斑曲輪(ぶちくるわ)の由来
文字数 5,037文字
今は昔のことでございます。
武蔵国 の西方 に、打鞍 という村がありました。
この村の北には、大きな峰々 が肩をそびやかしており、その一角 に、人首山 と呼ばれるところがあったのです。
この山には、鬼熊童子 という妖怪が住むといわれ、幼い子どもばかりをさらっては、食い殺してしまうと、伝えられていました。
ですから打鞍の親たちは、決してわが子を、ひとりきりでは外に出そうとしなかったのです。
子どもたちが遊ぶときなどは、必ず大人が近くに立って、鬼熊童子に連れ去られないようにと、見守ることにしていたのでした。
*
人首山の麓 には、この村で一番の庄屋 さんの屋敷 が建っていました。
この屋敷ときたら、後ろの人首山を隠してしまわんばかりの大きさで、しかもその周りを囲む、真っ白な漆喰 を塗 りたくった塀 ときたら、まるでお城を守る、『曲輪 』と呼ばれる城壁 のように見えるので、村の衆 はここを『曲輪屋敷 』などと呼んでいたのです。
庄屋さんには、お縁 という、歳 の頃 十六ばかりの、それは美しい、一人娘 がありました。
お縁は色が白く、艶 のある長い髪をして、ユリの花を思わせる端麗 な顔立ちをしていたものですから、『縁姫 様』だとか、『曲輪のお嬢 さん』などと呼ばれ、器量 もたいへん良いものですから、村人たちに、とても好 かれていたのです。
*
初夏の涼 しい夕暮 れのことでございます。
お縁は父親である庄屋さんから、おつかいを頼まれ、南の奥原村 へ行った帰りに、内鞍村の入り口の、一面 に田んぼが広がる畦道 を、足早 に歩いていました。
「急がないと、夜になってしまう」
そんなことを、お縁は考えていたのです。
鬼熊童子の言い伝えのことも、もちろんありますが、何よりも彼女は、早く帰らないと、家の者たちが心配するだろうという、純粋な気持ちから、そう思っていたのでした。
集落が遠くに見える、四 つ角 にさしかかったときです。
右手に生 える一本松 の下に、一人の男の子が、なにやらうずくまって、人首山のほうを眺 めています。
(こんな時分 に、子どもがひとりきりで、いったい、どうしたのだろう?)
お縁は不思議に思いながらも、その子のところに歩 み寄 って、声をかけました。
「坊や、こんな時分に、ひとりぼっちでどうしたんだい? こんなところにいたら、人首山の鬼熊童子に、さらわれてしまいますよ?」
すると今度は、その子が反対に、お縁の顔を不思議そうに見つめたのです。
彼はくりっとした目をぱちぱちさせながら、こう言いました。
「おねえさんこそ、こんなところをひとりぼっちで歩いてたら、さらわれちゃうんじゃないの? その、鬼熊童子に」
年端 もいかないのに、ずいぶん大人びたことを言うものだと、お縁はいぶかりました。
ふと、下のほうへ目をやると、男の子の左足から、赤い滴 が垂 れています。
「……それは、血じゃないかい? たいへん、怪我 をしているのね」
「ああ、これ? 遊んでいたら、ちょっとね」
「ちょっとではありませんよ。どれ、見せてごらんなさい」
「ええ? いいよ、平気だから」
「平気なものですか。ほら、わたしに任せて」
「うーん……」
お縁は懐 に入れていたきれいな布で、男の子の血を拭 き取り、足を軽く縛 って、止血 をしてあげました。
「ほら、これで大丈夫よ。さあ、こんなところへいないで、わたしが送ってあげるから、家に帰りましょう」
「ありがとう、おねえさん。でも、いいんだ。さっき南は奥原の、槐翁 から聞いてきたことを、これから東は石神 の、厨子王丸 に、伝えにいかなきゃならないからね」
「……え?」
どうっ――と、一陣 の突風 が吹 きました。
「きゃあっ!」
お縁は思わず、着物のすそで、顔を隠しました。
「あれ――」
風がおさまって、ゆっくり手をどけると、あの男の子の姿は、どこにも見当たりません。
―― うふふ、おねえさん。このお礼は、必ずしてあげるからね? ――
どこからか、その声は聞こえました。
