獣達の挽歌 Chapter.7

文字数 7,838文字


「ハァァァーーーーッ!」
 地表擦れ擦れの滑空に迫り来る雷鳥!
 その拳は電塊と繰り出され、野人の巨躯(きょく)へと叩き込まれる!
「カハッ!」
 腹筋を(むしば)む鈍さと、脳天までを(つらぬ)く鋭敏!
 拳の重さに乗せた雷撃の飽食が総ての感覚を殺し、白の鞭打ちを全身痛覚へと刻みつける!
 刹那の拷問を(こら)えると、トレイシーはギロリと眼下の小娘へと狙いを定めた!
 腹部へと潜り込んだラリィガは、攻撃の余韻(よいん)に埋もれたまま──まだ間合い!
 頭上に振り上げた両手を、筋肉の(つち)と組み固める!
「くたばれーーーーッ!」
 振り下ろされるハンドハンマー!
 隆々たる巨腕が生み出す破壊力は絶大!
 足下のタイル床は粉砕の隆起に石礫(いしつぶて)飛沫(しぶき)と噴き、無秩序のミニチュアへと姿を変える!
「いない?」
 瞬時に悟る違和感!
 標的(ラリィガ)の翼は、(すで)そこ(・・)にはいない!
「チィ! またか!」
 先刻から翻弄(ほんろう)(まど)わす機動力(きどうりょく)──地上に()いては〈獣精(コヨーテ)〉の俊敏さに離脱し、距離を置けば〈雷鳥(サンダーバード)〉の翼にて飛翔する。この二面性は、攻撃に転じても厄介であった。
「やりにくいんだよなぁ……」
 声の出所を追えば、雷鳥獣姫は柱の上部へと(かしこ)まっていた。
 まるで柱の側面を大地のように踏み締めていられるのは〈獣精(コヨーテ)〉の獣化によって足爪を引っ掻けているからであろうか……(ある)いは〈雷鳥(サンダーバード)〉の()せる技であろうか。
「よっ……と!」
 慣れたものとばかりに飛び降りるラリィガ。
「この部屋……だだっ広い方なんだろうけど、飛ぶ(・・)には狭すぎるんだよね」
 気負わぬ肩揉みに愚痴(グチ)る。
 先の戦闘に()ける劣勢が嘘であったかのように、ダコタの小娘からは自信しか伝わってこない。
 いや、それはその通りなのだろう。
 事実〈二重憑霊(ニーシュ・マニトゥーワク)〉とかいう現形態になってから、苦戦を()いられているのはトレイシーの方なのだから。
「……小娘が!」
 野人の原始が忌々(いまいま)しさに()()ける。
 その暴力的視線にも臆せず、ラリィガは涼しい態度で(たず)ねた。
「に、しても……なかなか、たいした〈変身〉だよな。アタシの現形態を相手取って無事でいられたヤツなんて、これまでいない……必ず敵を仕止める〝必殺の姿〟だ。にも(かか)わらず、雷撃も拳撃も喰らっていながら(こた)えていない。どれだけ肉体を強靭化(きょうじんか)できたんだ?」
「そうでもない……ダメージは、しっかりと喰らっている。ただ〝肉体強化〟が、並の〈怪物〉を上回っているだけだ。それも当然──この魔薬〈スティーヴンソンの涙〉は、元来『闇暦の〈怪物〉共を駆逐するべく作られた』のだからな」
「うん? じゃあ、何で〈牙爪獣群(ユニヴァルグ)〉に居座ってんだ?」
「クックックッ……作られた(・・・・)からと言って、馬鹿正直に準ずる必要もないだろう」
「ふぅん? 要するに『(ちから)に溺れた』って?」
(ちから)は使う(ため)に有る!」
「だよな」軽いストレッチに上半身をほぐす。「けど……使い方(・・・)を間違ってるよ、アンタ」
「……何?」
 そして、ラリィガは毅然(きぜん)とした瞳で正視し、迷い無く断言するのであった。
「冴子の方が、よっぽど正しい(・・・)
「ふざけるな! あのような小娘(ごと)きが! 所詮(しょせん)は自己満足な偽善! 『正義の味方ごっこ』だ!」
「正義の味方……ねぇ?」と、軽くしらける。「アイツは、そんな上等なモンじゃないよ。いつも自分本意だし、無計画無鉄砲だし、ヘラヘラとチャラけたごまかしで心を開かないし、平気で他人を利用するし……アタシなんか何回利用されたか……ああ、もう! 思い出したら腹立ってきた!」
「何を言っている?」
「けどさ、アイツは未来(・・)(まも)ろうとしている……(まも)りたくて仕方ないんだよ、きっと」
「だから、()を言っている!」
「アイツは〈正義の味方〉なんかじゃない……どこまでいっても〝人間(・・)〟なんだよ」
「人間……だと?」要領を得ない主張に呆気(あっけ)としたものの、ややあってトレイシーは吹き笑っていた。「プッ……クックックッ……これは滑稽(こっけい)道化話(どうけばなし)だ。闇暦(あんれき)の都市伝説──冷酷非情な怪物抹殺者(モンスタースレイヤー)──その〝夜神冴子〟の着地点が、たかが〝人間〟止まりだとはな!」
「何か、おかしいか?」
「あれだけの悪名と実績……改心に望めば、受け入れる勢力(ところ)数多(あまた)あるだろうに? 例えば、この〈牙爪獣群(ユニヴァルグ)〉とかな? いや、無理か? アイツ(・・・)は〈変身(・・)〉出来んからな。そう考えれば、俺はラッキーだったよ……グフフフ」
「望まないよ、アイツは」
「社会的弱者を見捨てられない……か? 結局は〝女〟特有の浅はかな情か? 慈愛とか言う? クフフフフフ……アーハッハッハッ!」
「ま、捨てちまった(・・・・・・)アンタには分からないか」
「ッ!」

