第32話 クロザルの処遇

文字数 1,947文字

 陸斗によってクロザルだと判明した生き物は修仁(しゅうじ)から離れようとしなかった。体格に比して長い腕を回し、修仁の肩にしがみついている。

 その身体には陸斗(りくと)のパーカーを掛けてあった。家から出ようとしたときにクロザルが冷たい風に震えたからだ。

 修仁が黒い生き物を抱いたまま玄関を出てきたとき、聡子(さとこ)は悲鳴を上げて前の道路を二十メートルほど走って逃げた。それからおっかなびっくり近づいてきたものの、車の陰からは出てこようとしなかった。

「その動物は何よ」

 車の向こうから聡子の声が聞こえた。「大丈夫なの?」

「とりあえず大丈夫」修仁は返事する。

 修仁が陸斗に目配せをすると、息子は母のところに走っていき、スマホ画面の情報を読み上げた。

「名前はクロザルと言って、霊長目オナガザル科の猿。インドネシアに生息していて、絶滅危惧種だよ」

「インドネシアの絶滅危惧種の猿が、どうして山梨の空き家にいるのよ」

「実際に家の中にいたのだから仕方ないじゃない。そんなことより寒いから、車の中で話をしてもいいかな」

 セーター姿の陸斗は修仁から預かった鍵でロックを解除すると、さっさと後部座席に乗り込んだ。それを見た聡子は、(いぶか)しげな顔をして運転席に入る。

 修仁が様子を窺っていると、三十秒ほど陸斗が一方的に喋った後、車内の前後で言い合いが始まった。

 陸斗から申し出てくれたことではあるが、聡子の説得を息子に任せたことに修仁は後ろめたい気分だった。

「連れて帰る気なの?」

 遅れて玄関から出てきた明佳(さやか)が、後ろから修仁に話しかけてきた。

「――」まだ自分の中で結論が出ていない修仁は返事をできなかった。

「どこにも通報しなくても大丈夫なのかしら」

「――分からない」

「兄さんにすっかり懐いてしまっているわね」明佳はクロザルの頭を撫でた。彼女自身もかなり慣れてきたようだ。
 明佳の問いに答えが出ない修仁は、話を変えた。

「それで、駿兄(すすむにい)の居場所が分かりそうなものは見つかったのか?」

 修仁と陸斗が一階に下りて対応を考えている最中、明佳は一人、二階の子ども部屋に残って探し物をしていたのだ。

「――何も見つからなかったかな」

 明佳は少し考える素振りを見せてから答えた。

「どうかしたのか?」

 思わせぶりな態度が気になった修仁の問いに明佳は応えようとせず、指先でクロザルの頬をちょんちょんと突いた。

「このクロザルは子どもなのかしらね」

 明佳の指の動きを目で追いかけているこの生き物が本当にクロザルという種類の猿なのか、修仁には判断できなかった。

 陸斗がネットで検索したクロザルの画像を見たが、確かに似ているとは思うものの一致したと言えるほどでもない、そんな感じだった。

 陸斗が検索したその画像は、かつてクロザルが人間の持つスマホを使って自撮りしたという有名なものらしい。にっこりと微笑んでいるかに見える顔は、人間の表情そのものだ。

 だが修仁に抱き付いたままの生き物は、そんなにユーモラスな表情はしていない。

 とは言え、他に「これだ」と確信が持てるような種類の生き物に心当たりがあるわけでもないので、何となくクロザルという名称に落ち着いている。

「あの、ちょっといいですか」

 少し離れた所に立っている美登里(みどり)が声を出した。

「そろそろ私、帰りますけど――」

「ええっ、帰ってしまうの?」
 明佳が声を上げた。クロザルが驚いてビクッと反応する。

「子どもが待っていますから」

 美登里は申し訳なさそうな顔で修仁と明佳に軽く会釈(えしゃく)すると、そそくさと自分の車に歩いていく。明佳が「でも、ちょっと」と声を掛けたが「本当にすみません」と言いながら車に乗り込んでしまった。
 まるでクロザルの処遇で揉める四人から一刻も早く離れたがっているようだった。

 息子と激論を戦わしていた聡子が気づいて運転席から出てきた時には、美登里の車は駐車スペースを出発していた。

 美登里の車が視界から遠ざかるのを見ながら、修仁は彼女の気持ちを考えた。美登里としては巻き込まれたくない一心だったのだろう。

 彼女だって当事者であり、逃げることは無責任に思うが、そうしたくなった気持ちは理解できた。

「美登里さんは家の中を調べられたのかよ」修仁は明佳に聞いた。

「分からないわ」美登里が帰ってしまったことが気に入らないのか、明佳は背を向けて空を(あお)いだ。

「私たちがお猿さんにバタバタしている間、美登里さんが何をしていたのかなんて分からないもん。でもずっと和室に残っていたと思うわよ」

 修仁は明佳の視線を追うように自分も空を見た。

 太陽は西の山に隠れようとしており、夕焼けで辺りは赤く染まっていた。家の中を調べるには、もうそんなに時間が遺されていなかった。

 修仁はクロザルを見た。目を閉じてゆったり呼吸している。眠っているようだった。
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