外界を染める夜闇から
黒月が
覗く。
これから起きる悲劇を
享楽に
味わわんと……。
石造りの部屋であった。
その面積は、教会内の人数が入れば限界ではある。
もはや立ち入る者など存在しないが……。
埃塗れの室内は
帷の
如き暗闇に呑まれ、連なる天窓から
射す月光が淡い光源であった。
石床へと雑多に積まれた荷物の中身は、毛布や衣類といった日用品。簡易的な調理道具や防寒具も
有る。
奥に据えられた簡素な木棚にもダンボール箱が陳列されている。中身は非常食だ。とはいえ、
闇暦に
於いて既製品は入手しづらい。
全て自家製である。
そんな
一室に、罪人は隠れていた。
償えぬ黒い重圧に、
嗚咽を
零して……。
「ぅぅ……ぅぅぅ……どう……して……こんな…………」
シスタージュリザは、ひたすらに泣き濡れた。
青い瞳から大粒の涙が落ちる。
麗しい美貌を自責の糾弾に
歪め、
垂れる
金糸は罪悪の
羞恥を隠すベールの
如く……。
「何で……あの子達を……私は…………」
血肉の味──吐きたくても吐けなかった。
卑しい
本能が拒否した。
その理不尽な苦痛は
如何程か……。
おぞましかった。
憎かった。
哀しかった。
悔しかった。
情けなかった。
その内に潜む〈獣〉が……。
「な~るへそ、隠し部屋が
在ったか?」
「ッ!」
慄然と振り向く!
聞き慣れた声へと!
「冴……子?」
「はぁ~い★」
驚愕の瞳孔に映り込む揚々。
扉の前に立つ処刑人は、ヒラヒラと
掌を振る。
その
弛緩した笑顔は、普段と何ら変わらない。
処刑直前の対面だというのに……。
さりとも自然体のおおらかさは、
闇暦の地に降り立った〈太陽〉にも思えた。
罪人の自分には優しすぎる。
「マザーの部屋に
在る柱時計……まさか、それが隠し通路になっていたなんてね」
「殺しに……来てくれたのですか?」
「……うん」
憐憫を染めた〈
怪物抹殺者〉の
愁いに、ジュリザは感謝を
微笑んだ。
頬を伝う雫を拭う事も無く……。
「……ありがとう」
嗚呼、慈悲を
授けられる。
殺してもらえるという慈悲を……。
「……
いつ知った?」
一転して引き締まった抑揚が、
尋問を投げ掛ける。
「先日〈
牙爪獣群〉の人質とされていた時に……」
「ヤツラから教えられた?」
「……はい」
「此処で覚醒した時には?」
「自覚は、ありませんでした」
「私に依頼した時にも?」
「はい」
「……そっか」
気まずい間を持て余すかのように、夜神冴子は銀銃の具合を再チェックした。
もうじき使う。
「あと
二つ、
訊いてもいいかな?」
「はい」
「この部屋は、
何?」
「避難部屋ですよ。
万ヶ
一〈
牙爪獣群〉等の強襲を受けた際に、子供達を
匿えるように……」
「ふぅん?」
軽い
相槌を置いて、周囲を見渡す。
「
掃除は下手みたいね」
「掃除は何年もしていません。着手途中で放置されたままでしたから」
「そ」
ジュリザの説明を流しつつ、冴子は胸中に確信を噛んでいた。
違う。
此処は避難部屋などではない。
晩餐室だ。
周期的な飢餓感に
於いて、誰にも気付かれず
貪る
為の……。
縦しんば、教会の子供でなくても
好い。
適当に
拐った
贄で
好い。
そうして、
ヤツは欲望を満たしてきた。
そうして、
ヤツは獣性を
抑制してきた。
荒れ猛る衝動を……。
事実、
此処は使われている。
縁や
目地へと
微かにこびりついた黒いシミが物語っている。
アレは血痕だ。
「もうひとついい?」
「はい」
「〈ベート〉は、何処?」
乾いた苦笑に、
愁いが首を横に振る。
嘘ではないだろう。
彼女を知っている。
良心の前に
於いて、嘘はつかない。
憐れなほどに愚直過ぎる。
「私からも、ひとついいですか?」
ジュリザからの
訊い
掛けであった。
「……あの子達は、やはり私を
怨んでいるのでしょうか」
「知んない」
興味皆無とばかりに弾数を確認して、
装填弾層を再セットする。
「……だけど、ひとつだけ分かった事もある」
「…………」
「あの子は……アニス達は〈
獣〉を激しく憎んでいる」
「そう……ですか」
