第2話

文字数 3,458文字

 午前7時50分。
 神室(かむろ)咲夜(さくや)は人目を忍んで保健室へ向かう。
 手にはクチナシの枝。白い花が強い香りを放っている。
 廊下の窓はまだどこも閉じられていて、それでもどこかから運動部の朝練のかけ声が聞こえる。
 咲夜はあたりを見回し、誰の姿もないことを確認してから保健室の引戸に手をかけた。静かに開けて、そっと中をのぞく。薬品棚の前にすらりと立つ人の姿に、顔がほころんだ。
「おはようございます」
 後ろ手に戸を閉め、咲夜はその人に駆け寄った。
「おはよう」
 神室(かむろ)柊羽(しゅう)はふわりと微笑んで彼女を見た。
「ちょっと待ってて」
 そう言うと、棚の薬品を確認しながら手にした書類に何か書き込んでいく。しなやかに動く白い指に、咲夜は見惚れる。
 やがて作業を終えた彼は、フレームの細いスクエア型の眼鏡をはずし、白衣の胸ポケットに無造作にしまった。
「お待たせ」
 咲夜はゆっくり自分の方を向いた柊羽に、クチナシの枝を差し出す。
「今朝、咲いたの」
「そう。いい匂いだね」
 切れ長の柊羽の目が細められ、さっき見惚れていた白い指が花に触れる。咲夜はさりげなく枝を持つ手の人差し指を伸ばした。指先が彼の指をかすめる。
「こら」
 柊羽は口もとに笑みを浮かべると、咲夜の指ごと枝を握りしめた。

 養護教諭の神室柊羽は、咲夜の従兄にあたる。
 彼女が高校3年生になった今年の春、柊羽は新任でこの学校にやって来た。従兄だと知ったのは、その少し前だ。柊羽は父のところへ挨拶にやって来て、それまで一度も親戚に会ったことのなかった咲夜は、初めての従兄の出現にドキドキした。
 そのドキドキが、本当は別の意味だと悟るまで、そう時間はかからなかった。
 学校で柊羽の姿を見るたび目が離せなくて、女子生徒たちに囲まれているのを見ると、わけもなくイライラしてしまう。用もないのに保健室に通い、頭が痛いと嘘をついて柊羽の手が額に触れることを期待した。
 好きになったと気がついた時には、もう引き返せないほど、どうしようもなく心惹(こころひ)かれていた。

「もうすぐ誕生日だね」
 咲夜の手を解放した柊羽は、クチナシの枝を一輪ざしに活けながら穏やかな口調で言った。
「どこか行きたいところがあれば連れて行くよ」
「え、本当に?」
「うん。考えておいて」
 向き直った柊羽の目は愛しげで、言葉もとろけるように甘い響きだ。
「大切な咲夜が18歳になる日だから、特別な1日にしてあげたい」
 両手を差し伸べられ、咲夜は吸い寄せられるようにその真ん中に飛びこんだ。白衣をまとった優しい腕に抱きしめられ、初めて感じる彼の温もりに幸福感がこみ上げる。
「大好き、柊羽」
「私も好きですよ」
「なんでいつもそこだけ敬語なの?」
 咲夜は笑って、柊羽の背中に手をまわした。
「咲夜は大切な人だから」
 押し当てた耳に柊羽の言葉が響く。胸から直接聞こえたそれは、嘘偽りのない本心のような気がして、咲夜はうれしかった。


