第53話 孤独な生活

文字数 2,059文字


 俺が猿に変身するのが現実の出来事だとすると、美登里(みどり)(しょう)彩葉(いろは)にばれるのは時間の問題だった。このことを心配し始めると、もう家にはいられない。

 俺は事情を知らない美登里の父親から生活態度を責められたのを口実にして、さっさとマンションを出て、この家で生活を始めた。

 幸い、自分の預金口座にはそれなりに貯えがあったから、すぐに生活に困ることはなかった。

 この家に住むようになってすぐに、俺はアルバイトを始めた。家の中に(こも)っていることが想像以上に辛かったからだが、考えが甘かった。

 最初に選んだ仕事は深夜のコンビニだった。夜中なら客も少ないから何とかなるだろうと思っていたのだが、同じ時間帯のシフトに入るアルバイトのことを全然考えていなかった。三日だけ通って、四日目に出勤の途中で猿になってしまったことを契機に、辞めてしまった。

 次に始めたのは、宅配便の下請けだった。これはコロナの影響で対面での業務が少なかったから気楽だった。会社から借りた軽ワゴンを使うことができ、基本的には一人での勤務なので、猿に変身しても安心だった。

 一人暮らしをするようになって間もなく、俺は猿になっていても運転できるテクニックを習得していた。
 運転席のシートに腰掛けることはせず、立ったままで運転をするのだ。宅配便のワゴンは、その姿勢で運転するのが自分の車よりも楽だった。
 俺は天職でも見つけた気分で、嬉しかった。

 そんな時に事件が起きた。五月頃だったと思うが、車から荷物を出して配達先の住宅に運んでいる最中に猿に変身してしまったのだ。

 車から降りて配達するタイミングで猿になってしまったのは、あの一回だけだ。そのたった一回の機会で、俺はその家の人間からエアガンで撃たれたのだ。

 怪我は大したことはない。胸と肩に(あざ)が残ったくらいだ。それよりも重要なことは、第三者の目にも俺が猿に見えていたということだ。

 幻覚ではない。俺は猿になっているのだ。

 あれからは仕事を一切しなくなった。もう、普通の人間として社会と接点を持つのは無理だと考えるようになった。

――

 修仁(しゅうじ)、お前は今夜の俺が饒舌なことに驚いているのではないか。

 今、お前の意識に語りかけている俺というものについて説明しておく。

 矢崎駿(すすむ)の中には、人間と猿の二つの精神が存在する。修仁とこうして話をしているのは猿の俺だ。

 残念ながら人間の駿は、日常の大半をほとんど眠っている。そんな状態が半年以上続いていて、外界との意思疎通が難しくなっている。

 人間の駿のことは、敢えて「あいつ」と呼ばせてもらうが、俺とあいつとの間で、記憶の共有はわずかにしか行われていない。
 以前はあいつが何を考え、どんな行動を取っていたのか、逐一覚えていたけれど、今では覚えていないことの方が多くなっている。

 同様に、あいつも俺が覚醒しているときに何をやっているのか、まるで知ってはいないだろう。今の矢崎駿は俺の意識が支配的なので、俺の記憶力の方が勝っている感じなので、俺は何となくあいつの言動の残滓(ざんし)みたいなものは掴めるのだが、半昏睡(こんすい)状態が長いあいつは、俺の動きがさっぱり分からないのではないだろうか。

――

 去年の春先だったと思う。美登里がこの家を訪ねてきたことがあった。

 そのときの俺は猿だったので、家の中に潜んで美登里をやり過ごした。この姿を美登里に(さら)す勇気はなかったのだ。

 自分の車を庭に停めたままであったことを思い出したのは、彼女が帰ってしばらく経った夜のことだ。これでは俺がこの家を利用していることを知らせているのと同じなので、車だけは動かしておくことにした。

 あれこれと試行錯誤して、落ち着いたのが公民館のゲートボール場の駐車スペースだった。あの場所は本当に良かった。
 隣の公衆トイレの用具入れには、どういう理由かは知らぬがウレタンの緩衝材の袋詰めが収納されていて、それを床に敷けば居心地が良かったのだ。それにコンセントもあって、スマホの充電もできた。

 実は、昨年末までは公民館の建物の中も使うことができたのだ。

 公衆トイレの用具入れの中で寝泊まりするようになってから半月ほどが過ぎた頃だっただろうか。ある夜、俺は公民館の日本間の地窓の一つに鍵が掛かっていないことを発見した。
 地窓は小さいから人間では出入りは不可能だが、猿の俺であれば可能だった。

 年末の大掃除の際に施錠されてしまったようで、今は入ることができなくなったが、それまでは頻繁に施設を使わせてもらった。

 年末で思い出したが、さっき俺は、あいつとの間で記憶の共有がわずかにしか行われていないという話をしただろう。記憶の受け渡しができず、俺が最も苦労したのはあいつが年末に藤枝まで出かけていたことだった。

 ふと気がついたら、俺は知らない家の玄関に立っていた。それが修仁の家だと理解できるのにそんなに時間は要らなかったものの、俺はただただ困惑するだけだった。

 あいつは猿になることを恐れて遠出を()けていたはずなのに、どうして藤枝にいるんだろう、と俺は悩んだ。
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