第5話 旅のはじまり
文字数 1,942文字
湊斗くん、薄暗い部屋でベッドに倒れ込んだ。切れた口の端に血が滲んで痛そうだ。歯は欠けてないか? 床に打ち付けた手やお尻もズキズキ痛むんだ。
それから、芽生えたばかりで無惨にむしり取られた、くちゃくちゃに潰された『夢』の跡が、心の中でジンジンと痛んでいるんだ。
《悔しいな、湊斗くん》
「……」
湊斗くん、将来のことはその日以来考えないようになってしまったみたいだ。
それでも天体を、星を好きでい続けた湊斗くん。今度はなにやら、ひとり計画をし始めたみたいだよ。
むふ。なにをするつもりなのかな?
夏休み前の面談で担任の先生とこんな話をした。
「行ってみたいんです。この夏に」
「天体観測の名所に?」
「はい」
はっは! なるほどね。そいつはいい! 廃墟の屋上もなくなっちまったもんな。
ついでにあのお父っつぁんにも一泡噴かせれるかも、ってわけだ。
ああ。じつをいうとこれはまさに俺の思惑通りってわけよ。いい具合に導かれてくれてるね? 湊斗くん。
とはいえ彼の家庭環境は悪い。とても悪い。当然旅費なんか出してはもらえない。
さてどうすんのかな? と見ていると、押し入れの隅に隠してあった貯金箱を取り出してひっくり返した。どうやらたまにもらう飯代をコツコツ貯めていたみたいだよ。ほんと、涙ぐましい。『努力の結晶』ってこれのことだ。
だけど買えたのは片道分の切符だけだった。
《え、おいおい、帰りはどーすんの》
言うけど当然返事はない。
けどその目は、なにかを決意した目だった。
まじかい、湊斗くんよ。アンタ、もうここには帰ってこない気なの?
決行は夏休み初日のことだ。
最寄り駅の電車の始発は午前5時25分。
10分ちかく余裕をもって、デカいカバンとともに彼はそこに参上していた。
気温は早朝とあってまだそれほど高くはない。代わりに湿度は高く、もわんとなんだか息苦しい。灰白い空には星はもちろん、月も太陽も、なにもなかった。
長い長い電車旅のはじまりだ。普段電車になんか乗らない湊斗くん。挙動不審で不慣れが丸見えだから、あはは、目立つのね。
「お困りですか」
ほらほら。新幹線のりばで駅員さんに捕まっちまった。あー、小学生に思われちゃったかな? 大丈夫か?
「親御さんは」
う、と言葉に詰まる湊斗くん。おいおい、策はないのか? こんな序盤でジ・エンド? それはさすがに悲しすぎるぜ。仕方ないな。助けてやるよ。
《夏休みだから。親戚が駅で待ってるってことにすれば自然だよ》
「あ……えと。『関西方面行き』のホームに行きたいんです。ひとりなんですけど、到着駅に親戚が迎えに来てて」
なあ湊斗くん。あのな。言うけどな。
《やっぱばっちり聞こえてんじゃねーかあああ!》
ったく。ほんーとに。いい加減『神』の存在を認めろ。俺は幻じゃねー。ついでに幽霊でもねー。
なにはともあれ駅員さんは「それはいいですね」と微笑んで案内してくれた。はぁ、よかったな。
丁寧に並ぶ列まで案内してくれて、「良い旅を」だと。いい人だな。騙してごめんな。ありがとう。
《……ん。こら、おい湊斗くん。キミもちゃんとお礼を言いなさい》
ったく会釈だけで済ませるとぁ何事か。恥ずかしい? ばか言うな。挨拶とお礼はなにより大事だぞ。言わないほうが百倍恥ずかしいんだ! しかと胸に刻め、青二才が!
列車が来て、乗り込む。席番号を確認すると、シートに腰を下ろし汗を拭って「ふう」とひと息ついた。
まあそうな。緊張するわな。初めてひとりでこんな旅をしてんだから。
《心配はいらないぜ? なぜならこの俺【ヘルメス】は『伝令の神』であり『旅人の神』でもあるからね。この俺が付いてんだ。旅の安全は保証するよ。事件や事故にはまず遭わない。だから安心して揺れに任せてゆっくりお眠り》
……ハイハイ。無視ですね。
ぼう、っと眺める車窓は都会のビル群を抜けて、眩しい色の商店、アパートやマンション、そして同じ屋根の並ぶ住宅地と移ってゆく。
白かった空はすっかり青が濃くなって、うず高く積み上がった立体的な雲が際立つ。強くなりはじめた太陽の光で辺り一帯はジリジリと焦がされはじめていた。途中で駅にとまると蝉の声もジウジウ耳に届いてくる。
車窓の景色を見つめて、なにを思っているのかな? 日常を離れた喜びか、あるいは見えない先への不安か。家出への罪悪感か。まだ見ぬ星空への期待か。
考えても仕方ないぜ?