「先生と咲夜、兄妹みたいだよね」
 同じクラスの子に言われた時、咲夜は複雑な気持ちでこめかみをピクリとさせた。
「なんでそう思うの?」
「だって、顔立ちとかそっくりだし。従兄妹っていったって、普通そんなに似てないよ」
 強く反論したくてもできなかった。保健室の先生、しかも従兄との恋愛なんて、絶対に知られるわけにはいかない。
 それに、柊羽は女子生徒に絶大な人気がある。
 彼が新任の先生として始業式で紹介された時、生徒の間にはどよめきが走った。なにしろ、すらりと細身でスタイルの良い体に、おそろしく美しく整った顔がついているのだ。
 咲夜はべつに柊羽が美形だから好きになったわけではないが、男でも女でも彼を一目見たら視線をはずすのは難しいだろうなと思う。
 従兄妹同士と知られていてさえ、ちょっと話しただけで、やっかみの視線にさらされる。だから、もしつきあっていることがバレたら、咲夜に生きて帰れる自信はなかった。
「あたし、先生ほど美人じゃないと思うんだけど」
 咲夜はひかえめに言ってみる。
「いやいや、なに言ってるわけ? 自分がどんだけ美形かわかってる?」
「たいしたことないよ」
謙遜(けんそん)も、度が過ぎると嫌味だよ?」
「……はい」
「素直でよろしい」
 咲夜の顔立ちは、まわりと比べてたしかにちょっとは整っているが、柊羽のように人目を惹く輝きのようなものはない。クラスでも、地味で目立たないポジションだ。
「そういえば咲夜、金曜どうするか決めた?」
「金曜って、なんだっけ?」
「カラオケ合コンするって言ったじゃん。今度こそ参加してくれるよね? 咲夜のこといいなって言ってる子いて、連れて来てって頼まれてるんだからね」
 知らない男子とカラオケなんて、まったく気が進まない。咲夜はどうやって断ろうか悩み、あいまいに笑って返事を引き延ばす。
「神室ちゃん」
 ふいに、隣の席から声がかかり、咲夜はふり向いた。
「さっきの物理のノート見せて」
早池峰(はやちね)くん……また寝てたの?」
 思わずあきれた声が口から出てしまう。
 隣の席の早池峰樂(はやちねらく)は、なぜか居眠りばかりしている。起きて授業を受けているより、寝ている時間の方が多いのではないか。
「途中までは起きてたんだけど」
 彼は1行だけ書かれたノートを咲夜に見せて、明らかな愛想笑いを浮かべた。
「しょうがないな」
 咲夜は渋い顔をしながらも、机から物理のノートを取り出して渡す。
「さんきゅー」
 眠そうな目で言われても、まったく感謝しているように見えない。
 彼は3年生の春に編入してきたので、まだ4か月しかこの学校にいないくせに、妙に堂々としていて態度が大きい。わずかな期間でクラスの男子のまとめ役みたいになっている。
 地毛だという赤茶けた髪と、ぎょろりと大きなツリ目が特徴的で、体も大きいせいか周囲を威圧するような雰囲気があった。
「咲夜、今度から有料にしなよ」
 茶々を入れて笑う友だちは、合コンの話をうまく忘れてくれたらしく、咲夜はほっとして、少しだけ早池峰樂に感謝した。



 金曜日。
 6時限目が終わると、咲夜は合コンに誘われる前に、脱兎のごとく教室を逃げ出した。
「咲夜!」
 後ろから友だちの声が追いかけて来たので、咲夜はふり返って大きく手をふった。
「用事あるから今日ムリ! ごめんねー」
 そう言い残すと返事も待たず走り出す。
「もう! また逃げられた!」
 怒らせてしまったかもしれないが、合コンにはどうしても行きたくないのだから仕方ない。
 咲夜はそのまま1階まで階段を駆け下りた。
「逃げ足早いな」
 ローファーに足を入れていると、下駄箱の陰からぬっと早池峰樂が顔を出した。
「わっ、びっくりした」
 咲夜はどうしてと不思議に思った。
 教室を出る前、隣の席で居眠りしているのを見た気がする。それが、最短距離をダッシュで来た自分より早く昇降口にいるなんてありえない。
「神室ちゃん、明日18歳になるだろ?」
 樂は長身をかがめ、咲夜の顔をのぞきこんだ。
「え?」
 誕生日を教えた覚えなどない。
 咲夜は後ずさりして距離を取ろうとしたが、樂はその分ずずっと足先を進めて近寄って来る。
「なんなの?」
 きつい顔でにらむと、樂の大きな目の中で、かすかに赤い光が明滅するのを見た。
 背筋にぞくりと戦慄が走り、咲夜の心臓がバクバクいいはじめた。全身が震えるような……この感覚はなんだろうと不気味に感じたその時だった。
「咲夜」
 耳になじんだ優しい声が、背後から名前を呼んだ。
「柊羽!」
 我に返った咲夜の目の前に、樂はもういなかった。
「なんで……?」
 幻でも見たのだろうか。
 咲夜は下駄箱をまわりこんで見たが、そこにも樂の姿はない。
「どうしたの?」
 白衣を着た柊羽が、けげんそうに咲夜を見る。
「今ここにクラスの子がいたはずなのに……柊羽は見なかった?」
「いや、咲夜しかいなかったから声かけたんだけど」
 柊羽は声をひそめた。ざわざわと階段を下って来る生徒たちの気配がする。
「明日、楽しみにしてて。それだけ言いたかったんだ」
「ありがとう」
 咲夜はうれしさを隠しきれず、にっこり笑って彼を見つめた。
「9時に迎えに行くよ」
 柊羽はそう言い残して校内に戻って行った。
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