第58話 思い出と共に去る兄
文字数 2,395文字
この時、修仁 が思い出したのは十五年程前の駿 とのひと悶着だった。
あれは十月末のことだったか。兄が市役所の同僚を連れて静岡県西部の袋井 市のゴルフ場にプレーに来たことがあった。
そうだ。そんなに長い期間ではなかったが、兄にはゴルフをやっていた時期が確かにあったのだ。
修仁はゴルフコンペの前日、駿から参加者の土産用としてお茶とメロンのセットの手配を頼まれた。平日のことだったので、修仁は仕事を早退して市場で人数分を買いそろえると、参加者の宿泊するホテルに持参した。
事件はホテルのロビーで起きた。領収書を駿に渡したところ、高額だとして参加者の前で罵倒されたのだ。
「地元に住むお前にコーディネートさせたのだから、最低でも二割引だろう。それを定価で持ってくるなんて、使えない男だなあ」
駿は文句を言うだけ言うと、最後は嘲笑して独演会を締めた。
実際には多少の値引きはされていたはずだが、兄が満足する額ではなかったのに過ぎない。それに文句を言うのは自由だが、なぜ皆の前で侮辱したのか。弟を説教する自分を演出したかっただけではないのか。
嫌な思い出であった。修仁は頭を激しく振って記憶を消そうとした。
「修仁」
駿の呼ぶ声が聞こえた。目の前で発せられているはずなのに、いくつもの壁に反射して反響しているような遠い声だった。かつての思い出が上映されている映画館で、後ろから兄に話しかけられているような感覚だった。
修仁の中には、高校三年の明佳 が自室で嗚咽 している姿が浮かんでいた。あれは明佳が弓道の道具を買おうとした時に起きた騒動ではなかったか。
県大会で優勝するような強豪校の弓道部員だった明佳は、コーチのアドバイスで弓具を買うことを検討していた。ちょうど大学から帰省していた修仁は、弓道について全然知識はなかったが、明佳と一緒にカタログを見たりしていた。
彼女が欲しがっている弓具は六万円ほどで、お年玉と両親の補助だけでは足りないというので、修仁も一万円くらいは協力してやることを約束した。
ところが駿が購入に反対した。将来にわたって弓道を続ける保証がないのに、数万円の道具はもったいないと言い出したのだ。
たちまち両親は兄の理屈に言い負かされた。妹の部活に口を出すなと反論した修仁は兄から殴られた。
「バイトをしてでも買う」と言い張って最後まで抵抗した明佳が兄に怒鳴られ、弓具購入の話は立ち消えになった。
あの頃の兄はすでに就職していたはずだ。ならば反対するのではなく、購入代金を助けてやることは考えなかったのか。
修仁には、兄が社会人として金を稼ぐ身である自分を誇示するためだけに反対したように思えてならなかった。
これも嫌な思い出だった。
「修仁、答えろ」
駿がまた叫んでいた。修仁は駿の声には応えず、たった今思い出したことを頭の中から消去することに没頭する。
記憶の中には、おそらく兄を敬愛し、思慕するような思い出もあるはずなのだ。だが今の修仁には唾棄 したくなるような不愉快な記憶しか浮かんでこない。
僕はやっぱり、駿兄 のことが嫌いなのだ。修仁は改めて思い至った。
我に返ると、駿が蹴落とした炬燵の天板が膝の上に圧 し掛かっていた。修仁は天板を元の位置に戻すと、目線を前に向ける。暗がりの中に兄の姿はなかった。兄が立っていた辺りには、黒く小さい塊が、畳の上で二つの眼を光らせていた。
兄はブラッキーに戻ったようだった。
修仁は部屋の奥に歩み寄ると、暗闇から切り取るようにしてブラッキーを抱きかかえた。
ブラッキーは抵抗せず、修仁の肩に手を回す。
「ブラッキー、喋れるか」
