第4話

文字数 3,093文字

「痛っ」
 混乱する頭でふり返ると、同級生の早池峰樂が、がっちりと咲夜の肩をつかんでいた。
「早池峰くん!? なんで?」
「危機一髪だな」
 樂は片手でひょいと咲夜の腰を抱え上げ、そのまま宙に浮いた。
「きゃあ!」
「咲夜!」
 柊羽は取り戻そうと手を伸ばしたが、ぎりぎりで届かなかった。
「柊羽!」
 咲夜は暴れて、樂の体を叩いたり蹴ったりしたが、何の効果もなさそうだ。
「離してよ!」
「いいからおとなしくしてろ」
 それから一気に10メートル以上の高さに上がり、咲夜は恐怖で震えた。
「やだ、怖い」
 思わず樂にしがみつく。
「待て!」
「我らが巫女を返せ!」
 下から白装束の集団が叫んだ。柊羽だけが無言で、空中に浮かぶ2人をじっと見上げている。
「おまえらの巫女にするなど、とんでもない。これは俺の嫁だ!」
 笑いを含んだ声で、樂が言い放った。
「嫁? 嫁って何!?」
 咲夜は自分をかついでいる男の顔をまじまじと見上げた。
 早池峰樂とは、席が隣同士というだけで、クラスメイト以上の関係ではまったくない。それが嫁呼ばわりとはどういうことなのか。
「なんでこんなことするの? っていうか、なんで重力無視してんの!?」
「説明なら後でしてやるから、少し黙ってろ」
 樂は、咲夜の目をじっと見て言った。
 目の奥に赤い光が宿っている……それを見たとたん、咲夜の体に電流が走り、痺れたように動けなくなった。ドキドキと鼓動は速まり、自分の気持ちとは無関係にわき上がってくるときめきに戸惑った。
――何これ?
 早池峰樂なんて、まったく意識したことはない。
 樂は転入してきた時から、一部の女子からカッコイイと騒がれていた。咲夜からしたら好みでも何でもなく、こんな居眠りばかりしている男子のどこが良いのかと横目で見ていた。
 長身で、ほどよく筋肉質なのが良いらしい。クラスの女子が言っていたことを思い出す。 しがみついた上腕部や、密着した胸の筋肉の盛り上がりを感じ、咲夜はカーッと顔が赤くなるのを感じた。
――なんで今ソレ思い出すかな。
 樂に見られないよう顔をそむける。

