第3話

文字数 4,329文字

 翌朝、咲夜は夢にうなされて早くに目が覚めた。
 どんな内容だったか憶えていないが、びっしょりと寝汗をかいていた。
 時計を見ると午前6時前で、窓の外から鳥の声が聞こえてくる。起きるには少し早いと思ったが、肌にはりついたパジャマが気持ち悪い。
 咲夜はシャワーを浴びようと布団から出た。
 父と2人で住んでいる家は古い2階建てで、1階はガレージと玄関しかなくて、居住空間は2階になっている。3DKのこじんまりした造りだ。自分の部屋から廊下に出ると、父を起こさないようそっと風呂場に向かう。
 咲夜はものごころつく頃から、東京の下町にあるこの家で父と暮らしてきた。母のことはよく知らなくて、顔も声もまったく記憶にない。写真でも見たことがなく、父が言うには「事情があって遠くにいる」とのことだが、最初から憶えてないのだから、特に寂しいとも思っていない。
 柊羽が訪ねて来るまで、父の実家とのつきあいはなく、祖父母が生きていることも、父に弟がいることも知らなかった。
 父の出身は、東北地方の山深いところにある村で、柊羽もそこで生まれ育ったのだという。咲夜の母もそこにいると柊羽は言った。そして、父と同じように「事情があって村を離れられない」と。
 どんな「事情」か、それは2人とも教えてくれない。
 父は柊羽が訪ねて来てからでさえ、身内の話をしようとせず、甥である彼をどう扱っていいか戸惑っているようなのに、咲夜には一切そういうことを言わなかった。
 男手ひとつで育ててくれた父は、どちらかというと寡黙で、物腰はやわらかく穏やかだが、一度決めたことは曲げないような頑固なところがある。だから母のことも、父が言わないのなら尋ねたって答えてくれないだろうと思っていた。
 柊羽もそういう面では父に似たところがあり、咲夜には言わないと決めていることが少なからずあるような気がする。
「それはたぶん、あたしがまだ子供だから」
 ぬるめのお湯でシャワーを浴びながら、咲夜は鏡にうつる自分の体を眺めた。
 身長は156センチと高くはないが、手足が長くてバランスの良い体型だと思う。細い首と小さめの頭は自分でも気に入っている部分だ。子供の頃にはなかったウエストのくびれも最近くっきりしてきて、あとは胸がもう少し大きくなればと願っている。
「18歳になったんだから、少しは大人として扱ってもらえるかな?」
 咲夜は柊羽を思い浮かべてつぶやく。先生と生徒という立場のせいか、彼は咲夜に手は出さないと決めているようだ。せいぜい抱きしめたり手を握るだけで、それすらめったにしてくれない。

「咲夜のことが好きになってしまいました」
 3か月前、たまたま保健室で2人きりになった時、柊羽はほんのり頬を赤らめてそう言った。
「あたしも好きです」
 ドキドキしながら伝えた時の、柊羽のうれしそうな表情が忘れられない。
「相思相愛だね」
 優しい目を向けられ、咲夜は思わずぼーっと見惚れて、うなずくのも忘れるほどだった。

 それまでの彼女は、まわりからファザコン呼ばわりされるほど父の話ばかりしていて、恋愛の意味で誰かを好きになった経験がなかった。
 友達が好きな男の子の話をしたり、面白いよと勧められた少女マンガを読んだりすると、こういう感情を理解できない自分は少しおかしいのかなと、ひそかに不安だった。かといって、好きでもないのに焦って彼氏を作る気にはなれず、つきあって欲しいと言われても断って逃げてばかりいた。
 柊羽に出会って初めて知った恋の甘さや苦さを、咲夜はとても愛しく感じている。
 ただ、どうしてかわからないが、彼と恋愛関係にあることを父には知られたくなかった。
 出会いからの短さや従兄妹同士であること、先生と生徒であることなど、言いづらい理由はいくらでもあるが、そういうことではなく、父に知られたら何か良くないことが起こりそうな……そんな怖さを感じる。

「ずいぶん早起きだな、咲夜」
 濡れた髪をふきながら台所に行くと、父がコーヒーを淹れていた。
「おはよう、お父さん。寝汗かいたから気持ち悪くて起きちゃった」
 咲夜は冷蔵庫から麦茶を出してコップに注ぐ。今日は友達と集まるという嘘をついて柊羽とデートする予定なので、何となく父の顔を見づらかった。
「誕生日おめでとう」
 父は穏やかな声で言った。
「ありがとう」
 笑顔を作ってふり向くと、コーヒーカップを手にした父は、真剣な表情で咲夜をじっと見ていた。
「とうとう18歳になってしまったか……」
「え?」
 言葉の意味がわからず、咲夜は首をかしげた。18歳にならなければ良かった、とでもいうようなニュアンスを感じる。
「大切な話があるから、今日はなるべく早く帰って来なさい」
 父は静かに言った。
「話って、今じゃだめなの?」
「長くなるから。それに、今から友達がお祝いしてくれるんだろう?」
「……うん」
 あまり良い話ではないのかもしれない、と咲夜は思った。
「じゃあ、帰ったら聞くね」
「会わせたい人がいるから呼んでおくよ」
「私に?」
 咲夜の頭に「再婚」という単語が浮かんで、すぐ消えた。この父に限って、そんなはずはない。今まで女性の影を感じたことは一度もなく、母とも別れたわけではないような気がする。
「ああ、おまえを守ってくれるはずの人だ」
「守るって……」
 さっきから、父の言うことの意味がよくわからない。
「髪、乾かさないと風邪ひくぞ」
 父は目を伏せ、コーヒーカップを口に運んだ。もう、いつもの父の顔になっている。どういうことか質問したとしても、答えてくれそうにない空気である。
「うん、部屋行くね」
 咲夜は麦茶の入ったコップを持って廊下に出た。