 ──この〈魔法薬〉が完成すれば、人々を救える事ができる……この〈闇暦(あんれき)〉で苦しむ人々を。

 黙れ! 愚かなる師よ!
 これだけの〈(ちから)〉を、不毛に腐らせて何とする!
 俺の生き様こそが正しい!
 俺が正しいのだ(・・・・・・・)

「少なくともアタシは信じてる……冴子の真っ直ぐさな性根も……(ひねく)れた根性も……もがき苦しむ弱さも……どうしようもないぐらいに、アイツは〝人間(・・)〟だ! (くつがえ)そうと足掻(あが)く強さもな!」
 力強(ちからづよ)い気高さを活力と変え、ラリィガは低姿勢に腰を落とした!
 脇腹へと握り固めた拳が、雷撃の種火を生み始める!
過去(・・)が見えぬか! 歴史の立証(・・・・・)を!」
 憤怒とも拒絶とも取れる気迫を(たぎ)らせる巨体野人!
強化侵食(ハイドブースト)!」
 憤怒の(ごと)き叫びを決意の宣誓として、(おの)が首筋に〈スティーブンソンの涙〉を注射する!
 二本!
「な……何ィ?」
 ラリィガの動揺も余所(よそ)に、巨躯(きょく)(さら)(ふく)れ上がる!
 隆起する筋肉は密度を軋ませ、骨はそれに抗おうと強度を増していく!
「ガァァァアアアアアッ!」
 怒髪天(どはつてん)の威嚇が、周囲一帯の気流を乱し荒らす!
 奥の手!
 禁断の秘策!
 魔薬に含まれる興奮物質と筋肉増強成分を過剰摂取し、一過的に肉体強化効果を極限まで上げた!
 体内流動に荒れ狂う衝動は、(まさ)に〝魔薬の侵食〟である!
 (いな)〝破壊衝動の侵食〟である!
「光栄に思え、ダコタの小娘! 理論上は煮詰めていたが、実践(・・)は貴様が初めてだ!」
「最後の手段……って? 大丈夫か? そんな無理して?」
()が師の基礎理論は〝アドレナリンの過剰分泌こそが潜在筋力のリミッターを解除する〟というものだった。では、その〈アドレナリン〉を過剰分泌させるものは何だ? 答は〈悪徳(ヴァイス)〉だ! 欲望への従順と高揚こそが〈アドレナリン〉を過剰に分泌させる!」
「難しい事は、アタシにゃ(わか)んないよ……ただ、要は溺れた(・・・)んだろ?」
「グフフフ……クソの役にも立たぬ倫理概念など()らぬ! 委ねようぞ! 悪心に!」
「ま、どっちでもいいさ」
 深い()()けに物怖じもせず、ラリィガは自然体だ。
 そして、静かな臨戦態勢が構えあう。
 どちらともなく両者は覚悟を定めていた──次の一撃でケリをつける(・・・・・・・・・・・)と!
アタシ達(・・・・)が見据えているのは、未来(・・)だァァァーーーーーッ!」
「ほざくなぁぁぁーーーーッ! 旧暦の亡霊がァァァーーーーッ!」
 白光の翼姿(よくし)が滑り飛ぶ!
 筋肉の巨塊が跳躍に地表を蹴り砕く!
 (よりどころ)と背負う対極が雌雄を(のぞ)む!
 そして、染める白が決着を呑んだ……。



