第7話 将棋のさくら 最終回

文字数 3,452文字

 さくらは王将戦の挑戦者決定トーナメントで勝ち残り、鏑木翔太と鈴木さくらの王将戦七番勝負が決定した。
 さくらはこれまでの鏑木の棋譜をすべてさらった。
 データベースで、奨励会までさかのぼって、すべてさらった。
 鏑木翔太。
 オールラウンダー。
 攻め受け万全バランスよし。
 相手の戦法には柔軟に対応。
 緩急つけ読みは正確体力もある。
 終盤は早く一気に詰めろをかける。
 私にないものを持っている。
 私がなりたかったオールラウンダーの完成形に近づいている。
 鏑木翔太鏑木翔太……。

 さくらは七番勝負までの一か月間、対局以外はほとんど家から出ることもなく、
深い深い将棋の井戸に潜って思案を続けた。


 王将戦七番勝負が始まった。
 さくらは、自身の想定する局面に持って行ったが、混沌の中でも鏑木は動じなかった。
 間違えることなく淡々と手筋をすすめた。
 鏑木は鏑木でさくらの手筋を研究し、さくらシステムを解剖していた。

「さくらシステムの解剖は完了している」

 三連勝で飾ったそのあと、感想戦で記者に聞かれないように小声で、鏑木はさくらに言った。

「……知ってる」

 自失のさくらは、消えるような声でこたえた。

「でも、私にはこれしかないから」
「それしかないなんてことはないと思う」

 鏑木は座布団から腰をあげた。

「でもこの勝負に勝つのは俺だ」

 鏑木は鏑木で混乱していた。
 この勝負に勝てば、鈴木さくらはどうにかなってしまうのではと不安だった。
 でも勝負に負けたくなかった。
 勝負師としてというよりも、どうしても鈴木さくらには負けたくなかったのだ。
 負けた自分を見せたくないのだ。
 ではどうしたらいいのだろう。
 どうすればいいのかわからなかった。
 ただ将棋を指すことしかできない。
 自分たち棋士は、言葉よりも盤面で対話する。
 盤面で自分の意思を伝える。


 さくらは思った。
 システムシステムシステム……。
 私は攻めるのが好きだった。
 受けるのはあまり好きじゃなかった。
 そういう性分。
 でも攻めるのが好きというよりもさらに前、私は将棋が好きだった。
 将棋の盤のあの形あの匂い。
 将棋の駒のあの手触り。
 それぞれに役割があって、それぞれがそれぞれの場所で生き生きと躍動して。
 マス目の正方形がなんかきれいで。
 じいちゃんがそれを持ってきたとき、死んじゃったじいちゃんが困り果ててそれを持ってきたとき、わくわくしたのだ。
 何か新しいものが、自分の目の前に現れると。
 未知の何かが始まる予感でいっぱいだったのだ。


 四戦目が始まる。
 さくらは自宅から着の身着のままで現れて記者たちを驚かせた。

「身なりはどうした」
「身なりなんてどうでもいい。身なりを整えろという規則はないはず。着替える時間が惜しかった」

 そのまま座布団に座り、一口コップの水を飲んだ。
 落ちくぼんだ目で鏑木を見て、そして視線を盤に沈めた。

 さくらはシステムを捨てていた。
 かつての捨て身の猛攻だった。
 観戦室ではあまりに無謀の評価。
 粗すぎると鏑木は思ったが、さくらは攻めながらも、鏑木の正確な手筋に紙一重で対応した。
 中盤までわずかに鏑木優位とみなされていたが、受けきるかのぎりぎりのところで、鏑木がリスクある最善手を避け、次善手を打った。
 さくらはそのすきを見逃さず五分にした。
 そこで互いに持ち時間を使い切り秒読みとなった。
 そして最終盤。
 誰もが持ち駒の桂打ちを予想したところで、さくらは金を打った。

「うわあ」

と観戦室で声が漏れた。
 その手を見た鏑木は、一瞬何が起きたのかわからず、盤を二度見した。
 全く予想していなかった。
 画面では何度も盤に顔を近づけて、さかんに髪をぐしゃぐしゃとかき乱す、鏑木の姿があった。
 さくらはどこを見ているのかわからないような視線を浮かせ、全身が小刻みに震えていた。
 それは詰みだったのだ。

「いやこれ……」

 観戦室の渡利が言った。

「後から棋譜を見たら、なるほどそこに金を打つ手もあるねと気づけるかもしれないけど。実戦で、その場でこの手を思いつくなんてことは、基本的にはできないです。桂を持ち駒に残すなんて発想はあり得ない。まずできない。しかも秒読みで。これは紛れもなく天才の一手」

