朱点童子 ~序~

文字数 904文字

「そうですか…出会ってしまったのですね、あの物語に」

 青年はそう呟くと、微かに表情を曇らせた。

 動揺した私は、うつむいて木目調の床をジッと凝視する。

 蟻が一匹、床を這うのが見える。

 なにか喋らなくてはいけないと考えながらも、蟻の動きを目で追う自分が滑稽に思えた。

「あの物語には何があるというのですか?」

 ――姿勢を正して私が尋ねても、青年は口を開こうとはしない。

 重苦しい沈黙が続き、悪戯に時間だけが過ぎてゆく。

 気まずい空気が漂う中、私は青年の顔を仔細に眺めた。

 男でも見惚れるほどの色白で美しい青年だと思う。

 その肌は窓から差し込む太陽の光を浴びて、内側から輝いているようにも思えた。

 なにより目を引くのが、唇が紅を塗ったように赤いのである。

 これでは化粧をした女性と間違えられても不思議ではない。

 そんな考えに囚われていた時、先に口を開いたのは青年の方だった。

「太田さん……あなたがあの物語に関われば、いずれ凶悪な殺人事件を調べることになるでしょう」

「その事件なら……知っています」

 事件のことを知らないで通そうと思ったが、このままでは埒が明かない。

 私は遠慮せず、多くの質問を青年に投げ掛けた。

「あの物語を書いた人を知っていますか?」
「殺人事件はなぜ起こったのですか?」
「それに……」

 それに……あなたの名前を教えてくださいと私は言おうとした。

 私の中で躊躇(ためら)いが生じる。

 いや躊躇うというより、まるで禁忌の領域に足を踏み入れるような感覚があった。

 それは他人の日記を読んで重大な秘密を知り、後悔するような感覚に似ている。

 青年の名前を知ることは、自分に厄災をもたらすような気がした。

 そんな気持ちを裏切るように、青年は微笑みを浮かべてクスクスと笑い出す。

「あなたは質問ばかりするのですね」

 青年は視線をこちらに向け、ジッと私の顔を見つめた。

 肌と同様に瞳まで輝いて透き通っている。

「いつまでもあなたが黙っているからです!」

 私は少しだけ語気を強めた。

 青年は困ったようにクスクスと笑っている。

「いい加減にしてくれ、だからあの物語には一体何が……っ!」

「あの物語の作者は私です」

 青年はそう答えたのだ。
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