第4話 殺意

文字数 3,722文字

 療養の手続きは操が自分でしてきた。費用もバイトで貯めた金があった。そんなにあるのか? 
「父が大学行くために貯めててくれたお金があったの」
 辰雄が貸した金も全部返した。返してほしくなかった。返されたら会う理由もなくなる。操は三沢を好きなのだ。辰雄にまとわりつかれたくなかったのだろう。金は三沢が出したのだろう。金だけ出したのだ。1度も見舞いに来なかった。父親は酒に逃げ、嘆くばかりで役には立たなかった。操は当てにはしていなかった。父親の顔も見なかった。
「療養中に死んでくれればいい」
口に出した。よほど辛く悔しかったのだろう。

 操の療養中、辰雄は父親の賢治の面倒をみに通った。鍵を開けた賢治は案の定酔っていた。突然現れた娘の男友達は強引だった。部屋を片付け掃除した。畳にはタバコの焼け焦げがいくつもあった。
 就寝中、火を出されたら隣の部屋の操は……おちおち眠ることもできなかったろう。
 洗濯をした。賢治が着ている服を脱がせ着替えさせた。
「娘のこと、考えろよ。見舞いにも行かないで」
父親は泣く。
「どうなるのかわかってるのか? 酒だけ飲んで死にたいのか?」
酔った賢治は饒舌だ。辰雄の話を聞かない。
「だけどね、辰雄くん。オレだって辛いんだ」
なんでも、だけどね……だ。うんざりだ。強く言うと、
「やめるよ。もう、飲まないよ。オレだって意思は硬いんだ。やめようと思えばいつだってやめられる」
辰雄は酔っ払いの言葉を信じた。しかしすぐに裏切られた。
 人恋しいのか、酔った賢治は辰雄を待つようになった。鍵は開けてある。
「来たか、辰雄くん。入れ、入れ」
 締め切った部屋はひどい匂いだ。窓を開ける。古くなったものを食べ、腹をくだしていた。ひどい臭気だ。操はこんな父親の世話をしていたのか?
 辰雄は酒を流しに捨てた。探して手当たり次第捨てた。ゴミ箱にはウジがわいていた。羽化して飛んでいるのもいた。冷蔵庫もひどい臭気だった。辰雄はすべて捨てた。風呂場には便で汚れた下着が洗面器に何枚も入っていた。小蝿がたかっていた。地獄絵だ。絵なら臭いはないが。タオルで鼻と口を覆った。すべて捨てた。辰雄はこういうことは手際がいい。
 風呂場を掃除しシャワーを浴びさせた。嫌がる賢治を大声で怒鳴り、服を脱がせシャワーを浴びさせた。怒鳴ると賢治は従った。臆病だった。情けない小男だ。しかし辰雄はすぐにかわいそうになり賢治をおだてた。
「背中、流させてくれよ。オヤジさん」
 優しくすれば賢治は泣く。だけどね、と言い訳をする。背中も腕も足も洗ってやった。
「前は自分で洗え」
情けない男はもたもた洗っていた。

 賢治は辰雄を気に入った。掃除した部屋で辰雄は将棋を教わった。酒が抜ければ父親は無口だ。いい父親なのだろうに。
 しかし、翌日にはもう酒を買ってきていた。饒舌だった。怒ると、
「だけどね」
が口癖だ。
「だけどね、辰雄くん、オレだって辛いんだ」
「操はもっと辛い思いをしてるんだ」
 買ってきた惣菜を食べさせた。辰雄は酒しか買ってきていない。冷蔵庫は整理して古くなったものはすべて捨てた。
 辰雄は賢治の話に付き合った。酔っ払いの、とめどもなくみっともない男の話に。酔っ払いは話した。15歳で東京に出てきた。頑張った。
 頑張ったんだ、オレは……
 亡くなった妻のことを話すと泣いた。泣いて話した。妻が不貞をはたらいたことを。操が自分の娘ではないことも。

 あの夜、操は橋の上で死のうとしていた……
 理由がわかった。

 賢治は酔うと話す。妻の事。何度も何度も。男がいた……操は……
「似てるよ。オヤジさんに」
「似てる? どこが?」
「似てるよ、輪郭が。他人が見たらそっくりだ」
そう言うと賢治は喜んだ。
「そうか、似てるか? 操はオレの子だ。操を見舞いに行く、もう飲まない、あいつはオレの子だ」
 確信もなく酒に逃げていたのか? 真実を知るのが怖くて酒を飲んだ……
「見舞いに行くぞ。連れていってくれ。いちごを買っていってやろう。操は好きなんだ。いちごに牛乳と砂糖をかける。たっぷりかける」

 しかし、朝迎えに行くと酔っ払っていた。
「ああ、辰雄くん」
「辰雄君、じゃないだろ」
 ひどい状態だった。こんなことを何度も繰り返したのだな。操はとっくに父親を見限った。見限ったけどどうすることもできない。
 もう、放っておこう。殴る価値もない。放っておけば、酒だけ飲んで死ぬ……死ねばいい。死ねば解放される。操を解放してやれる。

