書などという言い方で済まされるものでは到底なく、むしろ事件と呼ぶべきものだった。
 Nは言う。「ニコライ・スタヴローギン(『悪霊』の主人公)は俺の喉元にナイフを突きつけた」と。そして、「俺はニコライが本当によく分かる、まるで自分のことのように。ニコライは観念に憑かれた人間であり、自己にのみ没頭してしまっている。そんなニコライに似た俺にとって、恋は自分自身へのものでしかなかった。ニコライのように、俺には愛が許されていない」と告白した。僕はそのNの懺悔を聞いた時、ただただ苦しい真っ暗闇の中で、Nはその己の苦しみの本質に気づき、そこを脱出するための蜘蛛の糸のような手立てを見つける可能性に至ったのかもしれないと思った。
  
 NのNたる所以は、一つの気づきから更なる展望の高みを目指し、それを突き詰めようとすることにある。また個人的な体験を敷衍することにも力を注ぐ。ドストエフスキーの読みが深まると共に、手紙にはベルジャーエフやゼンコーフスキイ等、新たな哲学者・思想家の名が出現するようになった。ドストエフスキーの言うロシアの大地への愛や根源的な人間の自由、神の存在、そして伝統というものへの自分なりの考えを口にするようにもなった。そしてついに、このような新たな考えと大学入学以来のマルクス主義の学習をN自身の中で突き合わせるという作業も始めた。Nには、マルクスとドストエフスキーを対立軸として捉えるという発想が生まれているらしい。そしてその上、Nはそれを卒論にまとめようともしている。僕にはよく分からないが、唯物論の立場と、ロシア正教に着目したとNが言うドストエフスキーを同じ土俵で論じるということが果たして可能なのだろうか?それにそういった論は果たして卒論として成立するのであろうか?・・・僕にははなはだ疑問であった。でも、もう突出してしまっていたNはこう手紙に書いて寄こした。「この作業を卒論としてまとめるため俺は留年をする」と。久しぶりにNの面目躍如との思いが湧く。以下に、Nの当時考えていたことを、先に紹介した思想家たちの主張を交えて記しておく。

〖『自由の問題は、他のどの問題よりもドストエフスキーの心を騒がせた。彼は誰よりも深く、自由のもつ真実と自由の必要性を感じた。しかしドストエフスキーはまた生活の放任状態における自由の生み出す困難をもよく認識していた。ドストエフスキーによれば、ヨーロッパ人を取り巻いている山積みの謎、矛盾、困難は、ヨーロッパ人がキリストから離れたことによって、彼らの中に現れた自由のカオスが生み出したものである。すべての精神生活がゆがめられ、道徳的生活の根源そのものが揺り動かされた。そしてヨーロッパ人は虚弱で実りなき自由を持ったまま一人で放り出された。そのために、とんでもない動揺が始まり、人間の中の罪の根源が姿を現してくる。そして、自らが生み出したカオスを処理しえないヨーロッパ文化の完全な無力が生じてくる。もし神が存在しないのなら「すべては許される」ヨーロッパの意識はこの恐ろしい結論へ両端から近づいていく。一方では、科学的世界観は自由なる意志を否認して、本来「犯罪」は存在しない、「罪業」も存在しない、「存在するのは飢えた人々だけだ」と断言する。自由なる意志の否定は、人間の中の道徳的発達を不可能で不必要なものにしてしまう。しかしこれと同じ結論へ、ヨーロッパの意識のもう一つの流れも近づいていく――すなわちそれは、キリストを否認し神を忘れた意識である。かくしてヨーロッパ文化の最終的到達点――それは底知れぬアモラリズムである』〗
〖『我意と自己主張の道を行く人、己の自由を神への反逆に向けた人は、すべて、自由を保持することができない。彼らは不可避的に、自由の絞殺を招かずにはいない。不可避的に彼らは、人間精神の嫡子権、その生まれながらの自由を断念せねばならぬ。彼らは自由を必然性の国に引き渡す。彼らは最も恐るべき暴虐にまで至る』〗

