第5話 浄化

文字数 4,229文字

 操は家を引き払い部屋を借りた。嫌な思い出は捨てた。
 操はおしゃれをし遊ぶ。ようやく訪れた自由と青春だ。スーツを着た高学歴の男たちと付き合う。忘れたいのだ。父親のことを。忘れたいのだ。酔って。陽気になって。
 忘れたい男もいるのだろう。

 酔って辰雄を呼び出した。車で迎えに行った。部屋まで送って行く。操は饒舌だ。
「チークタイムにキスされた。何人もの男。最低なやつばかり」
辰雄はスピードを出した。
「三沢君がいてくれたら……」
「三沢ならどうした?」
「叩きのめした」
「あんな、1度も見舞いにいかなかった男。おまえに暴力振るったの忘れたのか? あざができるほど」
「だけどね、あれはね……」
「なんだよ。なんであんなやつを?」
操は言葉に詰まった。
 部屋に入るとシャワーを浴びた。辰雄は怒りが収まらない。ドア越しに大声を出した。顔を見ないから言えた。
「三沢の、なにが好きなんだ? 顔か? 頭か? 家か? 金か? 殴られるのが好きなのか? マゾか? おまえは。ひどいことされるのが好きなのか?」
聞こえたのか? シャワーが止まった。
「バカね。ほんとうにバカな人ね。ほんとうにバカっているのね。知らなかった」
辰雄はドアを開けた。裸の操が隠しもせずに辰雄を見た。
「バカはおまえだ。酔っ払い」
「そうよ。私はバカよ。大バカよ。だけどね」
「オヤジさんそっくりだな」
「そっくり? どこが?」
「だけどね、だけどねって、そっくりだ」
「じゃあ、私もああなるの? やめてよ。やめてよ。もう、飲まない」
「オヤジさんも何度も言ったぞ。もう飲まないって」
「やめてよ」
「おまえも、ああなるんだ。糞垂れ流して、ウジがわいて、ハエがたかる」
「やめて! 助けてよ。辰雄サン」
酔った操は抱きついてきた。
「ジョウカして。汚いとこ全部ジョウカしてよ」

 意味はわからなかったが、どうすればいいかはわかった。ジョウカした。操が示すところ全部。何人もの男の唾液で汚れた唇。首すじ。触られた胸。腰。そして……
 操は娼婦のようだった。歌でしか知らないが。足を広げ笑った。
「ジョウカしてよ。辰雄クン。ジョ・ウ・カ。浄化できるのは愛だけだ」
意味がわからなかった。行為はわかるが。
「子供、できないか?」
「できたら、どうする?」
「できたら、最高だ」

 最高だ。翌日は休みだ。辰雄は朝まで眠れなかった。浄化した。何度も。辰雄の行為は浄化なのだ。愛の行為なのだ。
 では、三沢の行為は、なんだったというのか? 殴って、あざができるほど殴って、自分のものにした?

 操は2度と酒は飲まなかった。凛とした操はもう誰も触れられなかった。辰雄以外の男には。操はますます美しくなった。図書館には若い男が増えた。辰雄は毎日のように操の部屋に通い、浄化した。操は浄化されるたびにきれいになり、花屋は繁盛した。

 辰雄の父親の会社は景気がよかった。今までの年収が月収になった。社員旅行はグァムだった。連れて来てやりたい。1度もいい思いをしなかった操を。明るい太陽の下に。
 旅行をした。ずっと、貧乏暮らしだった操をグァムに連れて行った。会社の旅行で行ったから案内できる。操は英会話を習い、泳ぎたいからと、水泳も習っていた。

 買い物をした。今まで買えなかったブランドものを。最高のホテル。最高の部屋。最高の料理を食べているときに操が聞いた?
「死ぬ前に食べたいものはなに?」
「……おふくろの、コロッケかな、でかかった。ホクホクで」
「再現できるでしょ? 今度作ってみるね」
「おまえは? なにが食べたい? 生きてるうちにさ。なんでも食わせてやる」
「私も、母の作ったもつ鍋。もつとこんにゃくだけ。手抜きよ。甘いだけ。料理下手だった。あれだけは……作れないの。再現できない」
 母の思い出話はするが、父親の話はご法度だ。何年かかるのだろう? 

 夜のプールで泳いだ。生演奏でジャズを聴いた。操は酒を飲まない。恐れている。
 海辺で写真を撮られている花嫁がいた。ホテルには教会がある。
「素敵ね。ふたりきりの結婚式」
「ああ。オレたちも結婚しようか」
操はじっと辰雄を見た。
「……忘れられない男がいてもいい」

 豪華なマンションに移った。子供はできなかった。操は欲しかったのだろうか? 仕事を辞めて不妊治療に金をかけた。

 三沢はまだ結婚していない。見合いはしているようだが、あの母親の眼鏡に適うような女は現れないのだろう。
 操は時々過去を振り返る。遠い目をする。何を考えているのだ? 誰を思っているのだ?
 三沢もまた、結婚しないのは操のことが忘れられないからではないのか?
 恐怖にさいなまれる。ふたりは特別だ。愛以上の何かで繋がっている。

 その頃辰雄の父親の会社が経営難に陥った。再び操に貧乏はさせられない。辰雄は酒を飲むようになった。操の大嫌いな酒を。酒を飲み嘆く。
「親父の会社はもうダメだ。離婚しよう。おまえは三沢と寄りを戻せ」

 三沢を呼び出し絡んだ。なぜ、結婚しないのか、と絡んで送らせた。無理矢理部屋まで連れてきた。辰雄は酔い潰れたふりをした。操は喜びはしなかった。

「どうなってるんだ、君たちは?」
「贅沢な暮らしも続かなかったわね。金の切れ目が縁の切れ目」
「本心ではないだろう?」
「子供ができないの。天罰かしら?」
「そんな天罰はない」

 どういう意味だ? 天罰? 天罰で子供ができない?

