文字数 835文字

 太陽が沈んだ。暗闇に、夜光虫だけが波のふちで輝いている。
 海はたくさんの生物を生み出し、多くの人間を殺す。美しいが、時たまその自然の驚異に我々は脅かされる。また、海の中には多数の御霊がいて、傲慢な私たちをときに叱り、ときにその美しい波音で励ます。
 蒼く光るプランクトンは、自然の生み出した漁火。御霊たちの鎮魂の灯火。この蒼い光のような清い魂に私もなれたらよいのに。
 夜光虫というものを知ったのは、中学生の頃に出会ったあるバンドの曲からだった。
 私は海のない場所に住んでいる。生まれてから一度も離れたことのない場所。私の人生のベストプレイスだと思っているのだが、時折その場所に『ないもの』を見たくなる。
 海は好きだ。広大で、地球が水の惑星と言われる所以にも納得できる。夏の海水浴場。あれは好かない。混みすぎている。男たちの女を見定める目。女たちの下心が見える笑顔。人間の欲望がとぐろのように渦巻いている。関東の海は汚い。波に乗って漂流するビニール。浜辺に打ち上げられたペットボトル。海水にも濁りが目立つ。それもまた、人間の欲深さが水面に映されているのだろう。
 海に行くならせめて夏以外の季節の夜。もちろん汚い海を泳ぐつもりはない。
 思い立ったのは晩春のある日。新宿発の小田急線。各駅停車の最終電車で、私はひとり片瀬江ノ島まで向かう。お目当ては海。この時間だと地元のヤンキーでもいそうだけれど、とおどおどしながらも、あるものを見に行く。
 駅に到着後、ICカードをタッチして改札を出ると、まだ少し遠くにある海を見やる。
イヤホンからはあのバンドの曲が流れている。私は吸い寄せられるように、海へと向かう。御霊の魔力が私を導く。
 蒼、煌々と光る、蒼。なんときれいな光なのだろう。汚れた海に灯された美しき魂の輝き。さざ波の音を聞きながら、私は命と戯れる。その光は、波のまにまに揺らぎ、私たち人間を誑かす。
 暗闇に、夜光虫だけが波のふちで輝いている。今夜もまた、人を惑わせながら――。
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