「先生、食事を御持ちしました」
 盆膳(ぼんぜん)を運んだトレイシーが呼び掛けるも、樫戸(かしど)の向こうから反応は返ってこない。
 居ないはずがない。
 この偏執狂の化学者は、(みずか)ら屋外へ出向く事など無い。こちらが健康を気遣って引っ張り出さない限りは、部屋へ引きこもったままの研究三昧なのだから。
 だから、居る(・・)
 大方、また研究へと集中し過ぎて、周囲への視野が遮蔽されているだけだ。
 諦めの()(いき)を吐いたトレイシーは「開けますよ」と軽い断りに扉を開く。
 そこは雑多な書物が支柱と積まれる書斎であった。ただでさえ狭い個室は、文字通り足の踏み場も無い乱雑さを露呈(ろてい)している。
 それでも知識の混沌を乱さぬように気を張り詰め、嵩張(かさば)る樹林を身を(よじ)りつつ(ひら)き進んだ。
 はたして奥に据えられた机には、筆記と黙考に(いそ)しむ背中が見える。
「おそらく()は〈アドレナリン〉なんだ……それが正常な判断力を阻害して、筋力のリミッター意識を盲目にし……その分泌量……いや、(ある)いは自発的にコントロールする術か──人間の平均的筋肉量から計算するに、それを〈怪物〉の平均値と比較すれば────」
 師の背中は、脳内設計図を(くち)に出していた。
 弟子の存在には気付きもしていない。

