第4話 将棋のさくら④

文字数 2,366文字

 ある日、さくらは対局を終えて帰路についていると、自分が多くの人間と逆の方向に進んでいるのがわかった。
 時計を見ると、朝の七時過ぎだった。
 多くの人は、学校に行ったり仕事に行ったりで家から出ていくのに、自分はむしろこの時間に家に帰る。
 自分は異常な場所にいるのではないかとふと過った。

 バスに乗り換え揺られていると、自分と同い年くらいの女性たちが、笑顔で何かをしゃべりながら歩いていた。
 自分には同年代の友人などいない。
 研究仲間はいるが友人はいない。
 ああいう未来もあったはずである。

 今ならまだ間に合う。
 今が分岐点。
 今ならまだ間に合う……。

 赤信号で停止していたバスが発車した。
 女性たちの姿はまた、はるか後方へと消えていった。
 さくらの一瞬の迷いも消えていった。


 その日からさくらは、以前にもまして研究に没頭した。
 さくらは将棋とともに多くのボードゲームをこなす中で、ある新戦法を編み出した。
 さくらシステムである
 序盤に一手損を含ませ、飛車を敵陣に早く送る。
 まさに、肉を切らせて骨を断つ戦法である。
 プロ同士で序盤に一手損を含ませたら、そこから逆転することは極めて困難だが、リスクを背負ってでも敵陣により早く切り込んで、なるべく早く自分にとって有利な局面、即ち形勢不明の混沌を作ろうとした。

 さくらの新戦法に棋士は皆驚愕した。
 その年から勝率は一気に向上した。
 見たことのない局面となることが増えたため、棋士は対策に追われた。
 勝率が上がると、報道もまた多くなった。
 それでもさくらは冷静だった。
 どのみちすぐに研究しつくされる。
 その前に地力を上げなくてはならない。


 棋士たちの中で、さくらは奇異な立ち位置となった。
 読みの深さの集中に難はある。相変わらず格下相手に落とすこともある。
 肉を切らせてそのまま切らせただけだったなんてこともある。
 ただ、こちらの読みを外される場面が多い。
 見たことのない展開が多くてやたらと時間がかかる。
 ミスをしないように注意深く読まないといけないが、持ち時間がなくなるとさくらが有利になってしまう。

 さくらの三期先輩の大熊七段が言う。

「とにかく、鈴木と対局するときには、鈴木用の鈴木対策をしないといけない。その対策は、他の棋士に応用できるものでもない。鈴木があまりにも特殊だから。だから、鈴木と対策すると、勝っても負けても、そのあとの対局に響くんです。なんとなく調子が出ないような。だから、なんとなくみんな苦手意識を持つ。僕なんかもそう。鈴木との対局を控えると、なんとなくその時点で、あーあ、みたいな気持ちになる(笑)。これって、既に相手にアドバンテージをとられてる、ってことです」

 さくらは見られることを少し意識した。
 テレビでは地味な対局風景が長時間放映される。
 せめてと思い着物はなるべく映えるものを選んだ。
 耳に小さな花をさして臨むこともあった。
 誰に言われるでもなく、多少は女性として華やかな雰囲気でいたいと思った。
 しかし対局の集中に潜ると、そんなことは吹っ飛んでしまい、さくらは髪を振り乱し、着物は着崩れ、耳元の花はしおれた。
 途中で出てくるお菓子を、臆面もなく丸ごと口の中に豪快に放り込んだ。
 その姿もまた話題になった。

 並行して行う他のボードゲームも、どんどんその腕前を上げた。
 囲碁はアマチュア本因坊の東京代表になるまでになった。
 オセロは世界戦でベスト4まで残り、チェスは国内のランキングで1位となり海外に遠征するようになった。

 鏑木は言う。

「とにかく、彼女の日常って異常じゃないですか。僕と王将戦を戦って、その前日に何をしていたかというと、オセロの世界大会に出場していて、今朝飛行機で戻ってきたと。とても考えられない。鈴木は、そうやって勝負の緊張の中に絶えず身を置いている。地力がまだ足りないあの時点で格上に勝っていたのは、そういう異常な日常も関係していたと思う」


 さくらは、某国で開かれたチェスの国際大会に出場した。
 そこでさくらは、当時のグランドマスター相手に、ナイトを敢えてとらせて勝利するという離れ業をやってのけた。
 次の対局で負けたが、それを見ていた某国チェス連盟の会長が、さくらのスカウトに乗り出した。
 さくらは断り帰国したが、将棋連盟は某国の強引なスカウティングに不快感を示した。
 その時、将棋連盟の会長は、竜王の座を鏑木に明け渡した渡利九段が担っていた。
 日本の連盟らからの抗議に対し、某国チェス連盟は正式に謝罪した。
 しかし、チェス連盟の会長のアスパロフは言った。

「日本に対し非礼を詫びる。わたしは将棋のことも知っている。ただ、彼女、サクラ・スズキは、本質的にはチェスの資質だよ。ちゃんとしたコーチのもとで訓練すれば、グランドマスターになれるかもしれない」

 渡利会長は言う。

「おそらく、それは事実かもしれません。でも、それとこれとはまったく別問題」

 局面展開の早いチェスは、たしかにさくらの性質に合っていた。
 しかし、それはさくらには問題にならなかった。

「将棋が本妻。あとは余技」

 とさくらは言った。

 さくらは徐々に勝ちを積み重ね、25歳でA級に昇りつめた。
 そのころには、格下への取りこぼしも格段に減っていた。

 再び渡利会長。

「ついにここまで来たかというところですね。プロの舞台に来た時に、弱点を抱えていて、どう乗り越えるかと思っていたけど、まさか乗り越えないという選択をとろうとは(笑)。自分の良さを特化させて、あくまで棋界の稀種として特異な打ち筋を貫いて、そうこうしているうちに本当に地力もついてきた。将棋界で上位は漏れなく防御が固いですが、彼女も自分の持ち味はそのままに防御も強くなった。勝つことで強くなるを有言実行した結果ですね」
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