当然だ。
憎まれて当然。
怨まれて当然。
無自覚だったとはいえ、自分は偽善の大罪人。
それを
今更、
思慕へ逃避しようなどと……
免罪符を得ようなどと……虫が良過ぎる。
噛み締める罪悪感。
そんな自責へ、変わらぬ抑揚が続ける。
「だけど、
アンタの事は慕っている……母のように」
「……え?」
夜神冴子は、そう感受していた。
明言されたワケではないが……。
あの〈獣〉を
討って……敵を取って──と。
そして、
ジュリザを救って──と。
はたして、それは〈巫女〉としての素質に
依るものであろうか。
それとも、利己的な自己弁護が作り出した幻聴であろうか。
どちらでもいい。
為すべき事は変わらない。
「ジュリザ、ひとつ謝っておく」
「……何でしょう」
「私は、
戻す方法を知らない」
「……はい」
死刑執行を前に麗女が
辞世としたのは、
儚くも優しい
微笑みであった。
覚悟は
定まっている。
せめて〝人間〟の内に死ねるのなら──
彼女に裁かれるのであれば──
これほど温情的な刑罰は無い。
「……さよなら」
簡潔に告げて〈
怪物抹殺者〉は
銃口を定めた。
呪われし聖女の左胸へと……。
(ありがとう……)
受け入れた表情は静かに
瞼を
綴じ、虚空を仰いだ。
執行の数秒──ドクン──鼓動!
ジュリザの内に
胎動を刻み始める邪心!
死にたい──
──死なぬ!
もう充分──
──まだ足りぬ!
私は罪人──
──
我こそは真理!
私は──
我は──
──
喰らう側だ!
呑まれた!
狡猾なる潜在意思は、砂粒程度の〝弱さ〟を
糸口と利用した!
生きる者ならば万人が持ち合わせる「死にたくない」という深層意識を!
「か……ぁぁァァァアアーーーーッ!」
美しき肢体が醜い獣毛に覆われ始める!
しなやかな女体は筋肉を増し、繊細な骨は
強靭な支柱と育った!
「ジュリザ!」
悲痛な想いを叫び、冴子は白き閃花を轟かせる!
獣化はさせない!
未完了な段階で
射止める!
が──「跳んだ?」──
避わされた!
まさかの対応であった!
自らの獣化途中で跳躍するなど!
基本的に〈獣人〉が変身中に即興対応する事は無い!
こんな大胆な奇策は初めて体験する!
「
並じゃないって事か!」
続け様の発砲!
獣の爪は天井隅を足場と噛んでいる!
またも跳躍!
今度は
冴子を目掛けて!
「クッ?」
寸でに右へと
逸れて、軌道から
外れる!
鋭い爪が裂く空気流動を左頬に体感した!
「
洒落にならないっつーの!」
連鎖的に左肩が
疼く!
トラウマに再発する
傷み!
獣弾は、そのまま荷物の
雪崩へと呑まれた!
すかさず銀銃を向け構える冴子!
一息の間すら無く、咆哮が姿を
現す!
「ゥオオオォォォーーーーン!」
狩りの邪魔と
云わんばかりに切り裂かれる毛布!
その
端切れが、祝福喚声の
如く舞い降った!
獣化は……完了していた!
いつの間にか教会前へと構える武装集団。
爆弾処理服に防弾ジャケット、肩にはライフル銃を携える。科学感をディティールとしたフルフェイスは、おそらく多機能的な役割を果たすのであろう。
見るからに〈特殊部隊〉である事は明白であった。
それが二〇人前後集っている。
やがて部隊長と思われる者が整列陣形の前へと進み出た。
毅然たる
口調が、作戦指揮を誇示する。
「いいか! 情報によれば〈
怪物抹殺者〉は、この施設内へと潜伏している。
目標は、
未だ我々の動向を察知してはいない。速やかに発見し、連絡を取れ。連携にて確実に仕止める。尚、やむなく発見された場合は、発砲
及び交戦を許可する。これは、
我々〈
牙爪獣群〉の
沽券に関わる
一戦だ。ヤツの遺体を
以て、
失墜しかけた威厳を──ぐわぁ!」
予想外の奇襲に殴り飛ばされた!
不敵な襲撃者は、臆する事も無く自然体に警告する。
「あんま無粋な
真似すんなよなぁ? いま、アイツは
決着に向かい合ってんだよ……
自分自身と」
「キ……キサマは!」
風にそよぐ
揉み
上げの黒房。
鹿革のジャケットから露出を
覗かせる褐色の肢体。
アメリカン・インディアンの娘〝ラリィガ〟であった!