お縁が空を見上げると、東の石神村のほうへ、風の渦 が飛んでいくのが見えたのです。
「まさか、あの子が……鬼熊童子……」
お縁は背筋が寒くなって、逃げるように家へと走ったのです。
*
ところでこの村には、お縁の家よりはずっと落ちますが、大きな米問屋 が店をかまえていて、そこの若旦那 ときたら、のらくら者で、ずるがしこくて、おまけに好色 で、村の者たちからは、陰口 を叩 かれてばかりいたのです。
この日もろくに、家業 の手伝いもせず、座敷にねそべって、扇子 をぶらぶらさせながら、何か面白いことはないかなどと、思案 していたのです。
「……ああ、お縁さん……美しいですよねえ……ぜひ、わたしの嫁御 に……そうすれば、お庄屋さんの家だって、わたしのもの……」
こんな風に、下衆 きわまりないことを、あれこれと考えていたのです。
「旦那さま、よろしいでしょうか?」
女中頭 のお兼 が、とことことした歩みで、若旦那のほうへやってきました。
「なんだい、お兼さん?」
「盗賊 の一味 が、近隣 の村々 を荒 しまわっているらしいので、じゅうぶんに気をつけなさいと、大旦那 さまが申しておりました」
「ほう、盗賊ですか……なんとも、ぶっそうですねえ……わかりました。そう、親父どのに、伝えてくださいな」
「へえ」
お兼は踵 を返して、またとことこと、戻 っていきました。
「……盗賊、盗賊か……なるほど、これだ……」
若旦那はパシンと、扇子で手を打ちました。
「これ、五郎兵衛 はおるかい?」
「旦那、なんぞご用ですかい?」
座敷からの呼 び声 に、熊のような大男が、ぬっと、現れました。
この男は、米蔵 を取りしきっている五郎兵衛という者で、若旦那とは意気が合い、何かにつけて、悪 だくみを練 りあっているのでした。
「これ、ちょっとこっちへ」
「――?」
「ちょっと、耳をお貸し」
「はあ……」
若旦那は何やら、五郎兵衛に耳打ちをしました。
「……なるほど、わかしやした。すぐに準備いたしやす」
五郎兵衛は何ともいやらしい顔をして、その場を去っていきました。
おそろしいことに、この若旦那は、巷 を騒がせている盗賊一味の名を借りて、庄屋さんの屋敷を襲撃 し、あろうことか、お縁をかどわかしてしまおうと、もくろんだのです。
五郎兵衛には、今夜さっそく、事 に及 びたいからと、その用意を促 したのです。
「うふふ、お縁さん。もうすぐ、わたしのものですよ?」
こうして若旦那の計画は、着々 と進んでいったのです。
*
「お縁の姫様以外は、全員、始末 していい。何もかも、噂 の盗賊一味の
その日の夜更 け、くだんの曲輪屋敷の前には、若旦那、そして五郎兵衛を筆頭 ととする、米問屋の手下たちが、三十名ばかり、うじゃうじゃと集まっていました。
「みなさん、ちゃっちゃとやってくださいな。人気 のない場所とはいえ、誰かに見られでもしたら、あとあとやっかいですからね」
若旦那は、早くお縁を自分の手にと、手下たちに作戦の決行を、急 かしました。
「よし、行くぞ――ん?」
五郎兵衛は奇妙に思いました。
いままでまったく、気がつきませんでしたが、屋敷の大きな門の前に、着物姿の小柄 な男の子が、まるで陣取 るように立って、へらへらと笑っているのです。
「なんだ、ボウズ? そこをどかねえか。さもないとお前なんぞ――」
五郎兵衛は少年を捕まえようと、手を伸ばしましたが、その手はフッと、奥のほうへ反 れ、逆にその子のほうから、頭をがっつり、掴 まれたのです。
ごぎゃっ――
「ひっ――」
聞いたこともない、おぞましい音で、五郎兵衛の頭は、砕 けました。
若旦那は思わず、のどの詰 まるような悲鳴を、上げたのです。
「うふふ、おじちゃんたち、おいらと遊ぼうよ……」
男の子の目は、赤く爛々 と光って、口からは『牙』がのぞいています。
「おっ、鬼熊童子だあああああっ!」
「にっ、逃げろおおおおおっ!」
手下たちはすっかり混乱して、逃げを打とうとしました。
「みなさん、相手はたかだ、ガキひとりです! 鬼だか何だか知りませんが、まとまって向かえば、やっつけられますよ!」