 午前9時まであと5分。
 父は土曜も仕事で、もうだいぶ前に家を出て行った。ガレージに車はあるが、都心の会社までは電車の方が早いらしくめったに乗って行かない。
 咲夜は玄関の外で柊羽の迎えを待つことにして、1階へ向かった。
 5分袖の白いカットソーはラッフルスリーブで女の子らしく、濃紺のスキニーパンツを合わせて大人っぽく決めてみた。何度も失敗しながら塗ったネイルも最終的にはきれいに仕上がった。メイクは濃すぎないように注意して、髪は夜会巻き風にふんわりアップに……咲夜としては気合いを入れておしゃれしたつもりだ。
 高3ともなれば化粧ぐらいはふつうかもしれないが、咲夜は基本的にすっぴんで、柊羽に出会うまでは色つきリップぐらいしか持っていなかった。だから今もメイクには自信がない。
「変じゃないよね?」
 コンパクトミラーで、唇と目と眉を確認してから、咲夜はドアに手をかけた。
 門はないので、玄関を出て3歩も進めばもう道路だ。そう広くない道の両側は、似たような古い家ばかりで、みんな古くからの住民である。小さい頃から慣れ親しんだご近所には、父子家庭の神室家におかずや果物などを差し入れてくれるやさしい人も多い。
 玄関のすぐ横に植えてあるクチナシが、今日もたくさんの花を咲かせ、甘い芳香をただよわせていた。
「カバンに忍ばせておこうかな」
 咲夜が花びらに手を伸ばした時、背後に人の気配を感じた。
「……?」
 1人2人ではなく、沢山いるような気配。
 それが急に現れた。
 咲夜はぞくりと恐怖を覚えたが、思い切ってふり返ってみた。

「お迎えに上がりました」

 くぐもった声が告げる。
 その声の主は、上から下まで白い忍者のような装束で、顔の部分も薄い白布で覆っていた。
「誰!?」
 まったく同じ服装の人物がざっと20人ほど、咲夜に向かっていっせいに頭を下げ、素早く取り囲んだ。
「咲夜様、我らとともに村へお戻り下さい」
「は? 村?」
 意味がわからない。
 危険を感じた咲夜は、ひとまず家の中に戻ろうと身をひるがえしたが、そこにいた誰かにぶつかってしまった。
「咲夜、ごめんね」
 いつの間に現れたのか、玄関のすぐ前に柊羽が立っていた。
「その恰好……」
 咲夜は息を飲む。言葉が続かなかった。
 白一色の狩衣(かりぎぬ)に身を包み、長い黒髪を風になびかせているその人は、愁いの表情で目を伏せている。赤い玉の大きな数珠のような首飾りをかけ、神々しささえ感じさせる(たたず)まいの恋人を前に、咲夜は何を言えばいいかわからず黙って見つめるばかりだった。
「柊羽様、お早く」
 咲夜の背後から、さっきの声の主が急かすように言った。
「控えよ」
 凛とした声が柊羽の口から飛び出す。
 ザッと音がしたので後ろを見ると、白装束の者達は片膝を立ててしゃがみ、布で隠した顔を下に向けていた。不気味な光景に、咲夜はゾッとした。
「私とともに生きてもらえないだろうか」
 柊羽がそっと咲夜の肩に手を置いた。やさしく穏やかな物言いだが、いつもの柊羽とは明らかに違う。
「どういうことなの?」
「村に戻らねばならなくなりました。もうここに留まることは出来ません。だから、一緒に来て欲しいのです」
 わかるようで、わからない。いや、まるで意味がわからない。
 咲夜は彼を見上げて問いかけた。
「あなたは何者なの?」
 かすかに潤んだ目が揺れている。その奥に、咲夜の好きなやさしい柊羽が潜んでいる気がして、じっとのぞき込んだ。
鳴石(なきいし)村にある神室神社の神官です。そして、あなたとは運命で結ばれている……」
 柊羽は両手で咲夜の手を取り、きゅっと軽く握った。
「咲夜を愛しています。心から。生涯ずっと大切に守ります。だから、お願いだから私に従って下さい」
 祈るような、真摯(しんし)な態度だった。理由も意味もわからないが、切羽詰まったものを感じる。
 咲夜は父のことを思い、学校や進路や将来のことを思った。
「今すぐじゃないといけない?」
 おそらくそうなのだろうと思いながら尋ねると、柊羽は悲しそうな目をしてうなずいた。
「わかった。一緒に行く」
 咲夜の答えを聞いて、張り詰めていたような柊羽の雰囲気が変わった。硬い表情がゆるみ、いつものやさしい微笑みが浮かべられる。
「ありがとう、咲夜」
 ふいに握った手を強く引かれ、柊羽の胸に倒れこむと、強く抱きしめられた。
「あたしも柊羽と離れたくないから」
 白い衣をまとった愛しい人にしがみつく。
「愛しています」
 柊羽の顔がどんどん近くなって来る。咲夜は目を閉じ、初めてのキスを待った。
「おいコラ、ちょっと待て!」
 いきなり怒鳴り声が耳に刺さり、咲夜は乱暴に後ろに引っ張られた。
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