修仁は話しかけたが、ブラッキーは何も喋らず、擦れた声で小さく「シャー」と鳴いた。開けた口から見えた前歯が大きかった。
なぜ兄がブラッキーになってしまったのかは分からない、
兄は「気持ちのコントロールができないと人間ではなくなる」と言っていた。また「周りの人間が自分より劣っていると考えないと気持ちのコントロールができない」とも言っていた。これが猿に変身するトリガーなのだろうか。
何にしても、今夜の面会時間に終了したのだと修仁は悟った。
これから先のことは何も見通せない。だが兄に教えてもらうことではない。
兄をどうするべきかではなく、兄の状況を知った僕がどうするべきか、ということなのだ。
修仁はポケットからLED懐中電灯を出して明かりを灯すと、ブラッキーを抱いたまま二階に行った。自分たちの部屋に入ると、敷いたままの布団を捲り上げて、そこに赤いポシェットを見つけ出した。
紛失しないように置き場所を決めてあるのだと思った。修仁は無性に愛おしい思いが込み上げてきて、ブラッキーを抱く腕に力が入った。
修仁はブラッキーを布団の上に降ろすと、自分の財布から一万円札を数枚出し、ポシェットの中に突っ込んだ。
「駿兄、僕はそろそろ帰るよ」
修仁は猿ではなく兄に対して声を掛けると、ポシェットをブラッキーの目の前にぶら下げた。ブラッキーは手を伸ばしてそれを受け取ると、紐を肩に掛け、そして学習机の上に登る。
「今度は、僕からの電話にも返事をくれ。約束してほしい」
修仁は黄金色の目に向かってゆっくり言葉を並べた。
「いいね。約束だよ」
ブラッキーは修仁を見つめたままだった。
修仁はブラッキーの頭を撫でてから部屋を出た。懐中電灯の明かりを頼りに階段を駆け下りると、両足に靴をひっかけて玄関を出た。
車に乗り込むと、修仁はエンジンをスタートさせる。早く家から離れたいという気持ちとは裏腹に、目に溢れてきた涙が邪魔をして、車を発進させることができなかった。修仁は両手でハンドルを殴った。
この涙は何だ。
兄と決別してもやむを得ないと考えている自分と、ブラッキーと離れることに言いようのない惜別の哀しみを感じる自分とで、修仁の頭の中は混乱していた。
あれは十月末のことだったか。兄が市役所の同僚を連れて静岡県西部の
そうだ。そんなに長い期間ではなかったが、兄にはゴルフをやっていた時期が確かにあったのだ。
修仁はゴルフコンペの前日、駿から参加者の土産用としてお茶とメロンのセットの手配を頼まれた。平日のことだったので、修仁は仕事を早退して市場で人数分を買いそろえると、参加者の宿泊するホテルに持参した。
事件はホテルのロビーで起きた。領収書を駿に渡したところ、高額だとして参加者の前で罵倒されたのだ。
「地元に住むお前にコーディネートさせたのだから、最低でも二割引だろう。それを定価で持ってくるなんて、使えない男だなあ」
駿は文句を言うだけ言うと、最後は嘲笑して独演会を締めた。
実際には多少の値引きはされていたはずだが、兄が満足する額ではなかったのに過ぎない。それに文句を言うのは自由だが、なぜ皆の前で侮辱したのか。弟を説教する自分を演出したかっただけではないのか。
嫌な思い出であった。修仁は頭を激しく振って記憶を消そうとした。
「修仁」
駿の呼ぶ声が聞こえた。目の前で発せられているはずなのに、いくつもの壁に反射して反響しているような遠い声だった。かつての思い出が上映されている映画館で、後ろから兄に話しかけられているような感覚だった。
修仁の中には、高校三年の
県大会で優勝するような強豪校の弓道部員だった明佳は、コーチのアドバイスで弓具を買うことを検討していた。ちょうど大学から帰省していた修仁は、弓道について全然知識はなかったが、明佳と一緒にカタログを見たりしていた。