若旦那は必死で、手下たちを鼓舞 しました。
「くそっ、ひるむな! かかれ、かかれえっ!」
手下たちはほとんど破れかぶれで、鬼熊童子に向かっていきました。
「ぐぎ――」
「あが――」
「ぎゃ――」
ある者は首を捻 られ、ある者は投げとばされ、またある者からは、背中から小さな『拳 』が、ひょこっと顔を出しました。
それは本当に、子どもがお手玉 か何かで、遊んでいるように見えたのです。
三十名もいた手下たちは、こうしてあっという間に、躯 の山に、変わってしまいました。
「くすくす、バカなおじちゃんたち……人首山の鬼熊童子に、勝てるとでも思ったの?」
鬼熊童子は、血まみれになった口もとを、ペロリと舐 めました。
「ひっ、ひいいいいいっ!」
ひとりだけ残された若旦那は、落ちていた『槍 』を拾って、鬼熊童子のほうに投げました。
「ほい」
鬼熊童子は、それをやすやすと、受けとめたのです。
「返すよ」
『槍』は若旦那の口の中に刺 さって、頭の後ろへ抜けていきました。
「はーあ、つまんないの。でも、おねえさん、『約束』は果たしたからね? くく、くくくっ……」
どうっ――
一陣の風が吹いて、鬼熊童子は、人首山へと帰っていきました。
*
明くる朝、ひとりの女中 の絶叫 で、家人 たちは、叩き起こされました。
米問屋の若旦那をはじめとする、男衆 の遺骸 ――
そして、真っ白な曲輪に、点々とついた、おびただしい血――
それはまるで、『斑 』のような模様にも見えました。
「ああ、なんとおそろしい……これはきっと、人首山の、鬼熊童子のしわざに、違いない……」
村人たちはこの屋敷を、『斑曲輪屋敷 』と呼びなおして、いつまでもおそれ、おののいたのです。
お縁はといえば、「鬼熊童子に見初 められた娘」と、ありもしないことを噂され、やがて家を去り、残された庄屋さんの屋敷も、すっかり、没落 してしまったのです。
そしていつしか、この打鞍の土地は、『斑曲輪 』という名前に、変わったのでした。
いまでも、お縁の血を引く者には、鬼熊童子がそばについて、しっかりと、守っているそうです――
(『斑曲輪 の由来』終わり。次話『御石神 の由来』へ続く)
この村の北には、大きな
この山には、
ですから打鞍の親たちは、決してわが子を、ひとりきりでは外に出そうとしなかったのです。
子どもたちが遊ぶときなどは、必ず大人が近くに立って、鬼熊童子に連れ去られないようにと、見守ることにしていたのでした。
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人首山の
この屋敷ときたら、後ろの人首山を隠してしまわんばかりの大きさで、しかもその周りを囲む、真っ白な
庄屋さんには、お
お縁は色が白く、
*
初夏の
お縁は父親である庄屋さんから、おつかいを頼まれ、南の
「急がないと、夜になってしまう」
そんなことを、お縁は考えていたのです。
鬼熊童子の言い伝えのことも、もちろんありますが、何よりも彼女は、早く帰らないと、家の者たちが心配するだろうという、純粋な気持ちから、そう思っていたのでした。
集落が遠くに見える、
右手に
(こんな
お縁は不思議に思いながらも、その子のところに
「坊や、こんな時分に、ひとりぼっちでどうしたんだい? こんなところにいたら、人首山の鬼熊童子に、さらわれてしまいますよ?」
すると今度は、その子が反対に、お縁の顔を不思議そうに見つめたのです。
彼はくりっとした目をぱちぱちさせながら、こう言いました。
「おねえさんこそ、こんなところをひとりぼっちで歩いてたら、さらわれちゃうんじゃないの? その、鬼熊童子に」
ふと、下のほうへ目をやると、男の子の左足から、赤い
「……それは、血じゃないかい? たいへん、
「ああ、これ? 遊んでいたら、ちょっとね」
「ちょっとではありませんよ。どれ、見せてごらんなさい」
「ええ? いいよ、平気だから」
「平気なものですか。ほら、わたしに任せて」
「うーん……」
お縁は
「ほら、これで大丈夫よ。さあ、こんなところへいないで、わたしが送ってあげるから、家に帰りましょう」
