第30話

文字数 1,242文字

「俺に戸籍はないんだ。正確に言うと母親の私生児で父親は不明。母親も十年前に病気で他界したから事実上、無戸籍なんだ」

  内保局の幽霊機関に所属する暗殺工作員は例外なく、表向きは戸籍上は死亡扱いとされている。中には隆宏のように無戸籍の人間もいるが、大抵は政府によって存在を抹消されている。故に、幽霊セクション。死人が殺しをしようと法的に裁けるはずがない。ましてや国家が存在を抹消しているのだ。少なくとも今までに、組織に所属する人間のデータが流出したという事態は起こっていない。

 浅倉の場合は、中学時代に酷いいじめが原因で高校に進学できず、それが原因で両親と大喧嘩の後に家出した。生きていても仕方ないと諦め、ビルの屋上から飛び降りようとしたところを、内保局の人間にスカウトされた。

「自分の命を簡単に捨てるくらいなら、強くなりたいと思わないか?」

 当時は知らなかったが、浅倉の自殺を未然に防いだのは塚原の部下である遠矢サブチーフだった。挙動が怪しい浅倉の姿に引っかかるものを感じ尾行してみれば、案の定だったのだ。遠矢に救われた浅倉は、自分をいじめた連中――担任教師も含む――にいつか復讐してやりたいと願いつつ、厳しい訓練を受けた。軍事訓練なのでハードだったが、自分を自殺寸前にまで追い詰めた連中の顔を思い起こすたびに気力が湧き、踏ん張れた。

 訓練内容を達成できれば、遠矢からは褒められた。理不尽に小突かれたり馬鹿にされたりされないことが、浅倉には嬉しかった。もともと運動神経は良かったので、基礎体力向上訓練にも、適性ありと診断を受けた射撃訓練にもついて行けた。

 有紗と出会い切磋琢磨する内に、いつしか淡い想いを抱くようになったため、余計に訓練にも力が入った。自分の命を救ってくれた遠矢サブチーフと、恋心を抱いた最大のライバルでもある有紗。浅倉は実戦経験は乏しいものの、射撃の腕は幽霊(ファントム)セクションでもトップクラスに成長していた。そんな事情を、出会って一ヶ月の隆宏に話す義理はない。

 植え付けられた人間不信の種は、容易に人を信じない。そういう意味では、浅倉は理想的な暗殺工作員へと変貌を遂げている。恩人の遠矢と、苦楽を共にした最高のライバルであり、憧れの有紗以外に心を開かない。それでいいと浅倉は思っている。他人は殆ど敵だ。思春期にそう植え付けられた価値観は、今もなお彼の人格に深く根付いていた。

「僕も似たようなものですから、後悔なんかしていませんよ。むしろ、生きがいになっていますから」

『岡崎くん、浅倉くん。オフィスまで来たまえ』

 不意に内線がスピーカー状態で音声を発し、塚原チーフの声が再生された。二人は一瞬だけ顔を合わせると、素直に指令に従った。

(僕はいつまで、塚原チーフの指示を受けなければいけないんだろう。僕の直接の上司は、遠矢サブチーフなのに)

 替え玉の任務が終わった段階で、浅倉は遠矢のチームに戻されるはずだった。なのにいつまでも塚原の指示に従わされることに、若干の不満を抱いていた。
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