「ホントはさ、
アタシの方が加勢したいんだよ……アンタ等なんかよりも。だけど、我慢してる。この
決着だけは、
アイツ自身で決めなきゃいけない……〈
怪物抹殺者〉として。だから、誰も邪魔しちゃならないんだ……アタシも……オマエ達も」
一斉に構えられるライフル銃!
「撃て! ヤツも指定ターゲットだ!」
「
我に繋がる総てのものよ!」
憑霊!
頭上を〈
雷鳥〉の獣精が舞飛び、霊翼が雷撃の猛雨を降らせる!
その無差別攻撃に銃撃が
足踏む隙に、少女の身体へと〈シュンカマニトゥ〉が駆け込んだ!
完了する獣化!
「
一匹足りとも、
冴子には近付けさせない。
生憎、
露払いは慣れてるんでな」
人狼──
否〈
金狼〉であった!
二足歩行に直立する
金色の狼!
それが〝ジュリザ〟と呼ばれし者の本性!
「ウォォォーーーーン!」
煌めく獣毛をサワ立たせる遠吠えは、神々しくさえ映るも哀しい。
同時に冴子は
覚るのだ……。
「……もう
伝わらないんでしょうね」
眼前の獣へと注ぐ
憐憫。
野性へと染まった姿からは、人間的な知性は感じられない。
或いは、ジュリザ自身が〈現実〉を拒絶した。
自ら、自身を
殺した。
冴子の想いを切り刻む悲嘆。
すぐに封殺したが……。
「これ以上は
奪わせない!」
発砲!
またも横跳びに回避する金獣!
しかし〈
怪物抹殺者〉とて無駄弾を消費したワケではない!
「ギャウ!」
獣の右肩から
血飛沫が噴いた!
「
跳弾──アンタ自身が
避けようと、背後の壁を利用した跳ね返りで
一手先を撃つ。ま、後は先読みの化かし合いよね」
「グルル……」
忌々しさのままに
睨み
据える
獣瞳。
「だけど、アンタの不利には違いない。
避ければ何処から来るか判らない跳弾、正面からの正攻法では格好の
的」
「グオオオーーッ!」
憤怒に
溺れて特攻して来る!
間髪入れずに左腿を撃ち抜いた!
「ギャフ!」
「間合いは詰めさせない」
非情な声音による宣言。
が、この魔獣は知恵がある。
戦況を分析して考察する知能が……。
ジリジリと
後退る獣。
処刑具を警戒しながら、ゆっくりと距離を開いた。
数歩……数歩と、にじり足が
擦る。
そして、
目的へと辿り着いた!
背後の木棚から
鷲掴みに
投擲するは、非常食と備蓄された太缶!
それを次々と投げつけた!
「
悪足掻きを!」
迎撃に
総て
射抜く!
が、それは、らしからぬ失態であった!
中空で破裂した缶は、
濛々たる白煙を拡散した!
「粉ミルク?」
甘い煙幕が視界を殺す!
次の瞬間には殺気が急接近した!
「こ……ンの!」
鋭敏に察知した〈
怪物抹殺者〉は、
咄嗟に後方跳躍!
間合いを
保たんと
試みる!
しかし、敵の
小賢しさは、冴子を
上回っていた!
「毛布? うわっと!」
着地と同時に足を取られ、無様に引っくり返る!
足首を引っ掛ける障害物をも計算に入れていた!
自ら
強いた好機を逃すはずも無い!
すぐさま襲い来る餓狼!
「
狭いのよ! この部屋!」
癇癪の毒に、銀を鳴かせる!
埋もれたままの即行では、さすがに捕捉が甘い!
微々たる体勢推移に
避わしつつ、金狼は距離を詰めた!
瞬発力は殺さぬ!
冴子の
傍らで、霊気が
蠢いた!
弱々しく減衰した霊気が!
それでも〈
戌守〉は、決心を固める!
護る!
この娘を護る!
弱者の希望を!
例え
己が
消滅しようとも!
だが──(ダメ!)──夜神冴子の意志が、それを制止した。
(もしも〈
戌守さま〉がいなくなったら、私は本当に
独りになっちゃう……そんなのはイヤ)
──しかし、冴子よ。
(私、
独りぼっちじゃ生きられないよ? この世界を……これからも
独りきりでなんて…………)
──…………。
(
傍に
居てよね? ずっと……ずっと……)
柔らかくも温かい
思慕に当てられ、霊気は鎮まる事とした。
こうなれば信じてみよう……
己が
見初めた〈巫女〉の
力を。
頭上へと
振り
翳す
鋭爪!
