第6話 恩人

文字数 3,917文字

 あの人の噂は聞いていた。夫の実家に行くと耳にした。
 あの、大きな邸のひとり息子は結婚を反対されて家を出た。親も、会社も捨てて……

 私は紳士服店で働いていた。 
 見覚えのある女性が入ってきた。若い男性とスーツを買いに。 
 この人は?

 中3の秋、H校近くの甘味屋で会った、あの人の母親だった。息子とお汁粉を食べ、口の周りを拭いてやっていた過保護な母親。
 彼女は従業員に成人式のスーツを買ってやるようだ。私の接客を褒めてくれ、話した。
「息子も働いているのよ。田舎の支店だけどね。辺鄙な所らしいわ」
「○橋支店ですか? 三沢さん? 三沢英輔さん? 売上トップの?」
「あの子、トップなの?」
「辺鄙な支店で、人口の少ない町でトップです。ひとり当たりの単価が高いんです」
 私は社報を見せた。この2年、売り上げを競っていた。同姓同名だが、まさか、と思っていた。
 母親は涙ぐんでいた。

 あの人は田舎から出てきていた娘と結婚した。30歳になっていたが、父親に反対された。三沢家の嫁にはできないと。子供も産まれたのに父親は許さない。母親は会いたくても会いに行けない。

 私は○橋支店に電話をかけた。電話に出たのは確かにあの人だった。低音だがよく通る声。高校の国語の時間に、ミラボー橋を惚れ惚れとした声で暗唱し、フランス語で歌った男だ。
「あなただったのね」
母親が来店したとは言えなかった。あの人は幸せそうだ。君よりいい女に巡り会えた、と冗談を言った。冗談ではあるまい。あの母親を捨てたのだ。家も会社も。
 篠田は元気か? と聞かれ、私も話した。
「子供ができたの。待望の。8月に生まれるの。あなたのお子さんの1学年下ね」
社報に情報が載っていた。男の子だ。
「よかったな。8月か、葉月だな」
「葉月、きれいだわ。女の子が生まれたら、葉月にしようかな。恩人のあなたに名付け親になってもらうわ」
「篠田が怒るよ」
「篠田には全部話した。あなたは恩人……」
「……」
「おかあさん、大事にしなさいよ」

 あの人は恩人だ。私を救い出してくれた。そのあとも、軽蔑したりはしなかった。幸せでいてほしい。できるなら、親に認められてほしい。

 数年後、夫が言った。
「三沢が戻った。奥さんと子どもを連れて。大変らしい。あいつの親父の会社も」
 倒産寸前の父親の会社。半身不随になった父親に、介護疲れで寝込んだあの母親。あの人は放ってはおけなかったのだろう。
「三沢なら持ち直すだろう」

 そう。あの人の会社は持ち直した。そして急成長を遂げた。私はせめてもの恩返しにと、会社の製品を使う。洗剤も化粧品も廉価ではないが香りがいい。


 それから、何年たっただろう? 葉月が小学校1年だった。夜遅く、あの人が訪ねてきた。突然。夫は出張でまだ戻っていなかった。
「しばらくだな」
 酒臭かった。この世で1番嫌いな酔っ払い。10年ぶりか? こんなにだらしないあの人を見たのは初めてだった。私は酔っ払いには拒否反応を示してしまう。
 あの人は、くどくどと話し出した。酒臭い息で、
「妻が出て行った。息子を置いて」
「……よくあることだわ」
「男がいたんだ。信じられない」
よくあることだ。情けない男は酒に溺れる。
「子供のためにしっかりしなきゃ」
「ああ、そうだな」
「私の父は許したわよ。母の不貞を許して、それでも愛した」
あの人はいきなり言い出した。
「篠田と離婚してくれ。俺の気持ちを知ってて、どうして篠田なんかと……」
 葉月が起きてきた。大声に怯えて。
「脅かしてごめんね、お嬢ちゃん」
「はづきよ」
娘が教えた。
「葉月か、いい名前だ。葉月は旧暦では秋なんだ。秋、か。木の葉が落ちる。落ちる……この手も落ちる。ほかをごらん。落下はすべてにあるのだ……」
酔っていてもあの人は詩人だ。
「君にはわからないだろう? 君は頭はいいがバカだ。誰の詩かわかるか? けれども、ただひとり、この落下を……限りなく優しくその両手に支えている者がいる……」
そしてまた、とんでもないことを言い出した。
「葉月ちゃん、きみの名前はおじちゃんが付けたんだ。君はおじちゃんちの子供になるんだ。大きなおうちだよ。広い庭がある。犬も……犬は死にそうなんだ。欲しいなら買ってやる。なんだって買ってやる」
酔ったあの人は葉月の手をつかんだ。
「三沢君、やめて」
「おにいちゃんがいるよ。君よりひとつ上だ」
無理矢理、葉月を連れて行こうとした。
「帰ってよ。三沢君!」
私が強く言うとあの人は怒った。
「売春してたくせに。誰が助けてやったと思ってるんだ? 支えてくれよ。その両手で……」
恩人だと思っていた人が……
「あなたでも言うのね。酔えば言うのね。子どもの前で」
「バイシュンてなに? おじちゃんが助けたの?」
あの人は後悔したようだ。葉月の顔を見た。そして小声で言った。
「青春だよ。青春は()べからず。ママは、モテてモテて困ってたんだ。おじちゃんが助けてやった。パパと結婚させたんだ」
「おじちゃんは恩人なのよ。恩人」
「葉月ちゃん、これは夢なんだよ。夢を見てるんだ」
あの人は子守唄を歌った。ドイツ語で。高校1年の音楽の時間、歌のテストで私が歌った子守唄だ。歌は苦手だ。か細い声で、音も外れた。それでも男子は拍手した。比べてあの人が歌ったCatari Catariは素晴らしかった。先生まで聞き惚れた。私は勉強ができただけ。

