第66話 動物園にて

文字数 2,302文字

 土曜日、三人は朝早くに家を出発し、陸斗(りくと)の希望通りに渥美半島をぐるっと回ってから、午後二時に動物園に着いた。

 正面ゲート前を車で通過したとき、聡子(さとこ)が「陸斗が小さい頃に一度来たことがあったわ。この風景に記憶がある」と懐かしそうに言った。
 修仁(しゅうじ)にはその記憶はない。

 動物園は修仁たちの想像を超えて混雑していた。緊急事態制限が解除されたからといって、そんなに一気に人出は増えないだろうと(たか)(くく)っていた修仁は、おのれの見込み違いに唖然とした。あまりに混み過ぎて、駐車場の空車待ちで並ぶ羽目になったのだ。

 三人がようやく正面ゲート前でチケットを購入したのは、それから二十分後だった。
園内は親子連ればかりだった。修仁たち一行も一応は家族連れではあるが、子どもの年齢に大きな違いがある。そのせいか、陸斗は心なしか気恥しそうである。

 案内地図を見ると、クロザルの展示エリアは正面ゲートから右奥の『サルのアパート』と名付けられた一角にあった。修仁がそれに向かって脇目も振らずに歩き出すと、さっそく陸斗から引き止められた。

「どこに行くんだよ。順番があるだろう」
「お前たちは順番に見てくればいいよ。僕は先に行くから」

 修仁はそう言うと、呆気に取られる二人を残して早足で猿の展示エリアへと急いだ。
サルのアパートの区画には、複数の種類の猿がそれぞれ五メートル四方のゲージの中に収められている構造物が二基建っていた。クロザルのゲージは向かって右側にあり、中には数匹の黒い猿がいる。数えたら四匹だった。

 頭部のモヒカン、黒い顔、黄金色の瞳、長い鼻筋、そして突き出た眉間といった特徴は、ブラッキーに酷似していた。

 インターネットで紹介されている画像を見たときには愛嬌がある動物だと思ったが、こうやって動いている実物を目の当たりにすると、修仁には次元の違う世界の生物という印象が生まれた。要するに宇宙人と同じだ。

 いや、実在して動いていた点ではブラッキーも同じだ。だが、ブラッキーには間違いなく感じた情愛を、ゲージの中の四匹には感じることができなかった。

 目の前のクロザルは犬や猫よりも人間に近い種であるはずなのに、修仁にはあらためて人間とは遠い存在であるかのように思えた。

 この時、修仁はゲージの最も高いところに登っているクロザルに気が付いた。さっき数えた中には含めていなかったこのクロザルは、修仁を見つめながらフェンスを伝って下りてきた。他の四匹と違って、かなり大型だった。

「ブラッキー」

 修仁はこの大きなクロザルに声をかけていた。まさか、こんなところにいるとは思ってもみなかった。その顔は兄が変化したブラッキーそのものだった。

 ブラッキーは修仁を見つめながら、口を開けて大きな歯を見せた。笑っているのか、威嚇しているのか、よく分からなかった。

 どうやって動物園の中に入り込んだのか。いや、どうやってクロザルの集団に入り込んだのか。飼育員だって、「いつの間にか一匹増えました」というわけにはいかないだろう。

 見ていると別のクロザルが近寄ってきて、ブラッキーの背中の毛繕(けづくろ)いを始めた。ブラッキーは嫌がる様子もなく、勝手にやらせているという感じだ。そのうち四足歩行で、ゲージの奥に歩き出した。

「ブラッキー」修仁はもう一度声をかけた。

 ブラッキーは振り返って修仁を見て、そしてまた歩き出した。床に落ちている緑色の果物を手に取って少し食べ、そして残りを捨てた。

 奥の壁際まで進んだブラッキーは修仁のほうに向き直り、体育座りをした。目線は修仁ではなく、もっと遠いものに向けている感じがした。

 別のクロザルがブラッキーに近づき、その横に寝転んだ。ブラッキーは反応しない。また別のクロザルがやってきて、寝転んだクロザルの上に圧し掛かり、臭いを嗅いでいる。

 二匹の動きを邪魔に感じたのか、ブラッキーは四本足で立ち上がり、横に移動した。そしてまた尻を床に着けて座った。目線は遠かった。

「どう?」
振り返ると陸斗が立っていた。

「どう見ても、お婆ちゃんの家にいた猿に似ているよね」陸斗はそう言うと、スマホを出してゲージの中の撮影を始めた。

「このクロザルの姿を明佳(さやか)おばちゃんに送ってあげよう」
 ゲージの中のブラッキーを見た時の明佳の心情を想像しただけで、修仁は息が苦しくなった。

「ちょっと待て。明佳おばちゃんに送ることはやめろ」
「どうして?」陸斗は聞き返しながらも画像撮影はやめなかった。

 理由が言えない修仁が目線を彷徨(さまよ)わせると、聡子が遅れてゲージの前に登場した。

「二人とも私も置いてけぼりにして、(ひど)いわね」聡子はそう言いながら、ゲージの中を眺めた。
「これがクロザルなのね。三匹いるの?」

「木の上に登っているのもいるから、四匹だよ」陸斗が答えた。
 いや五匹だ、と思った修仁は、いつの間にかブラッキーの姿がないことに気づいた。

「一匹減った」修仁が呟くと、陸斗が「何?」と聞き返してきた。

 修仁はゲージ内を凝視した。中にいる黒い塊を何回数え直しても四匹しかいなかった。体型が大きいものもいない。

 さっきまで幻を見ていたとは思えなかった。昨夏から同じような経験を何度もしている。ブラッキーは確かにいたのだ。
 だが――。動物園の檻の中には居てほしくない。このまま消えてもらった方がありがたかった。

「あなたの実家に住み着いていたのが本当にクロザルだったとして、どうして山梨にいたのかしら」
 聡子が言った。

「動物園から逃げ出したんだよ。それとも、もしかしたら密輸とか」と陸斗は答えると、すでにクロザルに興味を無くしたのか、隣のゲージに歩いて行った。

 修仁は何も言わなかった。
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