第64話 帰り際の幻聴

文字数 2,103文字

 兄が姿を消してから、どれくらい時間が経っただろうか。広縁に立ったままだった明佳(さやか)が鼻を(すす)ると、修仁(しゅうじ)に顔を向けた。

駿兄(すすむにい)は二階に上がったのかな。修仁兄さん、二階に行ってみる?」

 明佳の頬を伝う涙が月光に反射していた。修仁は返事をせずに炬燵(こたつ)を出ると、階段の前まで歩き、振り返って明佳に言った。

「やめておこう。今夜はもう駿兄とは話ができないような気がする」
「そうね」明佳は涙を拭った。

 駿(すすむ)が和室を出た後、階段を上る音など聞こえなかった。兄は明らかに消えたのだ。ひょっとしたら二階に行けばブラッキーがいる可能性があると修仁は思ったが、口にはしなかった。

 本来であれば昨夜で終わっていた面談を強引に一日延長したことで、兄は本当に疲れたのかも知れなかった。

 修仁は明佳を(うなが)して先に玄関から出させ、自身は洗面所に行って電気のブレーカーを落とす。これから先、しばらくはこの家に来ることはないような気がした。

 玄関で靴を履くと、修仁は振り返って、懐中電灯の明かりを階段の先に向けた。明かりは階段の一番上までは届かなかった。

 疲れたのは兄だけではない。修仁自身も頭が重くなっていた。今夜はこれから明佳を連れて藤枝まで帰らなければならなかったが、途中、明佳に運転を代ってもらわなければとてもたどり着けそうな気がしなかった。

 藤枝の自宅に戻れば聡子(さとこ)に説明をしなければならない。想像しただけでも億劫な気分になってくるが、やらないわけにはいかない。そして明日は仕事だ。家に帰れば、現実の生活が待っているのだ。

 駿兄はブラッキーになってしまったからと言って、僕の生活が変わることはないのだ。それは明佳も同じだろう。妹も明日には仙台にとんぼ帰りだ。

 不意に明佳の声が聞こえた。
「修仁兄さん、本当に駿兄のことを心配しているの?」

 修仁は驚いて後ろを振り返ったが、開けっぱなしの玄関の引き戸の先には明佳の姿はなかった。いや、今の声は家の中から聞こえた。

 あいつ、家の中に戻ったのか。修仁は懐中電灯の明かりを和室に向けるが、そこには明佳はいない。

「修仁、明佳が弓を買いたがったとき、あんたも駿に賛成していたでしょう。それなのに明佳には協力するって約束していたと聞いたよ。あんた、どっちにもいい顔したかったの?」

 次に聞こえた声は懐かしかった。巻き舌口調でゆっくり喋るのは亡母のそれだ。

「駿と二人でお留守番した時、どうして駿が作ったカレーを食べなかったんだ。お腹が痛いと嘘を付いて、自分だけパンを買って食べたみたいじゃないか。弟に自分の料理を食べさせるんだと駿は張り切っていたぞ。ショックを受けたらしくて泣いていた」

 今度は父の声が聞こえた。擦れた声で(ささや)くように話すので、いつも聞き取り(にく)かった。

「弟の責任だとか言いながら、実は駿兄がいなくなって嬉しいんじゃないの」
 また明佳の声がした。

「嬉しいはずがないだろう」

 修仁は誰もいないはずの室内に向かって反論した。声に出して言い返さなければいけないと強く感じた。

「それは本心なのか?」
 駿の声がした。

 兄は戻ってきたのか。修仁はまた和室に戻ろうと靴を脱ぎかけたところで後ろから肩を叩かれた。振り返ると明佳がいた。

「突然大声を出してどうしたの?」
「いや。――何でもない」

 修仁は懐中電灯を左右に動かして家の中全体を照らす。誰もいない。兄もいない。物音一つない静寂と黒い闇が、(にわ)かに怖くなってきた。

 玄関に施錠するとき、修仁の指は震えていた。決して寒さによるものではなかった。なぜなら身体は熱を帯びており、背中を汗が伝っていたからだ。

 修仁は明佳を乗せ、車を発進させた。頭の中から兄のことは消えていた。自分のことで一杯だった。
 藤枝に向けて国道を南下し始めると、五分も経たないうちに明佳の寝息が聞こえてきた。

 駿兄がいなくなって嬉しいのか。修仁は自らに問うた。

 実家の去り際に口では否定したが、きっと本当なのだろう。なぜなら悲しくないからだ。明佳のように困ってもいない。
 だけど、それではいけないと思っているから責任という言葉を利用していたのだ。

 修仁は家族の声が聞こえたことを、兄から変な話を聞かされたために一時的な精神錯乱が起きたものだと解釈していた。

 所詮は幻聴に過ぎないとは言え、とっくの昔に忘れ去っていた話をよく思い出したものだ。脳の機能の不思議さをあらためて認識させられた気分だった。

 カレーを食べなかったのは不味そうだったからだ。そのことで嘘を付いたのは駿兄への気遣いだった。明佳の弓のことは覚えていないが、六万円なんて贅沢だ、と駿兄に話した記憶はあった。だから駿兄は僕のことを嘘つき呼ばわりして殴ったのだろうか。

 そんなことよりも色鉛筆のことだ。修仁は兄の回答には、全く納得できていなかった。
 許しがたいとすら思っていた。さらに、兄がいなくなることに対する己の感情に、余計な装飾がされてしまうことが腹立たしかった。

 修仁は中部横断自動車道のインターチェンジの手前まで何とか車を運転すると、コンビニの駐車場に乗り入れてエンジンを止めた。襲いくる睡魔のために、前方の視界が歪んで見えていた。
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