第2話

文字数 2,112文字

 そんなある日。ランチタイムを終えた古賀は、いつものように店を一旦閉めて、仕入れのために、商店街へと出掛けた。
 食材の詰まったビニール袋をかごに乗せながら自転車を走らせていると、突然雨が降り出してきた。雨具を用意していない古賀は、食材を濡らさないように、慌てて雨宿りのできる場所を探してみる。
 と、少し先に古民家風の建物が視界を捕らえた。これ幸いと軒下に駆け込み、自転車を止めて空を見上げると、一面の雨雲が太陽の光を完全に遮っている。しばらく待ってみたが一向に止む気配はなく、雨どいから滴る雨水を恨めしく眺めるしかなかった。
 ただ待っていても仕方がないと、何気なくその店に足を踏み入れることにする。
『松極堂』と書かれた扉を開けて足を踏み入れると、そこは何だか懐かしい香りのする古道具屋だった。
 一目で年代物と判る調度品の数々が所狭しと並び、奥の棚には変色した背表紙の文庫本が乱雑に積まれていた。
「お客さん、何かお探しかな」
 突然の声に跳び上がり、胸を抑えながら振り向くと、口ひげを蓄えた小柄な老人が、訝し気な視線を突き刺してくる。
「いや、ちょっと雨宿りのついでに……」
 言い終わらないうちに老人は古賀の肩をポンと叩き、「ちょっと待っておれ」と奥に姿を消した。
 手持ち無沙汰で店内を見廻していると、ややあって老人が戻ってきた。手にはガラスの小瓶が握られている。
「これはな、万物皇位粉(ばんぶつおういこ)といって、特殊なスパイスじゃ」
「万物皇位粉?」
 怪訝な顔を老人に向けると、彼はカウンターの中に手を伸ばし、納豆のパックを取り出した。
「お前さん、納豆は好きか?」
 いきなりの事で訳が判らず、納豆は苦手だと、とりあえず頭を振った。
「だと思ったわい。わしも食べられん。どうもこの匂いが駄目でのぉ」
 いきなりパックを開けると、老人はどこからか箸を取り出して一気に混ぜだした。途端に納豆特有の何とも言えない嫌な匂いが鼻を刺激し、顔を背けずにはいられない。
「どれ、一口食ってみろ」老人はニヤつきながら、悪臭を放つそれを突き出す。
 あまりの威圧感に、申し出に断ることが出来ず、嫌々ながら手を伸ばした。震えながら一粒つまむと、やっとのことで口に入れる。だが、一瞬でむせ返した。
「……やっぱり駄目です、僕には食べられません」
 それを見た老人は、いきなり笑い声を挙げた。
「ほっほっほ。やっぱりな。だが、これをかけるとどうじゃな?」老人は手にしたスパイスを納豆に一振りかけると、たちまち嫌な匂いが消え、甘い香りが漂ってきた。「これでもう一度試してみんしゃい」
 香りに釣られるように箸で納豆を持ち上げると、一気に三粒ほど口に入れる。
「……嘘だ……」
 信じられなかった。あんなに苦手だった納豆が、今は極上のステーキのように感じられる。続けざまに箸を動かすと、あっという間に平らげてしまった。
「これをあんたのラーメンに入れるといい。たちまち大繁盛じゃ」
 ――どうしてこの老人は、古賀がラーメン屋を経営していることを知っているのだ? 
 納得のいかず、悩まし気な視線を彼にぶつけた。だが、彼はそんなことなどお構いなしといった態度で、
「四万じゃ」指を四本立てながら言い放つ。
「四万?」
 驚きのあまり腰が抜けそうになった。普通のコショウなら一瓶数百円程度。高価な物でも、せいぜい二千円程だ。四万円とはあまりにも法外すぎる。
「どうじゃ? 大金を持っておるのじゃろう。四万円くらい、はした金じゃて」
 宝くじの事を言っているのだろうか? ラーメンの事といい、不気味としか言いようがない。宝くじの事は、誰にも一切話していない。
「……どこで知ったのか知らないけれど、僕には必要ない物です。確かに納豆は美味しくなったかもしれませんが、そんなものに頼らずとも、僕は自分の実力で勝負してみます!」多少惜しい気がしないでもないが、たかがスパイスごときで無駄遣いはしたくない。
「そう強がりを言わさんな。これひとつで三百回は振れるぞ。一回当たり百円ちょっとだ」
「だから要らないって!」
 古賀はかたくなに拒み続ける。だが老人は引き下がろうとはしない。今度は転がっている木刀を拾い上げると、タオルで丁寧に磨き、万物皇位粉という名の怪しいスパイスを振りかけた。
 途端に食欲をそそる、何とも言えない香りがして、思わずよだれを垂らしてしまう。
「う、美味そう……」我慢できなくなり、気が付けば木刀にかぶりついていた。
 ただの木刀に過ぎないと判ってはいるのだが、どうしても止めることができない。ガリガリというイビツな音を立て、夢中でしゃぶりつく。
 それを食い入るように観察していた老人は、スパイスの入った瓶の底で古賀の頭を叩く。
 と、我に返った古賀は、手にしている唾だらけの木刀を慌てて床に投げ捨てた。
「どうじゃ、凄いじゃろ。これなら例えジャイアンが作った料理であっても、大絶賛間違いなしじゃ!」
 顔を真っ赤にしながら床に転がる木刀を眺めると、やがて老人の方を向き直り、おもむろに財布を開く。
「毎度あり~」
 老人の気の抜けた声を背に受けながら、松極堂を後にする。外はまだ雨が降りしきっていた……。
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