 Nが正月休みで帰省した。僕は金魚の糞のようにNにつきまとった。Nが出かける時には、それがどんな類のことであろうともつき従おうとした。Nが家人から頼まれて買い物に出かけた時も僕は一緒だった。さすがのNも不審な顔をする時があったが、僕は構わずそばにいた。そうすることでますます一人になることが不安となり、夜も余程のことがない限り共にいるようにした。僕には珍しいことだったが、Nによく我儘も言った。例えば、夜中突然感情が昂ってきて、どうにも自分をコントロールできなくなり、「走ろう!」と無理やりNをジョギングに誘い、長い夜の闇に引っ張り出したりした。
 Nはよくつき合ってくれた。手紙で散々繰り返したことを僕がまた言い募っても、Nはそれが初めてであるかのように聞いてくれ、また丁寧に自分の思いを伝えてくれた。勿論その主張の根っ子に変化はなく、僕自身の自立を促すというものであった。僕はだんだんと心が「沈み」、ここは一つ自分で頑張るしかないと心に決めた。そして、かねてより依頼を受けていた英語講師の仕事を引き受けることにした。勤務校は母校の中学校である。つまりあのいろいろあった僕らの母校である中学校なのだ。突然の英語教員の退職で、中学の校長が困り果てて我が大学に依頼してきたとのことであった。教授から僕に話がきた際には即座に断ったのだが、Nと話しているうちに、勤めの規則的な生活も今の僕には良いのではないかという気持ちになって、受諾したのである。

「Nが学都に戻った淋しさを、僕は教師としての律儀さで紛らわせていたのだろう」――僕は得意の「義務感」で授業に集中した。それに初めての教員としての勤務はそれなりに新鮮であった。父も少し安心したようである。教科書での学習だけではなく、ビートルズや流行りのアメリカ映画なども教材にした。生徒たちは喜んでくれていたように思う。僕も少し嬉しかった。ただ廊下を歩いている時などに、突然、「不自然太郎!」(Nと散歩していた時に遊んだ子供が中学生になっていた)と声をかけられるのには全く閉口した。僕は苦虫を嚙み潰したような顔を隠し、すぐさま踵を職員室に向けた。授業中の僕の笑い顔はあくまでも仮面なのである。
 三学期はあっという間に去り、仕事も終わり、僕は大学を卒業した。虚ろな思いが湧いた。いや、僕は空虚そのものだった。これからのことについていろいろ誘いもあったが全て断り、高校の教員になることにした。理由はそれが一番面倒がなかったからである。春めいた光の中を僕は一人でふらふら歩いて過ごした。そして、たまにパチンコ屋に立ち寄った。

