第58話 下条忠、フェリーから投身自殺する

文字数 1,278文字

 その週末は暖かく、陽射しの明るい日だった。
二人は美恵の故里である徳島へ鳴門の渦潮を観に出かけた。フェリーに乗る為に神戸港へ出向いたが、幸いにして、忠の姿は見当たらなかった。
「爽やかな天気で良い一日になりそうだな」
「そうね、こういう風になると、生きているのが幸せ、って感じになるわね」
二人はフェリーに乗り込む列に並んで加わった。
フェリーはエンジンを唸らせ、水を掻き分けて大きくゆっくりと滑り出した。
フェリーの中は車と夫婦と子供と老人、それに若いカップル等で一杯だった。
 美恵と興治は甲板の端に立って潮風に頬をさらした。興治は美恵の肩を抱き、美恵は興治の腰に腕を廻していた。子供たちが叫び、大人が一緒になって歓声を挙げ、老人はタバコの煙をくゆらせていた。
「な、甲板の向こう側へ行ってみようや、其処でスカイラインを眺めようよ」
興治が提案して、二人は船内のムッとするほど暑く混み合っているラウンジを通り抜けて、反対側へ出た。
其処ではエンジンの音が耳の直ぐ傍に聞こえ、乗客はほんの数人しか居なかった。
 
 その乗客の一人が振り向いた。
忠だった!
「うわぁ~っ!」
美恵が声を挙げた。
忠は二人の前に居た。彼の眼は大きく見開かれ、げっそりと見る影も無くやつれ果てた顔で二人を凝っと正視していた。
「うわぁ~っ!うわぁ~っ!」
美恵は叫び続けた。
忠の両手はジャンパーのポケットに突っ込まれたままだった。
興治はその時初めて、この男に恐怖を感じて、戦慄した。
「一体俺たちにどうしろと言うんだ?」
興治が腹立たし気に訊いた。
忠の答は無い。彼はうっすらと寒々しい微笑を返して寄こした。
 やがて、忠は船の手摺によじ登ると、一言だけ発して水の中へ飛び込んだ。
「美恵、愛しているよ、心から!・・・」
美恵は絶叫した。
「やめてぇ~!やめてよぉ~!・・・あぁ~っ!あぁ~っ」
彼女の叫び声は、長く、大きく、恐怖に充ちて響き渡った。
 興治が濃い青緑の海を見下ろした時、フェリーのエンジンと美恵の絶叫が耳を突いた。
海面には忠の姿は無く、彼は間違い無く海の底へ呑み込まれて消えていた。
美恵は脚を縺れさせながら、船の縁に近づいて来た。
「忠さぁ~ん・・・忠さぁ~ん!」
美恵の声はエンジンと波の音に掻き消された。
「下条さぁ~ん!あぁあ~!あぁあ~!・・・忠さぁ~ん!あぁあ~!あぁあ~!」
美恵はいつまでも、いつまでも、叫び続けた。
 興治は美恵を抱きかかえて、彼女の気持を鎮め身体を落ち着かせようとした。
ところが、美恵は興治を押し返しながら叫び続けた。
「来ないで!触らないで!あっちへ行ってよ!」
そして、最後にこう叫んだ。
「私の前に二度と現れないで!」
美恵は拳で船のデッキを叩いた。指の骨が折れるほどに強く叩き続けた。
船のエンジンが唸り、波が船腹を打ち続けた。いつの間にか、物見高い乗客たちが二人を取り囲んだ。 
 興治はこの期に及んで遂に忠に敗北したことを覚り、ゆっくりと美恵の傍を離れた。
死を賭してまでの盲目愛には敵いっこないわなあ・・・
「あぁ~!あぁ~!」
いつまでも泣き叫ぶ美恵の声が海に飲み込まれて消えて行った。
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