第4話
文字数 1,499文字
白龍ラーメンに行列が出来始めて三か月が経ったある日の閉店後。一人のスーツ姿の男がゆっくりと店に入って来た。男は髪を短く切りそろえ、銀縁の細い眼鏡に金色の腕時計。傍らには黒いアタッシュケースを携えている。明らかに一般客とは違う雰囲気だった。
「すみません。今日はもうスープが切れちゃったんで……」
断りを入れるが、男はアタッシュケースを床に置き、丁寧にお辞儀をすると、懐から名刺を取り出した。
「お忙しいところ誠にすみません。少しお話をよろしいですか? お時間は取らせませんので」
いいですかと言いながら、スーツ姿の男は有無をも言わせぬ勢いで、古賀をまくし立てる。
「この度は新メニューがご好評との事で、おめでとうございます。実はわたくしも先日いただきましたが、一口で全力ラーメンの虜になってしまいました。失礼ながら、この度、古賀様の腕を見込んで、ひとつお願いに参りました。あなたにとっても大変良い話だと自負しております」アタッシュケースを開き、中からファイルを取り出した。
それを受け取ると、古賀は目を細めながらパラパラとページをめくる。
「これほどまでの素晴らしいラーメンを、ここだけで埋もれさせるには実に勿体ないと思いませんか? わたくし共はあなた様のパートナーとして、この味を全国に広めたいと思っております。そしてゆくゆくは海外展開も視野に入れて……あっ、ちょっと話が早すぎましたか」わざとらしく口に手を当てると、「ですが、それほどまでに、わたくし共が全力ラーメンに惚れ込んでいることを理解していただきたいのです」
「つまりは業務提携の話ですか。それとも乗っ取り?」古賀は露骨に口を歪める。
男は慌てて首を振った。
「いえいえ、乗っ取りだなんて滅相もございません。わたくし共は純粋にあなたの素晴らしいラーメンを、全国の子供たちに味わっていただきたいと……」
バン!
古賀はカウンターを思い切り叩き、睨みを利かせる。
「この味は誰にも譲れない。悪いが帰ってくれ!」
猛烈な勢いに押され、男は「是非ご検討ください」と言葉を残し、店から立ち去った。
改めて名刺に目を落とすと『キングコーポレーション』とある。つまりラーメンキングの回し者だ。残されたファイルを見直すと、そこには破格の条件が記されてある。本来であれは二つ返事で契約したいところだが、彼らが欲しいのは全力ラーメンのレシピに過ぎない。だが、スパイスの秘密を明かすことなど、到底できるものではなかった。
ファイルを丸めて厨房のゴミ箱に放り込み、やりきれない思いの古賀は、淡々と明日の仕込みに取り掛かった。
それから数日おきに、スーツ姿の男は店に現れるようになった。その度に難色を示したが、条件はどんどん上がり、時には人目もはばからず、土下座する場面もあった。
彼の気持ちも分からなくはないが、どうしてもサインをする訳にはいかない。追い返すのに奮闘の日々が続いた。
そんな中、事件が起きた。
厨房を任せているバイトの青年が例のスパイスを見つけ、こっそりと持ち帰ろうとしていたのだ。寸でのところで気づいた古賀は、青年を取り押さえ、奥の休憩室で話を聞いた。最初はしらを切っていたが、通報をちらつかせると、ラーメンキングに雇われていた事をすぐに白状した。くぼんだ目で涙を流し、エプロンを丁寧にたたむと、青年は「お世話になりました」と店を出て行った。
その日以来、スパイスの入った棚に鍵を掛け、仕入れの際も、出来るだけ後を付けられないよう、細心の注意を払いながら松極堂に出入りしていくようになった。
これが功を奏したのか、あの日以来、同様の事件は起こっていない。
「すみません。今日はもうスープが切れちゃったんで……」
断りを入れるが、男はアタッシュケースを床に置き、丁寧にお辞儀をすると、懐から名刺を取り出した。
「お忙しいところ誠にすみません。少しお話をよろしいですか? お時間は取らせませんので」
いいですかと言いながら、スーツ姿の男は有無をも言わせぬ勢いで、古賀をまくし立てる。
「この度は新メニューがご好評との事で、おめでとうございます。実はわたくしも先日いただきましたが、一口で全力ラーメンの虜になってしまいました。失礼ながら、この度、古賀様の腕を見込んで、ひとつお願いに参りました。あなたにとっても大変良い話だと自負しております」アタッシュケースを開き、中からファイルを取り出した。
それを受け取ると、古賀は目を細めながらパラパラとページをめくる。
「これほどまでの素晴らしいラーメンを、ここだけで埋もれさせるには実に勿体ないと思いませんか? わたくし共はあなた様のパートナーとして、この味を全国に広めたいと思っております。そしてゆくゆくは海外展開も視野に入れて……あっ、ちょっと話が早すぎましたか」わざとらしく口に手を当てると、「ですが、それほどまでに、わたくし共が全力ラーメンに惚れ込んでいることを理解していただきたいのです」
「つまりは業務提携の話ですか。それとも乗っ取り?」古賀は露骨に口を歪める。
男は慌てて首を振った。
「いえいえ、乗っ取りだなんて滅相もございません。わたくし共は純粋にあなたの素晴らしいラーメンを、全国の子供たちに味わっていただきたいと……」
バン!
古賀はカウンターを思い切り叩き、睨みを利かせる。
「この味は誰にも譲れない。悪いが帰ってくれ!」
猛烈な勢いに押され、男は「是非ご検討ください」と言葉を残し、店から立ち去った。
改めて名刺に目を落とすと『キングコーポレーション』とある。つまりラーメンキングの回し者だ。残されたファイルを見直すと、そこには破格の条件が記されてある。本来であれは二つ返事で契約したいところだが、彼らが欲しいのは全力ラーメンのレシピに過ぎない。だが、スパイスの秘密を明かすことなど、到底できるものではなかった。
ファイルを丸めて厨房のゴミ箱に放り込み、やりきれない思いの古賀は、淡々と明日の仕込みに取り掛かった。
それから数日おきに、スーツ姿の男は店に現れるようになった。その度に難色を示したが、条件はどんどん上がり、時には人目もはばからず、土下座する場面もあった。
彼の気持ちも分からなくはないが、どうしてもサインをする訳にはいかない。追い返すのに奮闘の日々が続いた。
そんな中、事件が起きた。
厨房を任せているバイトの青年が例のスパイスを見つけ、こっそりと持ち帰ろうとしていたのだ。寸でのところで気づいた古賀は、青年を取り押さえ、奥の休憩室で話を聞いた。最初はしらを切っていたが、通報をちらつかせると、ラーメンキングに雇われていた事をすぐに白状した。くぼんだ目で涙を流し、エプロンを丁寧にたたむと、青年は「お世話になりました」と店を出て行った。
その日以来、スパイスの入った棚に鍵を掛け、仕入れの際も、出来るだけ後を付けられないよう、細心の注意を払いながら松極堂に出入りしていくようになった。
これが功を奏したのか、あの日以来、同様の事件は起こっていない。