 辰雄はしばらく行かなかった。非難されることではない。自業自得だ。冷蔵庫は空っぽだ。酒だけ飲んで死ねばいい。本望だろう。隣近所も承知だ。死んでくれればほっとするだろう。いつ、火を出されるかわからない。そんな心配がなくなるのだ。

 夏の暑い日が続いた。そのうち異臭に気付いて発見されるだろう。療養中の娘はどうすることもできない。同情されるだろう。解放してやるんだ。
 これは殺人か? わかっていて放っておく。いや、慈善だ。正義だ。あの薄幸の娘を解放してやるのだ。アルコールにむしまばれている情けない父親から。今死ななければ、操は苦しみ続ける。この先ずっと。
 構うものか。疑われてもいい。罪でもいい。あの日、操の涙を見た時に決まっていたことなんだ。
 辰雄は眠れなかった。起き上がり、布団にもぐる。

 操は、予想していた?
 辰雄が行かなければとっくに死んでいただろう。父親のことを誰にも託さず頼まず、望んでいるのだ。父親が死んでくれることを。
 明日。明日、そっと近くまで行って様子を見てこよう。どうか……どうか死んでいますように。どうか、生きていますように……

 夏の暑い日だ。賢治は酒を買いに行き帰り道がわからなくなった。弱った足腰で迷子のように歩き回り、倒れて病院に運ばれた。その日、家を訪ねた辰雄は近所の人に教えられ、病院へ行った。
 父親の親戚は皆、遠い田舎だ。亡くなった妻の親戚とは縁が切れていた。操には知らせられない。辰雄は甥だと嘘をついた。
 ほとんど食事を取らないで、酒ばかり飲んでいた賢治は栄養失調になっていて、しばらく入院になった。辰雄は安心した。これで酒は飲めない。

 父親は3ヶ月近く入院した。酒が抜けると別人のようだ。精神科にもかかり、依存症の治療をした。辰雄が行くと喜ぶ。将棋の本を買っていってやる。まわりには息子だと思われている。親孝行の息子だと。
「もう、飲むんじゃないぞ。息子に心配かけんなよ」
「娘の彼氏だ。いい男だろう。もう酒はやめた。キッパリやめた。辰雄君、操と結婚しろ。
 孫ができたら、兜を買ってやる。ああ、働くぞ。腕はいいんだ。腕はいいんだ」
賢治は嬉しそうだ。詰将棋の本を読んでいる。死なせなくてよかった、と辰雄は思った。

 操に話したが喜ばなかった。皮肉な微笑だった。余計なことをしてくれたわね……と思ったのだろうか?

 そう。父親は退院するとまた飲んだ。金がなくなれば盗んでも飲むのだろう。そうして、刑務所に入れられればいい。

 操は全快し高校に戻った。辰雄に感謝した。害虫駆除がされ、部屋は掃除されていた。操の部屋には新しいカーペットが。操の好きなグリーンだ。窓ガラスもピカピカだ。風呂場のタイルの目地も白くなっていた。台所も片付いていた。この家がこんなにきれいだったことはかつてない。
 冷蔵庫には食料が。いちごと牛乳が。季節はずれのいちごはデパートまで買いに行ってきた。戸棚には缶詰やレトルト食品。菓子。
 父親は泣いた。泣き上戸だ。安っぽい涙だ。

 操は三沢と寄りを戻すことはなかった。諦めたようだ。父親は入退院を繰り返した。肝臓も弱っていた。
 
 操は卒業したが進学も就職もしなかった。当時は高卒でも大企業に就職できた。しかし、病歴のある操は健康診断で落とされるだろう。操はよく通っていた図書館でアルバイトをした。ますます美しくなった操には誘いも多かっただろう。しかし、父親のために操は真っ直ぐ帰った。病気の父親がいると言うと男は敬遠するようだ。それでもダメなときは自分の病歴を話した。

 操が働いたのは父親の治療費のためだ。いや、病院代のためだ。入院させるために働いた。近くの精神病院はすぐに入院させてくれた。操はバイトを掛け持ちした。近くの花屋でも働いた。花屋は寒いのだ。辰雄は操の体を心配した。

 父親は退院しても酒はやめられない。操が仕事に行けば飲む。タバコの火で畳を焦がした。
「帰ったら家が燃えてた、なんて思いながら帰るのよ。燃えてしまえばいい。あんな汚い男」

 どうしようもない酔っ払いはやがてボケた。足も弱り酒を買いに行くこともできなくなった。操は介護のために働く。ヘルパーに来てもらった。1日3回。自分が見ることはしない。憎んでいるのだ。憎まれていると思っているのだ。

 そして、ようやく父親は死んだ。しぶとかったが死んでくれた。遺体は病院から葬儀場の霊安室に移された。家に戻ることはなかった。火葬だけの葬式。小さくなった遺体は1番安い棺に入れられた。操は1度も顔を見なかった。誰にも知らせなかった。火葬の間、微笑していた。幸せそうに。
 骨になって戻った家。操は涙1粒流さなかった。

 
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登場人物紹介

大江 操 薄幸の美少女。『異邦人のように』の『思い出』に登場。

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