 四月になり、赴任先が決まった。工業高校で、生徒は男子のみである。ところで、僕らの中で仕事に就いたのは、久臣君をおいて正巳と僕だけであったが、(たあちゃんと満君は勿論学生のまま、Nは予定通り留年)その正巳に、事件が起きた。大阪の中堅どころの子供服メーカーに就職した正巳だが、突然自分に子供ができたと聞いてびっくりした。僕のところには例によってあまり情報が入ってこず、詳しいことは分からなかったが、なんでも「一時つき合っていた娘が、正巳の子供を産んだ」と東京の知人から知らせを受けたとのことである。つき合いが終わって、その女の子は正巳の前から姿を消したらしい。そして、親にも妊娠したことを言わず、一人で出産したとのことである。そのためなのだろうか少し障害があるとも聞いた。
 正巳を偉いと思ったのは、そのことを知った正巳が、すぐさまその娘に会い、子供と共に三人で暮らし始めたことである。正巳は、同棲に大反対する両親の家を出て、アパートに引っ越すことになった。正直僕は今まで正巳とつき合ってきて、その快楽主義的な傾向やスノッブなところに鼻持ちならない思いをしたこともあったのだが、今回のことでは、僕自身の不甲斐なさへの憤りともあいまって、正巳を見直すこと頻りであった。そしてそのような自分自身への否定的な思いがますます強くなる事件に僕は遭遇する。
 当時、つまり僕が新任で高校に勤め始めたころ、我が校は校内暴力の嵐の中にあった。同じような高校は県内に複数あったが、あまり一般に知られることはなかったように思う。僕も全く知らなかった。(数年後、中学校での暴力事件がセンセーショナルに取り上げられ、一般の耳目を引いた)
 そんな僕が新任早々暴力の被害にあった。それまでにも授業中の嫌がらせなどは頻繁にあり、(ひどい例を一つ挙げておくと、黒板に英文を書いていると、後ろで突然五・四・三・二・一と秒読みが始まる。そして0となったとき、後ろからいろんなものが投げられ始める。中には下手すると怪我をするようなものもある。初めはわけが分からず、背中でいろんなものを受け止めているばかりであったが、そのうち慣れて、出席簿で頭部を保護しつつ教卓の陰にうずくまり、嵐を避けるようになった。幸いこのことで怪我をしたことはない)ある意味慣れてきてしまっていたのだが、この時は負傷し病院に行くことになった。相手は我が校の番長で、僕は職員室へ逃げる途中に掴まり、大柄な彼に殴られたのである。詳しいことは言いたくないが、事後のことだけ言っておくと、彼は退学処分となった。そして僕は重なる試練にダウンしてしまった。
 Nだけが僕の救いだった。僕自身が自力で苦しく困難な状況を切り開くという思いはもはやなく、ただただ耐え続け、NとNからの手紙を待つ日々であった。手紙は何度も読んだ。そしてやっと、待ちに待った夏休みが来て、僕はようやく一息つくことができた。今では教師は夏休みといえども結構忙しく過ごすが、この当時は給料日のみ登校するという輩もいたくらいで、僕はかなりの時間を自由に使うことができたのである。そしてまた、Nも帰省したので、僕は再び金魚の糞となったものの、なんとか人間らしい生活を営むことができるようになった。とりわけNが家業の手伝いに忙しい時は最高で、僕は嫌なこと一切を忘れ、Nの指示に従い、その力仕事に汗だくになって没頭することができた。
 しかしながら夏休みは急流を流れ落ちるように過ぎ、Nも卒論のことがあり、学都に戻った。僕は再び一日一日を目の前のことだけしか見ないで、つまり考えるということを極力忌避して暮らした。仕事は真面目にこなし、家に帰り風呂と飯を済ますとさっさと寝る。そして待望の休暇には、職場の同僚と贅沢な旅行に出かける。そんな時間が積み重なった。先走って書いてしまうが、このような僕の生活はこの後何年も続き、五年も経つころには、僕は随分面の皮の厚い教師になることができた。まあ、いっちょ前になったというところか。
 そんなわけで、この年僕にはもう特筆するようなことはなかったのであるが、暮れも押し詰まったころになって、たあちゃんのことで羨ましいというか、別世界の話というか・・・そんな噂を聞いた。
 それはたあちゃんが珍しいことに本を読むようになったということなのである。幼い時からにきび面のころ、そして予備校、大学を通じて、たあちゃんの本を読む姿を僕は一度も見たことがない。それはまあテスト勉強のため参考書などに目を通すことは勿論あったろうが、きっとそれはいやいやだったのだろうし、それもごく僅かの時間だったに違いない。それに最近では、学校へ行くこともなくパチンコ屋に入り浸っている姿を僕は実際に何度も目にしている。僕にとっては、たあちゃんと「読書」はてんから結びつかないものだったのである。しかしともかく、意外なところで、文庫本に見入っているたあちゃんの姿が垣間見られていた。それはかなりの衝撃を見た者に与え、あちこちへ伝播(でんぱ)していった。そして僕にとって何より大きな衝撃となったのは、それらの本とは、ドストエフスキーの作品であったことである。
 僕は、Nより初めてドストエフスキーについての話を聞いてからもうずいぶん日が経ったというのに、未だに一冊も読んでいない。勿論、話をしたり、長い手紙を読んだり、また返事を書いたりする時には、ぜひ作品を読もうと思っているのだが、疲れ切って帰宅して、持ち越した仕事がたくさん残っている中、ドストエフスキーの著作に向かうということが実際問題できなかったのである。
 そんな僕に今回のこのニュースはどんな作用を及ぼしたか?答えを言うと、僕は意固地になってしまったのである。たあちゃんがドストエフスキーを読むということは、即ち、当然Nの影響である。それ以外には考えられない。実際、二人の間にどのような話があったのか、またたあちゃん自身のドストエフスキーへのレディネスがいかようであったのかは知らないが、ドストエフスキーを巡る二人の世界はとんでもなく濃密であったことは間違いない。さすれば僕はその世界には、足を踏み入れたくはない。僕はドストエフスキーに至る道を封鎖したのである。 
 年が明けた。僕が相変わらずのその日暮らしを続ける中、Nはマルクスとドストエフスキーについての卒論を提出し、しばらくして、僕の家を訪れた。