 トレイシーの師匠〝フレデリック・スティーブンソン〟は、無名の化学者であった。
 そう、無名──。
 さりながら、非凡────。
 なればこそ、トレイシーも崇敬に従事する。
 その才は、錬金術師による勢力組織〈薔薇十字団(ローゼンクロイツ)〉から再三の勧誘があった事でも明らかだ──たかだか時代錯誤な〈錬金術師〉風情が〈近代化学者〉を呑み込もうなどとは片腹痛いが。
 奴等の目的は、どうせ現研究(・・・)だ。
 だから、流浪が始まる。
 (みずか)らの研究に没頭すべく。
 イギリス──ドイツ──ロシア──エジプト──海を渡り、アメリカ大陸まで渡った。
 うまく消息を揉み消せたのか、以後〈薔薇十字団(ローゼンクロイツ)〉からの接触は無い。
 好転だ。
 この偉業たる研究ノウハウは、何人(なんぴと)であろうとも知られたくはない。
 下手に錬金組織に取り入れられれば、目敏(めざと)く功績を横取りされていたかもしれない。
 (いな)、最悪、命すら奪われていたかもしれないだろう。
 だから、好都合だ。
 ()くして、此処カナダへと流れ着いた現状となる。
 矮小な〈怪物〉による徒党が、我が物顔で蹂躙していた。
 それが日々小競り合いに凌ぎを削る。
 どうでもいい環境騒音だ。
 研究に没頭できれば、それでいい。
 この研究を逸早く完成させる事さえできれば(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)
(非凡の才でありながらも名声を欲せず隠匿(いんとく)に徹し、ひたすらに研究へと没頭する熱意……たいした人だ)
 心底尊敬に値するストイックさであった。
(そして現研究が完成すれば、もしかしたら〈闇暦(あんれき)〉の構図すら変わるやもしれない……絶対的だったパワーバランスすら)
 本当に凄まじい偉業である。
 人類史が三度(みたび)(くつがえ)される(ほど)の偉業である。
 仕えてきた歳月が誇らしい。
(そう、この〈魔法薬〉が完成すれば……)
 (にじ)()き出る黒──。
 心中に泥濘(でいねい)し始める黒──。
 無自覚な想いに呑まれそうになり、トレイシーは自戒めいて現実へと戻った。
 乱れる心情を鎮静化させるべく、窓の外に描かれた常闇の情景へと視線を逃す。
 黒月(こくげつ)と目が合った。
 闇暦(あんれき)とかいう異常世界になって久しい。
 悪徳が正義と化す現世魔界だ。


 稲光が惨劇の事後を浮かび上がらせる!
 絶命の形相に横たわるは、(おの)が師匠フレデリック!
 その(かたわ)らに(たたず)巨躯(きょく)の野人は、件の〈魔法薬〉によって変貌した愛弟子トレイシー自身であった!
 その重暗い表情に刻まれるのは、はたして達成感か懺悔か……。

 完成した研究成果を歓喜するフレデリックは、耳を疑う発言をした。
「いいかい、トレイシー? 私は、この〈魔法薬〉を〈薔薇十字団(ローゼンクロイツ)〉などに譲渡する気は無い! 無論、その他の勢力にもね! 彼等に受け渡したところで、私欲の(ため)に量産する事は目に見えている──何たって〝不死身の軍隊〟を形成できるのだからね。私は、この〈魔法薬〉を(もっ)て〝人々の希望〟を生み出す! そう、闇暦(あんれき)の暴君と乱立した〈怪物〉達に一矢(いっし)(むく)いる戦士を! 絶望の人生へと(しいた)げられた人々にとって(あけぼの)となるような──『嗚呼、此処に正義の剣は()るのだ』と思えるような──象徴存在(シンボリック)を送り出すのさ!」
「何を言ってるんです! 先生! たった一人(ひとり)の特異存在で、この闇暦(あんれき)世界の社会構図が引っくり返せるとでも? 現実的じゃない! それを()すには()ですよ! さっさと〈薔薇十字団(ローゼンクロイツ)〉辺りに手土産(てみやげ)として増産するべきなんです! 先生の待遇だって、決して悪いものじゃないでしょう! 重鎮幹部だって夢じゃない!」
「幹部……ねぇ? 別段、興味は無いよ。それに、(きみ)の言う通りさ。たった一人で社会構図なんて引っくり返せやしない……それが現実(・・)というものだ」
「だったら!」
「花売り……」
「え?」
「全世界の人類よりも〝路傍(ろぼう)の花売り〟なんだよ……(わたし)が守りたいものは」そう告げて虚空へと投げる遠い目は、()れど理路整然を帯びた理念を(ふく)んでいた。「そして、それは伝播(でんぱ)していく……螢火(ほたるび)も積もれば輝きを増し、道標(どうひょう)を照らすだろうさ」
 愚かしい。
 実に愚かしい。
 これだけの成果を(もっ)てして『正義の味方ごっこ』か?
 幼稚!
 幼稚幼稚幼稚幼稚!
 何という幼稚な夢想!
 宝の持ち腐れだ!
「残す問題は〝被験者〟だな。ある程度の臨床実験は、私自身で済ませてある……が、完成薬は初めてだ。それに、いざ目的(・・)を考えると、やはり身体的に若く、尚且(なおか)つ運動能力に長けた者がいい……私のようなインドア老害よりもね」
「……私が、やります」
「トレイシー?」
「私が新薬の被験体になります」
「本気で言っているのか? いやいや、待ちたまえ? 私は別に(きみ)へと催促したワケじゃない。この新薬は未知数だ。私自身で臨床実験結果を得てはいるが、それは段階的な軽度のもの……完成薬では、その何倍もの数値データが動く。如何(いか)なる予想外(イレギュラー)が起こるか(わか)らない。とても危険な賭け(・・)ではあるんだ」
「この成果(・・)が立証されるなら、我が身の犠牲も厭みません(・・・・・・・・・・・・)
「し……しかし?」
「大丈夫、長年付き添った先生を信じていますよ」
「ああ、(きみ)という男は……有難う! 当然、(きみ)に実害や後遺症が及ばぬよう尽力する!」
「ええ、御願いしますよ……先生(・・)?」
 歓喜任せに両手を握り締める間、フレデリックは気付くべきであったのだ──愛弟子の瞳が深い闇に魅入られていた事に。