「咲夜、その男は人間じゃない」

 ふいに耳元で柊羽の声がした。
 驚いて見まわしたが、彼ははるか下にいる。
「人間に擬態した鬼だ。ただし、危害は加えないはずだから心配しないで」
 ささやくような声だけが、また近くで聞こえた。樂には聞こえていない様子だ。
「大切な咲夜、いずれ必ず助ける。あなたが拒めば、鬼は何も出来ない。絶対に唇だけは奪われないで」
 ぐんぐん遠ざかり、視界から柊羽が消えるとともに、その声は聞こえなくなった。
 どうやっているのかわからないが、樂は自由に空を飛んでいる。
――鬼って、あの昔話とかに出て来るような鬼?
  咲夜は心ならずもしがみついている彼の体をまじまじと見た。どこもおかしなところはなく、やや大柄なだけのふつうの人間に見える。
「あの屋上に上がる。しっかりつかまってろ」
「ええっ」
 樂の指し示す方に目を向けると、隅田川沿いのタワーマンション群の中でもひときわ高い建物が見えた。
「嘘でしょ……」
 急激に上昇していく樂は涼しい顔をしているが、咲夜はものすごい高さに恐怖を覚えてぎゅっと目を閉じて耐えた。
「降ろすぞ」
 言われて恐る恐る目を開くと、緑色にペイントされたコンクリートの上に両足がついていた。
 まわりを見回すと、他のビルやスカイツリーとの対比で、とんでもない高さのところにいることがわかった。ヘリポートだということを示すHの字が黄色いペンキで大きく書いてあり、縁にはフェンスも何もない。ガクガクとひざが震え、うまく立てなかった。
「大丈夫か?」
 樂は支えるついでのように、咲夜の頭をやさしく撫でながら抱きしめた。
「びっくりしたよな」
「は、放して……」
 咲夜は両手を突っ張って、樂の身体を離そうとした。
「やだね」
 樂が腕に力をこめたので、咲夜は彼の胸に鼻先をぶつけそうになった。
「放してってば!」
「元気ありそうだな、咲夜」
 笑いながら樂は力をゆるめ、呼び捨てで名を呼んだ。咲夜は眉間にしわを寄せ、彼の腕の中から逃れて距離を取る。
「まだ何も聞いてないのか?」
「何のことかわからない」
「鳴石村のことも?」
 そういえば、さっきの集団も「鳴石村」と言っていたような気がする。だが、そんな村は行ったことも聞いたこともない。咲夜が首をふると、樂はため息をついた。
「おまえの親父、本当に何も教えないで育てたんだな」
「うちのお父さんのこと、知ってるの?」
 驚いて目を見張った咲夜に、樂は真面目な顔でうなずいた。
「さっきのは、鳴石村の……なんていうか、カルト教団みたいな神社のやつらだ」
 あの独特な白い衣装を思い出し、咲夜はなるほどと思った。柊羽がつけていた赤い数珠の首飾りも、いかにも宗教的な意味がありそうなものだった。
「そこの神官は村の指導者的存在で、神室一族の中から選ばれる。神室柊羽は現在の神官だ。そして、おまえの父もかつて神官に選ばれたことがある」
「そんな話、聞いてない……」
 男手ひとつで咲夜を育ててくれた父のどこにも、カルト宗教めいたものを感じたことはない。クリスマスもふつうに祝ってきたし、正月には浅草寺に初詣して破魔矢を買ったりおみくじを引いたり、よその家庭と変わりなく過ごしてきた。
 柊羽だって、ふつうに保健の先生として赴任してきて、おかしな言動など一切なかった。
「神官は、生涯ずっと神社に仕える決まりがある。神室(かむろ)央嘉(おうか)は、その禁を破って女と逃げた。それがお前の母親だ」
 樂はさらっと咲夜の父の名をフルネームで言った。
「早池峰くん、どうしてそんなこと知ってるの?」
 咲夜の頭に、その朝聞いた父の言葉が浮かんだ――大切な話。会わせたい人。守ってくれるはずの人。
「もしかして、今日……うちに来る予定だった?」
 天空の屋上は風の音だけが耳につく。都会の喧騒もこの高みまでは届いて来ない。
 黙りこんだ樂の大きな目が、咲夜をとらえる。
 急に距離を詰められ、本能的に逃げようとしたが、すぐ捕まってしまった。背後から抱きしめられた恰好になり、首筋に樂の息がかかる。
「やめて!」
 叫んだ瞬間、赤茶色の髪がスルスルと咲夜を包みこむように伸びてきた。咲夜を抱く手がみるみるうちに大きく節くれだったものに変わり、指から爪が長く伸びて、鋭くとがった尖端が刃物のように光る。
 咲夜は驚きのあまり声も出せないでいたが、首の後ろに熱いものを押しつけられて悲鳴を上げた。
「きゃあっ」
 それが樂の唇だと知り、じたばた暴れて逃れようとしたが、10秒ほどそこに吸いつかれてしまった。
「おまえは俺の嫁になることが決まっている」
 樂は咲夜の耳にささやきかけた。
「央嘉との契約だ。だから、印をつけさせてもらった」
「契約……?」
「そう。おまえを鳴石村の手の者から守ってやる。柊羽には渡さない。神室の巫女になどさせるものか」
 樂は咲夜の身体をくるりと回して、自分の方にふり向かせた。
 地面まで長く伸びた赤髪、両側のこめかみから生えた大きな2本の角、長く鋭い爪、口のわきからはみ出している牙……腕や首がたくましい筋肉でふくらみ、体全体がやけに大きい。
 そこにいたのは、人間ではなかった。
「これがおまえの夫の姿だ。覚えておけ」
 大きく裂けた口で笑う「鬼」を目にして、ついに咲夜は気絶してしまった。
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