 その日は四年に一度の閏日2月29日、一面の暗い雲の下、冷たい北風の吹く雨模様の一日であった。しかし、夜になって冷え込んでくるとともに雨は上がった。Nは、珍しいことに「今帰った」と言う。荷物を家に置いてすぐ来たらしい。すっきりとした顔立ちをしている。僕は逆に、ぼーっと生気のない顔をしていたろう。今日一日――この月の五回目の日曜日――を僕は、ただただクタクタの身体を休めるためだけに使い、暗くなってからは全くの「サザエさん症候群」の中にいたのである。
 Nは、にこりとしながら、
「どうしてた?」と聞く。僕は、失恋後の寂しく辛い生活を思い返しつつも、
「まあ、ぼちぼちや」と答えを返した。その声の沈みように我ながらドキリとする。でも鞭打つように己を励まし、
「卒論、どうした?」と声を張る。Nは、
「提出した。口頭試問も終わった」と答え、続けて、
「アパート引き払ってきた。もう大学には戻らへん」と言う。僕はその声の潔さにつられたように、
「おめでと、頑張ったな」と言ったものの、そのあと何を言っていいのか分からず、自分を見失ってしまった。頭の中で大きな釣り鐘が鳴っている。気づまりな沈黙が続く。僕は「今大変なことが起こっている」「来るべきものがやってきてしまった」「なんとかしないと」という思いで一杯だったのだが、実際に頭の大部分で認識していたのは、小さな石油ストーブが「ジ、ジ、ジ・・・」という音だけであった。
「大学辞めるっていうこと」とぼそっと言えたのは、ずいぶん時間が経ってからである。Nは、一気に、
「卒論以外の単位はもう終わってるから、あとは卒論だけ・・・もし通っていたら、卒業ということやし、あかんかったら、中退ということ。どっちにしても、もう戻らんということや」と答え、そして、
「実は話があるねんけど・・・」と言いながら、僕の目を探るように見つめた。
「何?」心臓がドクドクと波打つ。胸苦しい。Nはしばらく唇をこねるように動かし、思い切ったように口を開けた。
「いよいよ飛びだそと思うねんけど・・・この前『一緒に出よ』と言われて、あの時は断ったんやけど・・・遅れてすまんかってんけど・・・どうや?一緒に行くか?」
僕は、言葉を飲み込む。(「行く?どこへ?」)
 もう帰ってこないと思っていた「小鳥」が、部屋の窓を「コツコツ」と叩く音が聴こえる。遂にその時がきたのだ。高校生の時から、淡く思い続けた僕らの夢が、「さあ、行こう!」と僕に呼びかけている。「何を躊躇(ちゅうちょ)する?」――ついこの間、僕から呼びかけたことではないか、「行こう!」と答えればいいのだ。でも、声が出ない。Nの視線を避けて、僕はテーブルの染みを見つめる。なぜか昔見たすれ違いのメロドラマが頭をよぎる。
 風が西風に変わった。だんだんと北西に変わってきていたのが、今は真西となったようである。僕の家は西に向かって開いているので、風が窓にダイレクトに当たるのだ。音が違う。時計を見るとちょうど九時だった。
 父の顔が目に浮かんできた。浴びるように酒をあおっていた僕を黙って見つめていた、あの寂しそうな目が見える。不思議な気がする。あれ程僕の生活の一々に口を挟んできていた父が、もう一年以上も小言じみたことを言っていない――そう、つまり僕が家族に心配をかけ続けているということだ。
 仕事には出るものの、ほとんど喋ることなく、酒に救いを求める日々。不愉快そうな顔を隠そうともせず、自分の部屋に籠りがちな日々。父も母も弟も僕が今までと全く違ってしまったことをひしひしと感じていたはずである。でも、父は詮索(せんさく)するようなことは何も聞かず、母と弟はこれまでと変わらず、ただただ僕に優しくしてくれていた。本当にありがたかった。温かいものが心に溢れ、涙が湧いた。気づくと、
「家族が大事・・・」と小さく呟いていた。敏感なNは聴き取ったのだろう。緊張したのが分かった。僕は、それを見て、顔をNに向け、
「家族が大事や!」とはっきり言った。大学の最後に知人たちに毒を吐いた時を思い出した。勿論あの時のような毒はないが、Nに対して、今までの僕にはなかった開き直ったような決然とした響きがあった。僕はもうこれ以上、家族に心配をかけることはできない。Nはその言葉の裏にある「共には行かない」という僕の決心を聞き取っただろう。僕は、これでいいと思った。怒るかもと恐れたNの顔は穏やかだった。そして静かに「そやな・・・」と(うなづ)いた。
 それから僕らはウイスキーを飲み、いつものような四方山話をした。大事な話は終わったのだ。二人の口調は明るく、僕らは結構楽しかった。12時近くになってNは帰って行った。真冬のように冷たい風の中に自転車に乗るNの姿が消えていった。僕はその暗闇を見つめながら、ふと、Nはこうなることを予想していたのでは・・・と(いぶか)った。でももう、いずれにしても、結果的には、僕はNを捨て、我が家族を取ったということになるのだ――薄いがそのくせ丈夫な膜のようなものが自分の身体を包んだような気がした。僕らのボヘミアンライフは名目上も終わり、僕の夢は、あのメロディは、完全に絶えた。





























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