(ちから)は使うためにあるのだ……(おのれ)の欲求のままに」
 野人の低い吐露(とろ)
 屍は凝視に(こた)えない。
 怪力の前には(もろ)い首であった。
「そうだ〈(ちから)〉だ! (ちから)(ちから)(ちから)! (ちから)こそが、闇暦(あんれき)の絶対的正義! この魔法薬が有れば、もう〈怪物〉共に恐々とする日々は無い! (いな)(むし)支配する(・・・・)のだ! この()が! あの〈怪物(・・)〉共を! その下に組伏せられた人間共も、当然、()の奴隷だ! 嗚呼、そうだ……()支配者(・・・)だ! 支配する側(・・・・・)だ! もう〝あの日〟には戻らぬ! 家族を〈怪物〉に殺された日には! これからは、()生殺与奪(せいさつよだつ)選べる側(・・・・)なのだ! 〈怪物〉も! 〝人間(ひと)〟も! 好きに!」
 一頻(ひとしき)りの興奮を自覚に鎮めると、巨体は卓上の研究書を持ち去るべくのそりと動いた。
 軽く目を通す。
「コレさえあれば、俺でも増産は可能だな」
 伊達に〝弟子〟に従事していたワケではない。
 ふと名称に目を通した。
「フン、何が〈スティーブンソンの涙〉だ……女々しき名よ」
 何を嘆く必要があるというのだ?
 これだけの〈(ちから)〉を創造しておきながら?
「さらばだ、師よ……貴方(あなた)が心血を注いだ〈魔薬〉は、本来()るべき意義へと還る」
 (きびす)を返す岩壁の背は、これから背負う(ごう)に悲しみを噛んでいるようにも映るのであった……見送る死人の瞳孔には。
 いずれにせよ、数分後には(ほむら)(すべ)てを()()した……。

 またも流転が始まる。
 だがしかし、今度は怯え逃げ惑う日々には無い。
 思うがままに略奪し、思うがままに踏みにじり、そして殺した。
 平等だ。
 そこに〈怪物〉だの〝人間〟だのという選定は無い。
 総てが等しく〝暴力の(にえ)〟であった。
 各地の勢力に(にら)み追われれば、満足な(あざけ)りに次なる地へと逃走する。
 (ちから)は思うがままの利己を授けた。
 嗚呼、これぞ在るべき姿(・・・・・)

