第38話

文字数 1,585文字

 香澄の内保局内における私室は、ガンスミス・セクションの作業場の隣にある。同じ内保局の局員だとしても他セクションへ出入りするには、そのセクションチーフの許可を得ねばならない。担当ガンスミスである香澄が亡くなってしまったので、有紗は塚原チーフを通じて香澄の上司である大平チーフに申請し、私室に入る許可を得た。

 ガンスミス・セクションの廊下は常に機械油のにおいが微かに漂っている。どんなに高性能な空気清浄機が作動していようとも完全には消せない。自分たち兄妹の心に渦巻く母とその愛人である長澤への怨みと同じで、べっとりとこびりついて剥がれない。

 ひとり靴音を殺して歩く有紗。ふと向かいから気配を感じ、有紗は左目を(すが)めた。ここに居るはずのない、お門違いの人物を認めたからだ。

「何やってるの、浅倉くん」

 正式に医者の許可が下りたらしく、浅倉の顔面を余すことなく覆っていた包帯が取れ、彼本来の顔貌が戻っていた。記憶の中にある浅倉の懐かしい面立ちに、訓練生時代を思い出し懐かしさに捕らわれた。だがそれも一瞬で、ガンスミス・セクションにいることに疑念を持ち、相変わらず眇めたまま見つめる。

「サブであるグロック19のメンテナンスが終わったんで、引き取りに来たんです」
「そういえば、遠矢チーフの配下になったそうね。おめでとう」
「遠矢チーフ配下だったんですよ、僕は元々」

 訝しげな視線を返す有紗に、これまでの事情を説明する。あの替え玉作戦の発案者が遠矢だったこと、その案を横取りし浅倉を引き抜いてしまった塚原の腹黒さに、有紗は思わず眉を顰めてしまった。今まで有能で尊敬できる上司だと思っていたのに、とつい内心ではあるが本音がこぼれ落ちた。

「有紗さんは、これからどこへ?」
「香澄さんの私室よ。兄から頼まれてね」
 これ以上は干渉しないでくれとばかりに、有紗は歩を進める。しかし浅倉は気にせずに彼女と並んで歩き出した。

「浅倉くん?」
「やっと現場復帰できたんです。できれば有紗さんも遠矢チーフ配下になって欲しかったですね、隆宏さんとトレードで」

 嘘偽りのない浅倉の本音だ。確かに隆宏は近接戦闘は抜きん出ているが、些か軽薄な部分が表に出すぎている。替え玉生活が長かったせいで人を観察する癖がついた浅倉は、そういった隆宏の軽さがいつか任務に支障を来すのではないかと、危惧している。

 遠回しに一緒に居たいと訴えたつもりだが、香澄のことで頭がいっぱいになっている今の有紗には、その想いは通じていないようだ。どうあっても付いてくる気の浅倉に、有紗は何も言わず同行を許す。一人になった途端に決壊しそうな涙腺を引き締めるのに、彼の存在はありがたいと思い直したからだ。

「残念ながら配置換えはないわね。上司が言い出さない限りは」

 塚原は倉科兄妹を手放さないだろう。今までにも何度か兄妹のどちらかだけでもトレードしないかと話があったようだが、塚原が頑なに拒んでいると二人は小耳に挟んでいる。何故に塚原が兄妹を手許に置きたがるのか理由が判らない。他のエージェントたちは二、三年に一度の頻度で配置換えが行われるのに、兄妹は三年間ずっと塚原配下に留め置かれている。

 香澄の作業場に着いた有紗は、やや冷徹な声音で
「暫くひとりにしてくれないかしら」
 そう告げると、さっさと私室へと入ってしまった。

 浅倉は何も言わずに壁にもたれると、両腕を組み目を閉じる。これから見せるであろう彼女の弱さを、誰にも晒さないよう見張るつもりだった。

(偶然とはいえガンスミス・セクションの廊下を歩いていて良かった。あんなに弱った表情の有紗さんを見るのは初めてだ。そんなにも高田さんの死がショックなんだな)

 直接に香澄と面識はないが、浅倉の担当ガンスミスは香澄とは古い馴染みと聞いていた。なので浅倉にとっても、何となく香澄のことを身近な存在に思えていた。
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