文字数 1,798文字

 途端に、老人の姿が消え、静かだった室内が家を震わすほどの大風と大雨の音でいっぱいになった。布団から抜け出すと、寝る前の畳の間が、板間に変わって、しかも、頭を触ると、髷がついていた。彼が状況を把握しようとしていると、そこに、燭台を持ち、どかどかと、若い男がやってきた。
「与茂七にい、大変だ。川が破れて水が田んぼの中にかかりそうだ。どうしょ」
 祖母から聞いた昔話と同じだ。貫一は、瞬時に自分はご先祖の与茂七様になった夢を見ていると思った。老人の言ったことを信じることはできなかった。
「これはこれは、少し飲み過ぎたかのう」
と口元が緩んだ。
「与茂七にい、暗くて見えんかもしれんが、俺じゃ、茂蔵(しげぞう)じゃ」
 この男は、与茂七の名主仲間で、与茂七を兄とも慕う茂蔵と言う男だろう。言い伝えにも登場する。その男があまりにも動転しているものだから、彼もまじめに、与茂七役をやってみることにした。
「慌てることはない。庄屋様には、相談したのか」
 答えは分かっているが、尋ねた。
「それが、城下に行かれて、今日は戻って来られないそうで……」
 彼は、祖母の昔話の中に自分が紛れ込んだことを確信した。
(名主は、庄屋の指示なしでは動けない。だが、今は緊急の場合だ)
「そうであれば、名主の一人である儂が、村をまとめ、この難儀に取り組まねばならん」
 彼は、与茂七として、茂蔵に言った。
「あに様よろしくお願いします」
 彼は、蓑と笠を身にまとい、大急ぎで外に出た。暴風雨の中、天を仰ぎ、
「夢の中とはいえ、与茂七様の役をやれるとは、果報なことよ。ただ、最後まではやりたくないが……」
と、呟いた。
 川に近づくと、水流は、濁った上に、ごうごうと音を立て、上流から倒木や一抱えもある岩石を運び、堤防が決壊寸前だった。明治になっても、この地域の水害は克服することができず、頻繁に洪水が起こった。特に十年ほど前に村々を襲った歴史に残る大水害は、すさまじく、床下、床上浸水合わせて四万三千戸。内、家屋流水は二万五千戸にのぼった。犠牲者も多く、彼も身内を亡くしている。ましてや、二百年以上遡る与茂七の時代は、堤防が切れたら、もう為す術が無かった。濁流が村を沈め、何十日もひくことがなく、田畑は甚大な被害を被ることになる。
 彼は、再び、与茂七は、どうしたのかと、記憶をたどった。与茂七のことは、代々語り継がれていた。晴れがましい業績とおぞましい結末を。幼い彼は、祖母から、おとぎ話を聞くように、先祖の話を聞いていた。
「わが家と、庄屋と藩所有の木を切って、堤防を補強する。このことは、この緊急事態に、庄屋にも、藩の役人にも連絡が取れないため、儂の責任で行う」
 彼は、昔話を思い出し、村人に指示した。それが、自らの悲劇の始まりであることも承知していた。
 統制のとれた村人の活躍により、堤防の決壊を食い止めることができた。最悪の事態を回避できたことに皆が安堵した。しかし、大雨が収まり、二、三日すると、お役人を連れて庄屋がやってきた。その頃には、老人の言ったことを信じ、彼も先祖の与茂七になりきっていた。
 庄屋は、役人を後ろ盾に、
「やい、与茂七。庄屋の許可なく、よくも屋敷の木を切ってくれたな。それどころか、恐れ多くも、藩の木まで切ったことについて、お前は罪を償わねばならんぞ」
 与茂七を責めた。しかし、与茂七は、堂々と、
「庄屋様。そもそも、お前様が、大雨の大変な時に、村におらず、連絡が取れなかったから、代わりにやるべきことをやったまでのことだ」
「……」
 庄屋は、自分の不在を村人から責められることを恐れ、英雄となった与茂七がじゃまになっていた。庄屋の強い訴えで、与茂七は城下まで引っ立てられていった。
 与茂七は、白洲で、二つのことを強く訴えた。一つは、藩の御用材を無断で伐採したのは、堤防の決壊を防ぐための緊急措置であったこと。もう一つは、その記録はしっかりと残しており、不正の余地のまったくないこと。
 与茂七の中身は、近代明治の代議士、大竹貫一である。弁は立つ。加えて、自らの投獄の経験も役に立った。
「今回の藩の材木の無断使用は、庄屋の指示で行ったものであり、やむを得ないものであった。庄屋も名主たちもよく働いたということで、お咎めなしとする」
 言い伝え通り、藩の判断は、庄屋も与茂七も傷つかないものであった。むしろ、庄屋の顔を立てた審判となったともいえる。
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