第62話 達也、歳上の恋人、麗子と離別する

文字数 2,796文字

 欺瞞無く偽善無く、ただ赤裸々で純粋か?
達哉は突然、別れた歳上の南條麗子とのことを思い出した。あいつが俺に求めたものも、この欺瞞無く偽善無い「一体感」だったのではなかったろうか?
 麗子は折に触れ達哉の試合をよく見に来た。が、あれは麗子の中での認識の何かを確かめに来たのではなかったろうか?
試合での達哉は普段と違って、真近かで見守る麗子には見向きもせず、激しく駆け回り敵と闘い合っていた。緊張を頬に浮かべ、日頃になく青ざめた表情の達哉を見る度に、ふと、取り残された寂しさと何か自分の入って行くことの出来ない目のくらむ世界が眼前に在るのではないか、と麗子は感じた。
あの激しさと厳しさは何なのか?
「私、今日もあなたの試合を見てつくづく感じたの」
「何を?」
「あなたは随分、生き生きと輝いて走り回っていた。あんな表情は私の前ではこれまで一度も見せたことが無いわ」
プレイに打ち込む達哉を見ていると麗子は何故か不安になって来る。それは自分だけが取り残されているという寂寥感を籠めた焦燥であった。
「変だなあ、どういうことか俺には良く解らないよ」
「そう。私にも良く解らないの」
「何が?」
「あなたがグランドでやっていること」
「俺はただラグビーをやっているんだ。それだけだよ」
「本当にそれだけ?じゃ何故私はあんなに不安なのかしら?」
確かに達哉が再起不能の大怪我をして、人としての機能不全に陥るのではないかという不安が無いことは無い。元来スポーツ競技そのものが相手の弱点を徹底的に突いての潰し合いであり、とりわけラグビーは激烈に相手の肉体と闘って潰し合う肉弾競技である故に、その不安も大きいと言える。が、麗子が感じる不安と焦燥は、それとは繋がらなかった。
 グランドで達哉がひとり持っている世界に、彼が無意識で自分自身を賭けて獲ち得ようとするもの、それを見守る麗子が心もとなくも無性に惹かれるもの、それは一体何なのか?眦を吊上げて激突する行為の中で、達哉が一体何を得ようとし、何にそれほど惹かれるのか、麗子には見極めることが出来ない。それは達哉に惹かれる麗子が、自分自身を捉えているものの正体を掴めないという不安であった。達哉が目の前のグランドを走り抜ける時、麗子は改めて嘗て無く彼に惹かれる。しかしその時彼女は何することも出来ない。麗子が一番欲する、一番輝いている達哉を手に入れることが出来ない。
「ラグビーはもう止められないの?」
麗子は訊ねた。
達哉はそれには直接には答えずに、言った。
「人は、たとえそれが失敗に終わっても、出来る限りを試ってみる人間が一番素晴しいんだ」
達哉は、ラグビーで闘っている世界では生きている自分を捉えることが出来た。緊張、闘争、燃焼、驚愕、憧憬、羨望、生命、自由、そして秩序さえもが、そう、この現実世界で他人が失っている総てのものが、この透明に熱した明るい世界には在った。人間が蘇生するのは五感が感じて身体が動き、その中で甦るのである。それは頼ってもならず頼られてもならず、人間一人きりのものであり、麗子にも他の誰にも奪われることの無い唯一のものである。誰がどう足掻こうとそれは達哉が一人で打ち立て、ひとりで味わい満足するものである。誰も要らぬ、誰も要らないぎらぎらした華やかな孤独である。誰にも立ち入ることの出来ない達哉自身なのであった。
「解らない。私には解らないわ。結局、私達は他人なのね。私をあなたに繋いでいるものは何なのかしら?」
達哉は何も答えなかった。
 何故こんなに不安なのか?麗子は達哉と共に居ることの意味を考えた。
人は何かをする時に、そのことの意味を問う。或いは、自己がそこに居ることの意味を、納得のいく理由を求める。人はただ単に生きるだけではなく、生きながら生きることの意味を考えないではいられない。何かをしながら、それをしていることの意味について、考えずには居られない。自分がそこに今居ることの意味を、自分なりに見出せない時には、「ただ生きる」ことさえしんどくなって来る。
「結局、私の存在というものは、私が自分で自分に語って聞かせる物語に過ぎないのね。言ってみれば、その物語を何度も語り直すのが人生なのかしら。自分が最も納得出来る物語を着込みながら、それでも何処かしっくりしない、フィットしないところが有ると感じつつ私は生きるのね」
「そうだよ。だから人間は、自ら吐き出した糸を自分の巣とし生き場所としている蜘蛛のように、自ら紡ぎだした糸の網に引っかかってもがいている存在なんだ」
「あなたって恐ろしく孤独な人ね。そして、決してそれを変えようとはしない。ラグビーはあなたにとっては宗教なのね。私には解らない自分だけの世界が在るのね。そこであなたは一番生き生きと輝いている訳ね」
「人間というのは自分で自分を甦らせる場所をそれぞれ持っているものだ。そしてその中じゃ皆それぞれ独りきりの筈だ。独りきりだからこそそれが出来るのだ。他人がそこに入ろうたって出来るものじゃない。その点じゃ人間は皆独りきりなのだよ」
それきり二人は黙ったまま別々の思いで並木の通りを歩いて帰った。
麗子は、日頃快活な達哉が眉を寄せて睨みつけた残酷なまでの表情に、触れてはならない達哉の冷たい真実に始めて触れた気がした。
達哉が獲ち得たものが何であれ、麗子には彼が自分の手の届かぬ遠いところに離れて行ったように思えた。それは誰にも近づいて取り戻すことが出来ない深くて遠い隔たりだった。
 
 その後間も無くして麗子が達哉の前から姿を消した時、達哉は思ったものである。
他者の理解とは一体何なのだ?と。
他者の理解とは、一つの考えを共有する、或いは、同じ気持になるということではないだろう。むしろ、苦しい問題が発生している将にその場所に共に居合わせて、そこから逃げないということではないのか?果てしなく言葉を交わしながら、同じ気持になるどころか、逆に二人の差異が様々の微細な点で際立って来る。細部において自己との違いを思い知る。それが他者を理解するということであろう。差異を思い知らされつつ、それでも相手をもっと理解しようとその場に居続けること、そこに初めて真実のコミュニケーションが生まれるのであろう。
 しかし、麗子との離別は達哉の心に大きな爪跡を残すことになった。
その夜、冷たい三日月が細く鋭く尖って男の心をえぐる夜に、千切れた男の愛の疼きや穢された男の純情の怒りを、一人ぶっつけて、達哉は、暗い夜更けの街路に、立ち並ぶ高層ビルの谷間に、靴音を響かせて、歩きに歩いた。そして、たどり着いた、肩先で扉を押して入ったいつもの仄暗い酒場で、傷つけられた男の溢れる思いの痛みや踏みにじられた男の誠の憤りを、一人赤い酒に沈めて、無言で、拳を硬く握り締め、達哉は苦いグラスを飲み干した。
たかが一人の女だ。なまじ涙は生命取りだ・・・と。
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