第44話 光子と靖彦、悲痛の離別

文字数 1,346文字

 真理子との夜に靖彦の胸に湧き上がった苦い思いは次第に黒く大きく拡がって、やがて、悔恨と悔悟の苦悩となって彼の胸に深く重く沈殿した。それは光子との逢瀬にも、後ろめたさから行動がぎこちなくなり、表情や態度となって表れて、光子の心を気遣わせた。
 いつものように夕食の後のコーヒーを啜りながら光子が靖彦に尋ねた。
「ねえ、何かあったの?この数カ月、あなた何だか変よ。何があったの?」
靖彦は呵責と自責の念に堪えられなくなって、とうとう、光子に、真理子とのことを懺悔するように打ち明けた。
 話を聞いた光子は眼球が飛び出さんばかりに大きく眼を見開き、靖彦をじい~っと凝視した。そして、次第にその眼に紅い炎がめらめらと燃え上がって行った。
「これは単なる出来心や浮気心で起こったことじゃないわ。嘗て愛し合った二人がその告別の刻印を生涯消えないように互いの心に焼き付け合ったのよ。それって、わたしへの完全な裏切りじゃない!純潔で純白な二つの心であなたと一つになりたいと願った私の愛への背信じゃない!」
「・・・・・」
「わたしだけじゃなく、その真理子さんと言う人と結婚される相手の人への侮辱でもあるわ!いえ、それはもうその人に対する凌辱と言えるものだわ。世間から決して許されはしない背徳だわ。あなたはそれに加担したのよ!」
光子は話す途中から嗚咽し始め、ハンカチを口に宛て声を殺して咽び泣いた。
「・・・・・」
「・・・・・」
「この世で一度行った行為は二度と消し去ることは出来ないわ。決して無くなることにはならないのよ」
「・・・・・」
「わたしはあなたを愛しているわ。あなたもわたしを愛してくれている。二人が互いに許し合って、水に流して、このまま結婚すれば幸せになれるかも知れない。でも、一度行われた行為は何かの拍子に顔を覗かせ頭を擡げて来るわ。例えば、喧嘩した時に・・・愛が倦怠した時に・・・その背信と背徳の行為に怯えながら、亀裂した心を抱えて一生暮らす幸せなんて真実の幸せじゃない、それこそ不幸と言うものよ」
忍び泣き、途切れ途切れに嗚咽する光子の前で、靖彦はただ深く頭を垂れてじっと座っているだけだった。
 やがて、暫くして、バッグを手に取った光子は「さよなら」と呟くように言って、席を立った。
淋しそうに肩を小さく窄めて階段を降りて行く光子の後姿を、靖彦はなす術もなく見送った。
 
 帰途の列車の中で光子は思っていた。
わたしと彼とは二人とも深く愛し合っている。それは間違い無く確かだ。これから二人の愛がどうなるのか、この危機を乗り越えられるのか、それは、お互いの心の赴くままに委ねるしか今は方途は無いわ・・・
暗い車窓に映る光子の横顔が哀しく歪んで、その淋しい眼から涙が零れ落ちた。白い夜霧に濡れて、赤いランプの夜汽車が京都へと疾走した。
 靖彦も光子の言ったことはよく解っていた。
俺の行った裏切りと背信の行為によって二人の心と愛は亀裂し分断した。これは一生消し去ることは出来ないし無くなることもない。亀裂した心と愛を繋ぎ合わせても所詮それは繕うことでしかないしそれ以外の何物でも無い。もう二人の愛は終わってしまった・・・
靖彦は悔いても悔い切れない悔恨の思いに激しく胸を塞がれた。
 一か月後、光子は髪を短く切って、会社を辞めた。
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