 やがてニューヨークは〈ブロンクス〉へと流れ着く。
 そこは〈ベート〉なる未知が、支配体制の胎動をしていた。
 その支配下に在る大獣群が、()が身の駆除討伐と押し寄せる。
 抗うも孤軍は無様に敗れた。
 さすがに死を覚悟した。
 さりながら彼の稀少性は、どうやら〈ベート〉の眼鏡に叶ったようである。
 そして〈ブロンクス領主〉として歓迎された。




 徐々に意識が戻ってきた。
「……私は……負けたのか?」
 なけなしの気力を零すトレイシー。
 大の字に床へと転がっていた。
 巨躯(きょく)()からび、憔悴(しょうすい)が活力を枯渇(こかつ)させている。
 その満身創痍(まんしんそうい)が、変身前よりもみすぼらしい印象を演出していた。
「フ……フフ……無様だな」
「でもないさ」気さくな態度のラリィガが、彼の横へと腰を下ろす。「アンタは強かった」
 間食の天日干し肉(ワカンブラピ)を分けてやった。
「……慰めはいい」
「でも、独り(・・)だった」
(ひと)り?」
「アタシには〈シュンカマニトゥ〉や〈ワキンヤン〉がいた。そして、何よりも〝冴子〟がいる」
「俺は……(ひと)り?」
 嗚呼、俺は()をしていたのだ?
 たった(ひと)りの愚かさを師へと説教しながら、自身の〈(ちから)〉に過信と溺れて……。
「ダコタの小娘、ひとつ教えてくれ……アイツは……夜神冴子は、何の(ため)に戦っている?」
「さあ? アタシにも判らない。根には深い(うら)(つら)みを敷いているみたいだけど、それ(・・)()なのかはアタシも知らない」
「そうか……」
「ただ、ひとつだけ確実なのは……アイツは〝目の前の人間〟を放っておけない」
「目の前の……人間?」
「言ったろ? アイツは〈正義の味方〉なんかじゃない。人類がどうたら以前に〝目の前の人間〟なんだよ、アイツは」
 師の掲げた理想が、不意に脳内でリフレインした。
(そうか……あの女は……夜神冴子は…………)
 かつて唾棄(だき)した象徴。
 蔑笑(べっしょう)に切り捨てた理想像。
 そして、師が切望していた存在。
 人生を傾けて創造しようとしていた運命の開拓者。
(同じではないか……師が思い描いた姿と)
 本来ならば、この〈魔薬〉を(もっ)てして、(おのれ)自身が歩むべきだった宿命。
 さりながら、自分が依存したのは〝悪心〟であった。
 私欲であった。
 その尊厳とは程遠い。
路傍(ろぼう)の花売り……か」
「何だ? それ?」
「いいや、何でもない」
 渇いた自嘲が(こぼ)れた。
 それが断裁となったか、(とめ)めどなく涙が(あふ)れだす。
(嗚呼、それに引き換え……俺は()をしてきた? これだけの〈(ちから)〉を得ながら、俺は()をして生きてきた? どれほどの〈悪徳(ヴァイス)〉に溺れた? どれほどの〈暴力〉に()()れた? そして……どれだけの〈()〉を奪った? 本来守るべき〝弱者の生〟を……)
 歯牙にも掛けていなかった記憶が、脳の底から克明と浮かび映る。
 老人を捻り殺した──渾身に子供を叩き棄てた──淀む欲望のままに女を襲った──果敢に刃を向ける男達は豪腕で裂き殺した────。
 返り血──鮮血──嗚咽(おえつ)──号泣────。
 彩られる黒き赤────。
 呪怨であった。
 叱責であった。
 弾劾であった。
 もう一人(ひとり)の〝自分〟からの……。
 だから、いつしかトレイシーは泣きじゃくっていた……親に叱られた子供の(ごと)く。
「オ……オイ?」
 唐突な急転に困惑するラリィガを余所に、ひたすら懺悔(ざんげ)の念が吐露(とろ)される──「ごめんなさい……先生、ごめんなさい……(ボク)が間違っていました……ごめんなさい……」と。
 〈呵責衰弱(ジーキル・フィードバック)〉──強烈な欲求主導に抑圧鬱積(よくあつうっせき)した〈良心〉が、反動のままに一挙表層化する〈魔薬〉の副作用症状。
 それが過剰摂取の代償として現れた。
 (むしば)む罪悪感は常人には()(がた)い黒き激流であり、身体の枯渇とばかりに生気が色褪(いろあ)せる。
 こうした事後展開を見越したからこそ、師・フレデリックは名付けたのである──〈スティーブンソンの涙〉と。
 開発者としての贖罪(しょくざい)表現(ひょうげん)であった。
 残酷な運命を()いられる被験者への……。
 そして、次第に愁訴(しゅうそ)が抑揚を鎮めていく。
 泣き疲れて眠るかのように……。
 トレイシーの心臓は、免罪に鼓動を()めた。
 亡骸(なきがら)へと淡い憐憫(れんびん)を注ぎ、ラリィガは手向(たむ)ける。
「泣く事を恐れるな。心が解き放たれ、悲しみから自由になれる──か」
 ホピ族の言葉であった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

