第6話 将棋のさくら⑥

文字数 1,874文字

 将棋将棋将棋チェス囲碁オセロチェス……。
 囲碁将棋将棋将棋オセロチェス囲碁……。

 息つく間もなく、さくらは連戦を続けた。
 もはや対局と生活の境目がなかった。
 食事も睡眠ももっぱら移動時間にとった。
 チェスやオセロの海外での対局もあり、今が朝か夜かの認識も曖昧になっていった。

 日増しにさくらの名声は高まった。
 これまでにないマルチプレイヤー。
 二人零和有限確定完全情報ゲームの覇者。
 覇者?
 自分は本業の将棋で、まだひとつもタイトルを取っていない。
 自分は器用貧乏だ。
 片やライバル認定していた鏑木翔太は、渡利九段から竜王を奪取し四冠となっている。

 今のままではだめなのだ。
 今のままではだめなのだ。
 何とかしなくてはならない。
 思えば、自分はいつも何かに切迫している。
 何かにいつも追われている。
 どこまでいっても飢餓に襲われる。
 でも何に飢えているのかがわからない。
 対局していても本当に相手と戦っているのか。
 はたまた自分で自分と戦っているのか。
 他者が誰もいない中で、ひとりぽつんと駒をかたかた動かしているのか。
 私は一体何なのか。
 いや、唯一必ず他者と相対していると認識できる場面がある。

 鏑木翔太との対局である。


 さくらと鏑木は、十七勝十七敗で完全に拮抗していた。
 さくらは鏑木相手の時には、ありがちなミスを一つもせずに一切集中を切らさなかった。

 さくらは研究会に顔を出さなくなっていた。
 一人で自室に籠ってネットで最新の棋譜を集めて研究した。
 盤面と向かい合っているときには、深い井戸に潜っているようだった。
 将棋は完全なゲーム。
 つきつめれば、おそらく先手必勝。
 しかし、そこには人間はたどり着けない。
 いかに近似していくか。
 さくらは、井戸をより深く深くと潜っていく。
 潜るのに疲れると、チェスやオセロや囲碁をする。
 それはまた別の井戸に潜るようなものである。
 心配した研究仲間が連絡をしてきても、返信しなかった。

「将棋の新たな可能性を見せてくれていますね。まったく新しい展開」

 可能性?
 可能性なんて私にはない。
 私にあるのは怯えなんだ。
 勝負の中にいないと落ち着かないのだ。
 勝てなくなったら自分の輪郭がなくなるのだ。
 それが怖くてたまらないのだ。

「ああいう新しい存在が出てきたことで、将棋界も活性化されます。新規に興味をもってくれる人たちも増える。これだけ将棋が世間で話題になることも今までになかった」

 活性化?
 興味?
 話題?
 他人のことなど知ったことか!

「彼女といえども、苦悩しているんではないか。A級に上がったものの、タイトルは一つも取れていない。挑戦権も得ていない。少し頭打ちになっている可能性がある。何か新しいアプローチが必要なのかもしれない」

 さくらはその雑誌をびりびりに引き裂いた。

 当たり前だ。
 曲芸一つに磨きをかけてここまで来たんだ。
 タイトルを取るには地力が足らないのは知ってたことだ。
 頭打ちだって?
 そんなのは言われるまでもなくわかっている。
 だからこれだけもがいているのだ。

 一方で、将棋雑誌に求められるものは、女性棋士としての華やかさで、やたらと高そうな着物を着させられ、カメラの前で笑顔を求められた。
 どうでもいいので、求められるままにひきつった笑顔を作り、あとで雑誌を見て、これは本当に自分なのかと疑問に思った。
 あの、将棋を始めたころの鈴木さくら。
 生活の中の鈴木さくら。
 雑誌の紙面の鈴木さくら。
 対局中の鈴木さくら。
 盤面に一人潜る鈴木さくら。
 そのどれもが嘘くさく思えた。
 なんだか自分が分裂していくような気がした。

「最近少し顔色が悪い」

 将棋会館で鏑木に声をかけられたのはその頃だった。

「悪かったね。顔が悪くて」
「はぐらかすな。疲れすぎだ。当たり前のことだがスケジュールが無茶苦茶すぎる。こないだだって、王将リーグの前だってのに、BSでアマチュア本因坊に出場している鈴木を見てびっくりした」
「大きなお世話」
「棋士人生は長い。今のままじゃつぶれる」
「つぶれて本望」
「馬鹿野郎!」

 鏑木は大声で叫んだ。
 会館のみなが訝しんで二人に視線を送った。

「みんなが見ているのは棋譜だけじゃない。その一手を打つ人間自身だ。それが将棋じゃないか。つぶれていいなんて、そんな身勝手な言葉は俺は許さない」

 言った後で、鏑木は大いに赤面した。
 でも後悔はなかった。

 さくらは虚を突かれたように驚いて、でもすぐに薄く笑った。

「……ありがとう。でも、私にはこれしかないからさ」

 そして、さくらは会館を去った。
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