「ありがとう、おねえさん。でも、いいんだ。さっき南は奥原の、
「……え?」
どうっ――と、
「きゃあっ!」
お縁は思わず、着物のすそで、顔を隠しました。
「あれ――」
風がおさまって、ゆっくり手をどけると、あの男の子の姿は、どこにも見当たりません。
―― うふふ、おねえさん。このお礼は、必ずしてあげるからね? ――
どこからか、その声は聞こえました。
お縁が空を見上げると、東の石神村のほうへ、風の
「まさか、あの子が……鬼熊童子……」
お縁は背筋が寒くなって、逃げるように家へと走ったのです。
*
ところでこの村には、お縁の家よりはずっと落ちますが、大きな
この日もろくに、
「……ああ、お縁さん……美しいですよねえ……ぜひ、わたしの
こんな風に、
「旦那さま、よろしいでしょうか?」
「なんだい、お兼さん?」
「
「ほう、盗賊ですか……なんとも、ぶっそうですねえ……わかりました。そう、親父どのに、伝えてくださいな」
「へえ」
お兼は
「……盗賊、盗賊か……なるほど、これだ……」
若旦那はパシンと、扇子で手を打ちました。
「これ、
「旦那、なんぞご用ですかい?」
座敷からの
この男は、
「これ、ちょっとこっちへ」
「――?」
「ちょっと、耳をお貸し」
「はあ……」
若旦那は何やら、五郎兵衛に耳打ちをしました。
「……なるほど、わかしやした。すぐに準備いたしやす」
五郎兵衛は何ともいやらしい顔をして、その場を去っていきました。
おそろしいことに、この若旦那は、
五郎兵衛には、今夜さっそく、
「うふふ、お縁さん。もうすぐ、わたしのものですよ?」
こうして若旦那の計画は、
*
「お縁の姫様以外は、全員、
せい
に、なるんだからな」その日の
「みなさん、ちゃっちゃとやってくださいな。
若旦那は、早くお縁を自分の手にと、手下たちに作戦の決行を、
「よし、行くぞ――ん?」
五郎兵衛は奇妙に思いました。
いままでまったく、気がつきませんでしたが、屋敷の大きな門の前に、着物姿の
「なんだ、ボウズ? そこをどかねえか。さもないとお前なんぞ――」
五郎兵衛は少年を捕まえようと、手を伸ばしましたが、その手はフッと、奥のほうへ
ごぎゃっ――
「ひっ――」
聞いたこともない、おぞましい音で、五郎兵衛の頭は、
若旦那は思わず、のどの
「うふふ、おじちゃんたち、おいらと遊ぼうよ……」
男の子の目は、赤く
「おっ、鬼熊童子だあああああっ!」
「にっ、逃げろおおおおおっ!」
手下たちはすっかり混乱して、逃げを打とうとしました。
「みなさん、相手はたかだ、ガキひとりです! 鬼だか何だか知りませんが、まとまって向かえば、やっつけられますよ!」
若旦那は必死で、手下たちを
「くそっ、ひるむな! かかれ、かかれえっ!」
手下たちはほとんど破れかぶれで、鬼熊童子に向かっていきました。
「ぐぎ――」
「あが――」
「ぎゃ――」
ある者は首を
それは本当に、子どもがお
三十名もいた手下たちは、こうしてあっという間に、
「くすくす、バカなおじちゃんたち……人首山の鬼熊童子に、勝てるとでも思ったの?」
鬼熊童子は、血まみれになった口もとを、ペロリと
「ひっ、ひいいいいいっ!」
ひとりだけ残された若旦那は、落ちていた『
「ほい」
鬼熊童子は、それをやすやすと、受けとめたのです。
「返すよ」
『槍』は若旦那の口の中に
「はーあ、つまんないの。でも、おねえさん、『約束』は果たしたからね? くく、くくくっ……」
どうっ――
一陣の風が吹いて、鬼熊童子は、人首山へと帰っていきました。
*
明くる朝、ひとりの
米問屋の若旦那をはじめとする、
そして、真っ白な曲輪に、点々とついた、おびただしい血――
それはまるで、『
「ああ、なんとおそろしい……これはきっと、人首山の、鬼熊童子のしわざに、違いない……」
村人たちはこの屋敷を、『
お縁はといえば、「鬼熊童子に
そしていつしか、この打鞍の土地は、『
いまでも、お縁の血を引く者には、鬼熊童子がそばについて、しっかりと、守っているそうです――
(『