 高2になると操の帰りが遅くなった。三沢と付き合っていたからだ。操の様子はおかしかった。そして殴られた。なにがあった?
 妊娠したのだ。過去に。高2の夏、操は妊娠した? 三沢の子を? 三沢はもちろん中絶させた。あの母親が始末したのかもしれない。息子の前途が台無しだ。操はそうせざるを得なかった。ひどい男だ。辰雄は怒りで震えた。その後、操が療養しても1度も見舞いにも来ないで、金で解決したのだ。
 しかし、三沢はいまだにひとり身だ。ひどいしうちをした操を忘れられずにいる。操もまだ三沢のことを。辰雄を愛そうとしても、三沢のことを忘れられないのだ。なぜ、あんな男を? 

 ああ……いたではないか。ひどい仕打ちをされてもなお愛した男が……妻に裏切られてもなお愛し、ボロボロになって死んでいった操の父親。そっくりではないか。愛とは理屈ではない。操も三沢に死なれたら父親のようになるのだ。三沢が死んだら操も死ぬのだ。

 怒ってはいない。操は隠れて会ったりはしなかった。なにより辰雄の子供を欲しがった。

 操は離婚に同意した。操名義の預金はある。当面、生活に困りはしないだろう。辰雄は三沢に操のことを頼んだ。

 三沢も寄りを戻したかったのだろう。いろんな女と付き合ったはずだ。そして操は特別な女だとわかったはずだ。特別な女?

 殴ってもいい女だ。まさか、三沢は? 

 辰雄には理解できない。女を殴るなんて……しかし、そういう性癖もあるのだ。そして、操も……

 優しくしても……感じなかったみたいだし……
 
 まさか? 操が? 異常性癖? 理解できないが。

 勝手にしろよ。もう……

 操は働きはじめた。紳士服店で。三沢は教える。スーツの似合う男は自慢した。
「彼女の見立てだ。客がたくさん付いてる。彼女目当てに買いに来る。売り上げは契約社員なのにトップだ」
「時期が来たら結婚してくれ」
 三沢はまだ煮え切らない。あの母親を納得させるのは至難の業だ。想像する。スーツを脱いだこの男の性癖を。操の喜ぶ姿を。しかたない。これが結末だ。操の幸せはこれだったのだ。殴られても殺されても愛しているのだ。『D坂の****』だ。もう、やってられない。諦められる。ようやく、諦めることができる。

 操の結核が再発した。三沢は冷たく言い放った。
「見合いした。結婚するんだ」
またしても操は捨てられた。
 殴るのも忘れ、操の元に駆けつけた。
 運のない女。なぜ幸せにしてくれないのだ? またしても三沢はおまえを捨てた。なぜ、あんな冷たい男を愛したのだ? 冷たいから愛したのか? 幸せにはなりたくないのか? 

 ドアを叩くと操は出てきた。白い顔。血の気のない顔がパッと赤くなった。
「心配するな。オレに任せておけ。すぐ治るよ。絶対治してやる」
「移るわ」
「構わないさ。移せよ。一緒に療養しよう。もう離れない。おまえが嫌でも離れない。おまえが三沢を思っていても……」
「療養?」
「再発したんだろ? 心配するな」

 操は打ち明けた。

「父は酔って喋った。母は結婚したときに男を知っていた。そしてまたもや父を裏切った。母は若い男と不倫をし中絶した……
 それでも父は母を許した。愛した。母が死んだ時に父も死んだ。
 いや、父が愛したのは酒だけ……

 鏡を見て思うの。
 
 父と同じ表情をしている……

 年月が回答を出した。鏡に映る自分の顔は紛れもなく父親と同じ輪郭。
 ひどい父親よ。父の思い込みのせいで私は青春を壊された。

 中3の夏に知らされた。父だと思っていた男は酔っていたから、若い娘に聞かせられないようなことを喋った。そして言ったの。
 おまえは誰の子かわからない。

 そのことが私を苦しめ、さらに苦しめた。
 高校1年の冬、バイト先に現れた男は、紳士は、娘のためだと、マフラーを選ばせ、それを私にプレゼントした。私が本当の父親だと思ったのも無理はないでしょ? 本当の父親が探してくれたのだと。いえ、勝手に勘違いした自分が悪いの。
 男は両親のことを聞いた。私が幸せなのかを聞いた。名乗れないけど父親だ。私は確信した。
 休みの日は食事に誘い、勉強できる部屋を借りてくれた……あとは思い出すのも嫌っ!」
「三沢は? 三沢は知っているんだな?」
「あなたのせいよ。あなたが勝手に誤解するから、三沢さんに問い詰められた。当たり前でしょ。あの人は女を殴るような人じゃない。恩人なの。三沢さんは助けてくれたの。私のあとをつけ部屋に上がり込み、叩きのめした」
操は笑い出した。
「叩きのめした。股間を思い切り蹴り上げて。傑作。うずくまって。勃起不全、治ったかしら? 取るに足らない男よ。弁護士の三沢さんの叔父さんが後始末してくれた。お金も取ってくれた。全部消えたけど」
「なぜ、三沢なんだ? オレに言えば、オレに助けを求めれば……」
「バカね、ほんとにバカな人っているのね」
 辰雄は思い出した。M橋に走ってきた操の笑顔。辰雄にだけ向けられた笑顔だった。三沢は傍観者だったのだ。それなのに、勝手に思い込み誤解して誤解し続けた。



 
 
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登場人物紹介

大江 操 薄幸の美少女。『異邦人のように』の『思い出』に登場。

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