 六戦目が始まった。
 まだ鏑木の三勝一敗。
 しかし鏑木は、なぜか崖っぷちに追いやられた気分だった。
 ここで負けたら一気に持っていかれるかもしれない。
 さくらは今日はオレンジの着物を着て、朝顔を一輪耳にさし、いつものように着飾っていた。
 盤上ではさくらシステムが展開された。
 またシステム?
 システムは解剖したと言ったろう……。
 序盤からさくらの一手損。
 それは限りなく遠い一手損。
 鏑木は慎重だった。
 差は広げなくてもいい。
 慎重な差し回しで、一手優位のまま終盤まで持っていけばいいのだ。
 いや半手で十分。
 焦らないほうがいい。

 さくらは昨日と打って変わって、平然とまんじゅうを食べていた。
 まんじゅう食べてむせていた。
 今度は、むせの咳も鏑木の耳には入ってこなかった。

 中盤が終わりかけるころ、鏑木は違和を感じた。
 何かがおかしいと思った。
 間違った手は打っていない。
 ほぼ最善を選べているはず。
 だがしかし、少し俯瞰して盤を眺めると、やや形勢が序盤ほどの差ではなくなっていた。
 鏑木の額に汗がにじんだ。
 そして手を進めるほどに、その感覚は確信に変わった。
 さくらは徐々に鏑木の背に近づいていた。
 既視感があった。
 同じ感覚を前にも体験している。
 そう。
 小学生名人で初めて対局したあの日。
 あれと同じ感覚。

 終盤に入ると、二人は完全な五分となった。
 秒読みに入ると同時に、さくらが詰めろに入った。
 鏑木の背中を切りにかかった。

「詰めろの手がなくなったら鈴木君の負け」

 観戦室で渡利九段が言った。

 鏑木は必死で受けた。
 一分が無限にも一瞬にも感じた。
 意識せずに脳内に駒が動き回り、ぎりぎりで間違えずに受けていった。
 鏑木はじっと盤面を見ていた。
 瞬きもせずに見ていた。
 さくらも盤面を見ていた。
 二人して将棋の井戸の中に潜っていた。
 互いの視線は合わずとも、同じ井戸に潜り二人は見つめあっていた。

「147手を持ちまして、鏑木王将の勝ちでございます」

 記録係の声が響いた。
 鏑木翔太の王将防衛だった。


「いや、まあ、一戦一戦本当にぎりぎりだったので……。まだあまり実感というのは……。いえ、防衛できたことは、まあ……」

 記者の質問に答えながら、鏑木は上の空だった。
 頭がぼんやりして、うまく考えがまとまらなかった。
 どうにも気持ちが浮かなかった。
 社会人になって久しい。
 カメラに向かって笑うことくらいのビジネスはしてきたつもりだが、今回はそれをする余裕がない。
 感情が顔にそのまま出てしまう。
 浮かない。
 勝ったのに浮かない。
 訳が分からない局面になり、訳が分からないがなんとか勝った。
 その体には、二人で潜った、将棋の井戸の感触がまだ残っていた。

 そして数メートル向こうでは、号泣に号泣を重ねる鈴木さくら。
 泣き声で記者の声も聞き取れやしない。
 優勝して浮かない俺と、負けてシャレにならない号泣をするさくら。
 何もかも、あの時と同じじゃないか。 


 対局を終えて、祝勝会もお開きになったが、鏑木は帰宅する気にならなかった。
 だから意味もなく将棋会館に向かった。
 暗がりの中で、将棋会館の一室に明かりが灯っていた。
 廊下からそっと部屋をのぞくと、そこには鈴木さくらが盤面に向かって座っていた。
 後ろ姿しか見えない。
 あんなに小さかったっけ?
 髪の毛が背中までばらけて伸びている。
 うつむき加減で何かをぶつぶつつぶやいている。
 鏑木は耳を澄ましてみる。

「4七歩成 4一飛 3一歩 4八馬 2七銀……
同馬 同と 同玉 5五角……」

 鏑木は、さくらへの自分の気持ちをすでに自覚していた。
 しかし眼前にいる棋士の背には、そんな誰かの感情も吸い寄せ呑み込む、巨大な虚無が張り付いていた。
 それは勝負の虚無。
 盤面の大宇宙に独り漂う孤絶。

 鏑木は将棋会館を後にした。
 帰って棋譜をさらわなければならない。
 強くなろうと決意した。
 研鑽し強くなり、同じ虚無を背に受けて、同じ井戸に潜って、同じ宇宙を漂って……。
 愛の言葉など、俺たちにはいらない。
 見つめあう必要なんてない。
 棋士として、盤面に対峙する。
 決して彼女を一人にはしない。

                     
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