第8話 池田慎一、天橋立のリゾートホテルにやって来る

文字数 2,512文字

 天橋立を眺望する小さなリゾートホテル「プチ・フルール」に池田慎一がやって来たのは八月の初めだった。彼は大学の夏休みが始まると直ぐに東京を出立し、萩、松江、米子などの山陰地方を数日間散策した後、今朝早く鳥取を出発して特急列車や丹後鉄道を乗り継いで、今し方、この天橋立に到着した。
 タクシーを走らせること十分余り、ジグザクの道を辿って行くと岬の先端にビラ風の建物が見えて来た。メインのビラを中心に、海の方に一つと山側に一つ在る白い建物は陽に映えて洒落ていた。ビラは四階建てで上へ行くほどにピラミッド型に狭まっている。
 ホテルの玄関を入るとロビーが拡がっていた。
宿泊予約は一昨日、スマホで済ませてあった。
「ようこそ、居らっしゃいませ。お待ち致しておりました。ごゆっくりお寛ぎ下さい」
ロビーで出迎えたフロントの若い女性が声をかけると、慎一はハッとしたように笑顔を覗かせたが、直ぐにきまり悪そうに俯いた。背が高く、スポーツ選手のような身体つきをしていたが、顔には未だ少年の面影が残り、眼鏡をかけて神経質そうに見えた。
 案内された二階の二一五号室は海へ向かってベランダが拓け、オーシャン・ビューのそのベランダからはホテルの庭やその向こうの海が広く見渡せた。若者一人が滞在するには贅沢過ぎる広さであった。調度品も高級でドアの把手やバスルームのシャワーにまで細かな神経が行き届いていた。
 慎一が暫く部屋で寛いだ後、ホテルの中を興味本位に散策すると、一階はロビーと庭に面したラウンジとダイニングルームが中心で、ロビーの奥にホテルのオフィスが在り、その裏側にマネージャー・ルームとオーナーのプライベイト・ルームが在った。
 三階にはパブリック・スペースとしての大きなバルコニーが在って、其処から庭先まで大理石のゆったりとした階段が付いていた。
 庭は広かった。ヨーロッパ風の池があり、その周囲は花壇になっていた。その先には松林へ続く小径が岬の先へ続いているようで、日本海の波が岩肌を梳っているのが見えた。
その上方にもう一つ建物が在った。室内プールと日光浴の為のラウンジと洒落たバーのようだった。
 断崖の両側には恰好の釣り場が在ったし、東側には小さなビーチも在って其処へ降りて行く緩やかな道も見えた。
此処はリゾートホテルとしては最高だな!・・・これだけ設備が整っていれば出歩く必要は全くない・・・
慎一は美しい海を背景にしたこのホテル「プチ・フルール」を心から気に入った。 
後で知ったことだが、このホテルは団体客を取らず、客室は三十室で、それらが満杯になるのは七月、八月の夏休み期間だけだった。特に、日本海の厳寒の冬季は敬遠されて閑古鳥が泣くと言うことだった。尤も、天橋立のホテル全体にその傾向が在って、夏の季節以外は、何処も週末以外は比較的閑散としているのだった。
 
 池田慎一は十九歳の大学一年生で、彼は長男で末っ子であった。
父親は霞が関の官僚でかなりの地位にあったし、姉三人は出来が良くて三人ともが一流大学を卒業し既に二人は良家へ嫁いでいた。慎一も小学校時代から成績はトップクラスで、中学も高校も一流校を順調に進んで、東大も文句無しに合格する、と言われていたのが、どういう訳か落ちてしまった。それまでが余りに優秀と言われ過ぎ、順調に帆を挙げているように見えていたのが、初めての挫折でショックが大きく、ノイローゼ気味になって極端に人間嫌いになってしまった。彼は東大を現役で落ちただけでなく、一浪してもまた合格することが出来なかった。止む無く、不本煮ながら私立大学へ入ったが、毎日、碌に通学もせずに殆ど自室に閉じ籠っていた。既に大学一年生の前期が過ぎたが、未だ立ち直りの契機さへ見出せていなかった。
 夏休みを前にした或る日、父親が慎一に言った。
「お前、いつまでも過ぎた日々の幻影に縋りついて居ては、将来は開けないぞ。お前は未だ二十歳前で先の有る身だ。否、先の方が遥かに長い。人生は七転び八起きだ。一つ一つの躓きにへこたれていては、この先、輝くお前はやって来ないぞ!」
「でも・・・」
「夏休みの一カ月間、アメリカへでも行って、ホームステイでもして来たらどうだ?」
「えっ?アメリカでホームステイ?」
「そうだ。お前にその気が在るんなら、儂が手配してやるぞ。誰も知合いの居ない遠いアメリカで独り自分をじっくり解き放ち、鍛え直す契機を見つけて来たら良い」
 慎一は、然し、アメリカ行きを決断するには至らなかった。父親の言った意義はよく理解できたが、広くて遠くて誰も頼れない未知の孤独を思うと、不安と恐怖で押し潰されそうになった。代わりに、彼が選んだのは、国内を一人で一カ月間流浪の旅をして自分を見詰め、鍛え直す方途であった。
「良いだろう。夏休みを一カ月有効に使って、何かを探し、見つけて来れば良い。但し、何処へ行っても居場所だけは毎日連絡して来るんだぞ、良いな!」
慎一は山岳や温泉地は好まなかった。人で溢れ返る観光地も嫌だった。彼は山陰から北陸への海辺の旅を自己再生と練鍛の契機に選び、山口から島根、鳥取を経て京都の北郊「天橋立」へやって来たのだった。
 
 最初の日、慎一は旅の疲れが出たのか、夜の食事も摂らずに眠ってしまった。翌日は早くから起き出したが、一日中、ホテルの中でうろうろと過ごした。岬の方の室内プールで泳いだり、部屋へ帰ってベランダで太陽に当たったり、ロビーへ出て本を読んだりした。
 食事は、洋食も和食もフレンチも中華も、一応は、食べはしたが、ダイニングルームへ降りて行くことは無く、専ら自室へ運ばせて一人で食べた。知らない人たちばかりの新しい環境では落ち着かない、と人見知りする傾向も在るようだった。滞在費は一日三食付きで長期滞在の割安にはなっていたが、彼は、最後にカードで纏めて支払えば良い、と意に介す風も無く、このあたりにも金持ちの息子の大人になり切らない世間知らずの姿が在った。
 慎一は、女性に対する免疫力は無きに等しかった。無論、彼も男の子である。これまでに好きになった女の子は居た。だが、中学を卒業すると同時に彼の初恋は破れてしまっていた。
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