 葉月は私の膝で眠った。そのまま抱いていた。娘を抱いていれば乱暴はしないだろう。
「かわいいな。寝顔を見て後悔する。帰ったら、また息子を殴ってしまう。幸子にそっくりな息子を。かわいそうな息子を」
「飲むのやめなさいよ。私の父みたいになるわよ。思い出すのも嫌だけど……子供に愛想尽かされるわ」
「ああ、もう飲まない」
「酔っ払いはそう言うのよ。父は何回も、何万回も言った。仕事も失い、娘の学費さえ払えない。タバコで畳を焦がして、何度言ってもやめてくれない。火を出したこともある。私が消したのよ。それでも、懲りない。殺したいと思ったわ。酔っ払っていびきをかいている父の首を絞めて……何度も思った」
「篠田が力になってたんだな」
「私の療養中、面倒見てくれた。さすがの人のいい夫も、殺意を抱いたって。私のために殺そうと思った。できなかったけどね。
 三沢君、失うわよ。なにもかも。汚れて、お風呂にも入らなくなる。お酒だけ飲んで肝臓壊して、栄養失調になって呆けて死ぬの。死んだら万々歳よ。誰も悲しまない。喜ばれるのよ。せいせいされるの」
「熱弁だな。説得力がある」
「助けてあげたいけど、あなたの気持ちを知っては……三沢君、病院へいくのよ。専門家に相談するの。入院するの……いいわ。ついていってあげる。息子さんは私が面倒みる。あなたが立ち直るまで。あなたは恩人だもの」
電話が鳴った。夫からだ。あの人は葉月を抱き上げ寝かせに行った。私は電話に出た。
「熱は下がった。よく寝てるわ。もう大丈夫よ。気をつけて」
 電話を切るとあの人はいなかった。

 どうしただろうか? 夫に話そうか? あの人の息子が心配だ。あの母親も。 
 
 翌日、カーネーションの花束が届いた。

 恩人へ    M
 花言葉は感謝。

 2年後、あの人は再婚した。近所に住んでいた獣医と。若いが、しっかりした女性らしい。あの人の息子は懐いている……
 女の子が生まれた。
 実家にいけば耳に入る。大きな邸の主人の情報は。
 
 そして……H校で再び会った。葉月の高校の入学式。来賓の挨拶をしたのがあの人だった。立派だった。
金縷(きんる)の衣は再び()べし。青春は()べからず」

 葉月が倒れた。来賓席にいたあの人が助け起こした。そして抱き上げ保健室に運んだ。私はあとをついていった。ベッドに寝かす。
「そっくりだな」
しばらくぶりなのに、あの人は娘の方に興味を持った。
「篠田は嬉しいだろうな」
なぜ、倒れたのだろう? 貧血など起こしたことはないのに。

 葉月は夢の中の出来事だと思っている。あのおじちゃんは葉月の夢の中に出て来たのだ。

 葉月が目を覚ます前に、私はあの人を廊下に出した。誰もいない廊下で少し話した。
「息子は2年だ」
「あなたの息子さんも?」
「運命を感じないか?」
「感じないわ」
あの人は笑った。素敵な紳士だ。若い娘にもモテるだろう。
「篠田は君の、なにが良かったんだ?」
「ひどい言い方ね」
「君が醜い女だったら、見向きもしなかった」
「あなたもでしょ?」
「顔か。顔……」
あの人は、携帯の写真を見せた。
 私は凍りついた。
「君の青春時代、不幸だと思うか? この娘より」
私は首を振った。
「葉月がこんな顔に生まれてたら、育てられたか?」
「誰なの? まさか、娘さん?」
「元妻が助けた娘だ。この子の母親は海に入って、心中しようとした。父親はこの子が生まれると姿を消した。受け入れられなかったんだろう。考えているんだ。この娘の父親代わりになって、希望を与えてやりたい。幸子が命に変えて助けた娘だ」 
「……手術できないの?」
「これから、何度もやる。顎、目、耳、心臓も。大人になってもな」
「……」
「君は幸せだよ。篠田に巡り会えて」
「その子も。あなたに巡り会えた」
「俺が……生まれてきてよかったと思わせてやる。必ず」




          (了)


 最後まで読んでいただきありがとうございます。
『恩人』は『異邦人のように』のスピンオフです。
『思い出』に操と篠田が、『希望』『小さな木の実』に元妻が助けた娘が『社長と私1、2』には前妻と母親が登場しています。
『鎮静剤』『アパートの手記』にはH校で会った子供達が登場します。

 葉月は『美しい月』の『先輩』にも登場します。
 これらも読んでいただけたら幸いです。


 
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登場人物紹介

大江 操 薄幸の美少女。『異邦人のように』の『思い出』に登場。

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