《一歩踏み出したんだ。だからすげーよ。それで充分じゃないの》
そのふんわりヘアーの頭にそっと触れるようにしてやる。すると湊斗少年は素直に首をもたげて瞼をとじた。
つかの間の休息だ。
ゆっくりおやすみ。勇敢な戦士くん。
車窓はいつの間にか緑溢れるのどかな田園風景へと変わっていた。
それから、芽生えたばかりで無惨にむしり取られた、くちゃくちゃに潰された『夢』の跡が、心の中でジンジンと痛んでいるんだ。
《悔しいな、湊斗くん》
「……」
湊斗くん、将来のことはその日以来考えないようになってしまったみたいだ。
それでも天体を、星を好きでい続けた湊斗くん。今度はなにやら、ひとり計画をし始めたみたいだよ。
むふ。なにをするつもりなのかな?
夏休み前の面談で担任の先生とこんな話をした。
「行ってみたいんです。この夏に」
「天体観測の名所に?」
「はい」
はっは! なるほどね。そいつはいい! 廃墟の屋上もなくなっちまったもんな。
ついでにあのお父っつぁんにも一泡噴かせれるかも、ってわけだ。
ああ。じつをいうとこれはまさに俺の思惑通りってわけよ。いい具合に導かれてくれてるね? 湊斗くん。
とはいえ彼の家庭環境は悪い。とても悪い。当然旅費なんか出してはもらえない。
さてどうすんのかな? と見ていると、押し入れの隅に隠してあった貯金箱を取り出してひっくり返した。どうやらたまにもらう飯代をコツコツ貯めていたみたいだよ。ほんと、涙ぐましい。『努力の結晶』ってこれのことだ。
だけど買えたのは片道分の切符だけだった。
《え、おいおい、帰りはどーすんの》
言うけど当然返事はない。
けどその目は、なにかを決意した目だった。
まじかい、湊斗くんよ。アンタ、もうここには帰ってこない気なの?
決行は夏休み初日のことだ。
最寄り駅の電車の始発は午前5時25分。
10分ちかく余裕をもって、デカいカバンとともに彼はそこに参上していた。
気温は早朝とあってまだそれほど高くはない。代わりに湿度は高く、もわんとなんだか息苦しい。灰白い空には星はもちろん、月も太陽も、なにもなかった。
長い長い電車旅のはじまりだ。普段電車になんか乗らない湊斗くん。挙動不審で不慣れが丸見えだから、あはは、目立つのね。
「お困りですか」
ほらほら。新幹線のりばで駅員さんに捕まっちまった。あー、小学生に思われちゃったかな? 大丈夫か?
「親御さんは」
う、と言葉に詰まる湊斗くん。おいおい、策はないのか? こんな序盤でジ・エンド? それはさすがに悲しすぎるぜ。仕方ないな。助けてやるよ。
《夏休みだから。親戚が駅で待ってるってことにすれば自然だよ》
「あ……えと。『関西方面行き』のホームに行きたいんです。ひとりなんですけど、到着駅に親戚が迎えに来てて」
なあ湊斗くん。あのな。言うけどな。
《やっぱばっちり聞こえてんじゃねーかあああ!》
ったく。ほんーとに。いい加減『神』の存在を認めろ。俺は幻じゃねー。ついでに幽霊でもねー。
なにはともあれ駅員さんは「それはいいですね」と微笑んで案内してくれた。はぁ、よかったな。
丁寧に並ぶ列まで案内してくれて、「良い旅を」だと。いい人だな。騙してごめんな。ありがとう。
《……ん。こら、おい湊斗くん。キミもちゃんとお礼を言いなさい》
ったく会釈だけで済ませるとぁ何事か。恥ずかしい? ばか言うな。挨拶とお礼はなにより大事だぞ。言わないほうが百倍恥ずかしいんだ! しかと胸に刻め、青二才が!
列車が来て、乗り込む。席番号を確認すると、シートに腰を下ろし汗を拭って「ふう」とひと息ついた。
まあそうな。緊張するわな。初めてひとりでこんな旅をしてんだから。
《心配はいらないぜ? なぜならこの俺【ヘルメス】は『伝令の神』であり『旅人の神』でもあるからね。この俺が付いてんだ。旅の安全は保証するよ。事件や事故にはまず遭わない。だから安心して揺れに任せてゆっくりお眠り》
……ハイハイ。無視ですね。
ぼう、っと眺める車窓は都会のビル群を抜けて、眩しい色の商店、アパートやマンション、そして同じ屋根の並ぶ住宅地と移ってゆく。
白かった空はすっかり青が濃くなって、うず高く積み上がった立体的な雲が際立つ。強くなりはじめた太陽の光で辺り一帯はジリジリと焦がされはじめていた。途中で駅にとまると蝉の声もジウジウ耳に届いてくる。
車窓の景色を見つめて、なにを思っているのかな? 日常を離れた喜びか、あるいは見えない先への不安か。家出への罪悪感か。まだ見ぬ星空への期待か。
考えても仕方ないぜ?
《一歩踏み出したんだ。だからすげーよ。それで充分じゃないの》
そのふんわりヘアーの頭にそっと触れるようにしてやる。すると湊斗少年は素直に首をもたげて瞼をとじた。
つかの間の休息だ。
ゆっくりおやすみ。勇敢な戦士くん。
車窓はいつの間にか緑溢れるのどかな田園風景へと変わっていた。