彼女が欲しがっている弓具は六万円ほどで、お年玉と両親の補助だけでは足りないというので、修仁も一万円くらいは協力してやることを約束した。
ところが駿が購入に反対した。将来にわたって弓道を続ける保証がないのに、数万円の道具はもったいないと言い出したのだ。
たちまち両親は兄の理屈に言い負かされた。妹の部活に口を出すなと反論した修仁は兄から殴られた。
「バイトをしてでも買う」と言い張って最後まで抵抗した明佳が兄に怒鳴られ、弓具購入の話は立ち消えになった。
あの頃の兄はすでに就職していたはずだ。ならば反対するのではなく、購入代金を助けてやることは考えなかったのか。
修仁には、兄が社会人として金を稼ぐ身である自分を誇示するためだけに反対したように思えてならなかった。
これも嫌な思い出だった。
「修仁、答えろ」
駿がまた叫んでいた。修仁は駿の声には応えず、たった今思い出したことを頭の中から消去することに没頭する。
記憶の中には、おそらく兄を敬愛し、思慕するような思い出もあるはずなのだ。だが今の修仁には
僕はやっぱり、
我に返ると、駿が蹴落とした炬燵の天板が膝の上に
兄はブラッキーに戻ったようだった。
修仁は部屋の奥に歩み寄ると、暗闇から切り取るようにしてブラッキーを抱きかかえた。
ブラッキーは抵抗せず、修仁の肩に手を回す。
「ブラッキー、喋れるか」
修仁は話しかけたが、ブラッキーは何も喋らず、擦れた声で小さく「シャー」と鳴いた。開けた口から見えた前歯が大きかった。
なぜ兄がブラッキーになってしまったのかは分からない、
兄は「気持ちのコントロールができないと人間ではなくなる」と言っていた。また「周りの人間が自分より劣っていると考えないと気持ちのコントロールができない」とも言っていた。これが猿に変身するトリガーなのだろうか。
何にしても、今夜の面会時間に終了したのだと修仁は悟った。
これから先のことは何も見通せない。だが兄に教えてもらうことではない。
兄をどうするべきかではなく、兄の状況を知った僕がどうするべきか、ということなのだ。
修仁はポケットからLED懐中電灯を出して明かりを灯すと、ブラッキーを抱いたまま二階に行った。自分たちの部屋に入ると、敷いたままの布団を捲り上げて、そこに赤いポシェットを見つけ出した。
紛失しないように置き場所を決めてあるのだと思った。修仁は無性に愛おしい思いが込み上げてきて、ブラッキーを抱く腕に力が入った。
修仁はブラッキーを布団の上に降ろすと、自分の財布から一万円札を数枚出し、ポシェットの中に突っ込んだ。
「駿兄、僕はそろそろ帰るよ」
修仁は猿ではなく兄に対して声を掛けると、ポシェットをブラッキーの目の前にぶら下げた。ブラッキーは手を伸ばしてそれを受け取ると、紐を肩に掛け、そして学習机の上に登る。
「今度は、僕からの電話にも返事をくれ。約束してほしい」
修仁は黄金色の目に向かってゆっくり言葉を並べた。
「いいね。約束だよ」
ブラッキーは修仁を見つめたままだった。
修仁はブラッキーの頭を撫でてから部屋を出た。懐中電灯の明かりを頼りに階段を駆け下りると、両足に靴をひっかけて玄関を出た。
車に乗り込むと、修仁はエンジンをスタートさせる。早く家から離れたいという気持ちとは裏腹に、目に溢れてきた涙が邪魔をして、車を発進させることができなかった。修仁は両手でハンドルを殴った。
この涙は何だ。
兄と決別してもやむを得ないと考えている自分と、ブラッキーと離れることに言いようのない惜別の哀しみを感じる自分とで、修仁の頭の中は混乱していた。