第54話 美恵、恋人の下条忠と諍う

文字数 1,862文字

 或る日の夜、中本興治はバー「スイート・ハート」で若いカップルの諍っている様子をかれこれもう一時間もじっと眺めて居た。女の方はあの上野美恵で、先刻からかなり昂ぶった様子で激しく喋り続けている。相手の男は拗ねたような表情と、彼女を無視したような仕草と、人を責め立てるような細い眼をして座っていた。二人ともお互いに吐き合った辛辣な言葉の数々に自分自身を一層がんじがらめにしてしまったのか、まるで周囲の人間やその視線などには全く気付いていない様子だった。
男は眼を上げると、食い縛った歯の間から何やらボソボソと呟いてから、トイレの方へ歩いて行った。残された美恵は絶望に顔を歪め、じっと座ったままで其処に居た。
 その時、興治は徐に立ち上がって、美恵に話し掛けた。
「何処か、店を変えて、呑み直そうか?」
美恵は顔を上げて興治を見詰め、その垂れた前髪までがキチンと整えられたヘアースタイルときりりとネクタイを結んだ三つ揃いの背広姿を素早く観察した。
「わたし、全然知らない人とは飲みに行ったりしないわ」
「それは冷たい言い方だね。三月の雪の降る晩に此処で逢って話しただろう、君の姉さんと俺の友達と、五人で、さ」
美恵はもう一度、興治を繁々と見やって、漸く思い出したように言った。
「ああ、あなた、あの時の・・・」
「やっと思い出してくれたか・・・別に怪しい者じゃ無いよ、俺はこういう者だ」
興治はそう言いながら、内ポケットの名刺入れから名刺を一枚抜き取って、美恵の前に差出した。
彼は誰もが知る有名な大企業の営業部員だった。美恵の顔に安堵の表情が浮かんだ。
「君がどうやら少し困っているようだから、河岸を変えた方が良いんじゃないかと思ってさ。俺は君のような可愛い女性が困っているのを素知らぬ顔で黙って見過ごす訳には行かないんだよ」
興治が美恵の澄んだ黒い眼とシミ一つ無い滑らかな肌と、量感のある唇と栗色の巻き毛の髪を、ひとつひとつ確かめている間に、美恵の方も興治を隈なく観察した。
「良いわ」
美恵は先刻の男が戻って来ないのを確かめてから、そう言って、カウンターに置いたハンドバッグを手に取った。
「さ、行きましょう」
 
 その男、下条忠がカウンターに戻った時には、美恵と興治は既にタクシーに乗り込み、四条通りを木屋町に向かって鴨川の橋を渡っている最中だった。
「君は大学の修士課程で経営学を専攻しているんだったね。で、幾つなの、歳は?」
「二十三歳よ、来年の春には大学院も修了だわ」
「住まいはこの近くだって言っていたよな?」
「ええ、川端四条を少し上った処のマンションよ」
「なるほど、それは近いや。で、先ほどの彼は君の恋人なのか?」
「そうね、交際って一年ほどになるかしら。彼は文学部の修士課程で仏文学をやっているわ。百万遍の学生会館でルームメイトと暮らしているのよ」
「文学者の卵って訳か、なるほど・・・」
 話している間に車は西木屋町の高瀬川畔にあるバー「ワインリバー」の前に到着した。
二人は混み合っているカウンター席を避けて奥のボックスシートに背を凭せかけるように並んで深く腰かけた。ミニの裾から伸びた美恵の脚は太からず細からず、白くて艶やかだった。興治は少し欲情を催した。
 それから水割りとマティーニ―を注文した後、二人は再び話の続きを始めた。
「で、喧嘩の原因は、彼の焼き餅ってところかな?」
「焼き餅どころじゃないわ」
「図星、当りかよ?」
「もっと悪いのよ!」
美恵が続けた。
「わたしが買い物に出れば、店に良い男が居るんじゃないか、って騒ぎ立てるし、テストで“優秀”を取ると教授と寝たんじゃないかと疑う。徳島の実家へ帰れば、昔のボーイフレンドと怪しいと思う。そういう男なのよ、彼は。夜の十二時や朝の六時に電話を架けて来ては、私がちゃんとマンションに帰っているかどうかを確かめるんだから・・・どう?信じられる?」
「それは酷いね」
「全くよ、真実に酷いでしょう」
 
 興治が美恵をマンションの近くまで送り届けると、入口の近辺に下条忠が立って居るのが見えた。二人は裏口へ廻り、美恵は足音を立てずに非常階段を登って部屋へ帰って行った。別れ際に興治は美恵の電話番号を教えて貰った。
 下条忠は興治に気付かなかった。興治が自分の恋人をマンションまで送り届けたことなど全く知る由もなった。彼は其処に立ったまま、美恵の帰りを待つ心算なのであった。
 興治は川端四条の角まで歩いてタクシーを拾った。彼は入口で待ち続ける男のことを哀れんだ。ほんのガキなんだなぁ、未だ。可哀相なガキだよ、全く・・・。 
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