毛布に
埋もれた
贄は、その柔軟な波間に
囚われて起き上がる事も
儘ならない!
獣の本能が、ほくそ笑む──
殺れる!
「ほいっと」
冴子は
飄々と
瞼を
綴じ、
掌サイズのカプセルを放り上げた。
獣面の眼前に舞う異物──と、次の瞬間、
眩い閃光を吐いた!
「ギャウ!」
視界が白に殺される!
「閃光手榴弾~★」
「グルゥ! ガウ! ガウ!」
よろめきながらに、獣は爪を
振り
凪いだ!
形振り構わず!
一転した闇の世界で、見えぬ敵を仕止めんと!
その無様さを
悠に
眺め、冴子は身を起こした。
「
目潰しには、
目眩ましってね」
再び間合いが開いていく。
猛る殺意に反して、獣は後退を始めていた。
脅えているのかもしれない……無自覚ながらも〝本能〟は。
だから、再殺の標準を定めるに不都合は無かった。
頭部に
定める──いや、心臓へと変更した。
そうさせたのは、脳裏に浮かぶ白百合の
微笑み。
せめても
恩赦であった。
「さよなら、ジュリザ……」
白銀の銃が閃火を咲かせる!
射抜く銀弾!
それは哀しき決着であった。
夜神冴子が
燻らせる〝
獣人への憎悪〟さえも
霞ませるほどに……。
教会前の交戦は、程無くして沈静化していた。
死屍累々と横たわる部隊兵達。
その惨状を見渡し、ラリィガは
辟易と
零した。
「並の〈獣人〉が、アタシに叶うはず無いだろ」
殺してはいない。
必要以上の殺生は好まない。
手近に
呻くライオンを、胸元掴みに訊問する。
「おい」
「ひぃ!」
「オマエ等、何故、
此処だって特定できた?」
「そ……組織の情報網だ」
「にしては、タイムリー過ぎる。少なくともアタシ達は〈
牙爪獣群〉に勘づかれないように行動パターンを定めていたんだからな。それなのに、まるで発信器でも付けていたみたいじゃんか?」
「ホ……ホントだ!
我々〈
牙爪獣群〉は──いや、盟主〈ベート〉は、腕の
起つ〈情報屋〉を専属に
抱えている! ソイツのもたらす情報は迅速で、信用性が確かなものなんだ!」
「情報屋……ねぇ?」
どうにも引っ掛かる。
直感的に……。
「ソイツ、何者だ?」
「す……素性詳細は知らない! 俺達は精鋭部隊とはいえ、組織末端に過ぎない!」
「ふぅん?」
拳を固めて、軽く振りかぶって見せた。
「ホホホホントだ! あ! だ……だが、名前は聞いた事がある! 確か〝イ──」
そこまで
口にした瞬間、喉を裂き切られる!
「──クひゃいッ?」
奇妙な断末魔を
洩らした噴霧!
赤飛沫は、貴重な情報を
隠蔽した。
「おい、シュンカマニトゥ! 何すんだ! せっかく情報を得られたってのに!」
非情の
裁き
人へと食って掛かるラリィガ!
さりながら、コヨーテは深刻な
面持ちに告げる。
「……危なかった」
「はぁ?」
「オマエは気付いていなかったかもしれないが……
ソイツは後ろ手に凶器を準備していた」
不信に遺体を見れば……なるほど、手の近くにはアーミーナイフが転げ落ちている。
証拠を視認すれば、ラリィガとて渋々ながらに納得するしかない。
それが〈シュンカマニトゥ〉の転がした偽装とも疑わずに……。
一方で〈
獣精〉は、沈痛な想いを噛み締めるのであった──「やはり」と。
的中してほしくない予見であった。
金色の
亡骸は、やがて聖女の裸身と変わり果てる。
足下に転がる最期を虚脱に見下ろし、冴子は疲労感に包まれた。
身体ではない。
心が疲れ果てた。
「ジュリザ……
アンタに罪は無い。例え黒き月が
魅入ろうとも、その
清廉なる魂には………」
依頼は
完遂した。
皮肉にも〝
依頼主の
贖罪死〟を
以て……。
…………違う。
まだだ。
まだ終わってはいない。
──御願い……〈獣〉を……〈
獣〉を殺して……あの
おぞましい〈
獣〉を…………。
「……分かってるわよ、ジュリザ」
その瞳に決意の炎を
滾らせて〈
怪物抹殺者〉は
寂寥を後にした。
逃がしはしない。