名前:夜神冴子

(Yogami Saeko )


性格:

フランクで楽観的な表層に反して、内面は堅物なまでに使命感が強い激情家。

また、他人の心の痛みを汲める繊細さを併せ持つ。

長年〈モンスタースレイヤー:怪物抹殺者〉として培った性格は、時として非情で達観的な面を見せる。


特徴:

あらゆる通常弾丸を発砲瞬間にて疑似銀弾へと変質させる錬金術の秘密武器〈白銀銃ルナコート〉を所有。

この銃と自身の使命から〈モンスタースレイヤー〉の悪名を以て〈怪物〉達から忌避されている人間。

また、そもそも旧暦時代には〈戌守神社〉の家系であった事から、祭神たる犬神〈戌守:いぬもり〉の守護を受け、時としてパートナーの如く使役できる。

名前:ラリィガ

(RALEAGA)


性格:

良く言えば裏表が無く、悪く言えば恣意的で単純。

常に明るく前向きながらも好奇心旺盛。

一方で芯たる正義感は人一倍強くて揺らぐ事を知らない。


特徴:

闇暦世界に於いて〈インディアン〉の忘れ形見とされている少女であり、諸々雑多な部族の概念や風習は彼女に集約継承された。

旧暦に於ける『白人とインディアンの確執』は不快に思いながらも、かといって〝白人〟を無差別敵視に据える事は無い。彼女が忌むべきは〈悪〉であり、その前に於いて〝人種〟による線引きはしない性格である。

インディアンに伝わる精霊崇拝概念〈アニミズム〉たる〈トーテム:守護精霊〉を憑依させる事によって獣化変身を発現する。

名前:

 シスター・ジュリザ

 (SisterJULIZA)


性格:

 極度の博愛主義者であり、それは強い母性とも言える。

 内向消極的な性格ではあるが、その実、芯は頑固とも意固地とも呼べるほどに意思力が強い。


特徴:

 闇暦にて新興した異端宗教〈モロゥズ教〉の教会に従事しているシスター。

 この教会は孤児院の性質も同胞しているおり、彼女自身も此処の出身の為、子供達には惜しみない慈しみを捧げている。また、それ故に子供達からも姉の如く慕われている。

 同時に、女司教〈マザー・フローレンス〉は彼女にとって上司であると同時に母であり姉のような存在であり、その依存心酔感は無自覚ながらも絶大なものとなっている。


 闇暦二十九年、孤児院内にて子供達が捕食惨殺される痛ましい怪事件『人狼獣害』を愁い、闇暦の都市伝説と化している〈怪物抹殺者:モンスタースレイヤー〉へと依頼──これが〝夜神冴子〟との邂逅経緯となる。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み