長野県警

文字数 2,222文字

 映画監督とのやり取りの後、私は事件があったと資料に書かれている長野県を訪れた。

 『鬼の眠る場所』の舞台となったのは、県内にある「鬼無里村」という山村だった。「鬼無里」と書いて「きなさ」と読み、都市部から少し離れた田舎の土地に存在する。交通の便は極めて不便で、長野駅から知人に車を借りてようやく辿り着けるという、峠道を通らねば到着できない場所にあった。

 私は長野駅に着いた後、宿は駅の周辺で探すことにした。鬼無里村に行ったとしても現地で宿を探すのは不安だったため、最初の一日は長野駅の近くにあったホテルで一夜を過ごした。

 次の日、私は事前にアポイントを取っていた長野県警へ向かい、警察に殺人事件の話を聞くことにした。鬼無里村には行かず、大まかな話を聞くだけで終わりにしたいという意図もあったからだ。

 ――だが、資料には戦時中に起きた三十年以上も前の事件と書かれてある。当時、事件を担当していた刑事に運良く話を聞ければ御の字だが、そう簡単に見つかる訳がない。また、事件のことを聞きたくても、証拠となるものが『鬼の眠る場所』の原稿のみなのである。

 相手をする警察の人も、原稿を手渡されて「どの事件のことを語っているのか分かりますか?」と言われても、首を傾げるだけなのは目に見えている。警察の人も、こんな映画会社の酔狂に付き合っている暇もないだろうし、無駄な時間を過ごすだけだろう。

 そんなことを鬱々(うつうつ)と考えながら、私は長野県警に到着した。私に会ってくれる担当者が親切に応接室に通してくれた。罪を犯していないと分かっていても、警察組織に足を踏み入れるのは緊張するものがある。

「どうぞ、そちらへ座ってください」

 ――私の相手をしてくれたのは長野県警の八島という警察官だった。私は取材に訪れた経緯(いきさつ)を簡潔に話し、執筆した脚本を八島さんに読んでもらった。

 読んでいる間、八島さんは驚いたり眉間に皺を寄せたりと、コロコロと表情を変えて見せた。読み物としては面白いので、多少の興味が湧くのだろう。八島さんは読み終えると、脚本を机の上に置き、腕を組んで考え込んでしまった。

「あの……いかかでした? どの事件を扱ったものなのか分かりますでしょうか?」
「うん。いや、あのね……」

 八島さんは生返事を私に返し、また口を閉ざして黙ってしまった。すると、「ちょっと待っててくれないか」と私に言い残し、そのまま応接間を出て行ってしまった。
 私は何があったのか分からず、言われた通りに部屋で待つことにした。

 十分後に部屋のドアが開き、八島さんともう一人別の人物が入ってきた。腰の曲がったお爺さんで、所々汚れた作業服を着ている。

「この人は長野県警で清掃員として四十年以上勤めている小橋さんだ」
「小橋です」
 小橋さんは私に向かって軽く頭を下げた。私もその場で頭を下げ、お互いの自己紹介が終わった後に八島さんが口を開いた。

「この物語を考え出したのは君かな? ちょっと困るんだよね」
 困るという言葉を聞き、私は慌てて八島さんに説明した。
「いえいえ、違います! この物語を書いたのは別の人で、私は新しく書き直そうとしているだけです。それに……困るってどういうことですか?」
「それがね、そこに書かれてる登場人物の一人が実名で記載されているんだよ」
「えっ、一人だけ実名なんですか?」
「これちゃんと許可取ってるの? いくらなんでも実名で書いたら本人も良い気がしないと思うんだよね」

 ――それを言われてもこちらに否はない。
 八島さんは事実確認のため、小橋さんに話し掛けた。

「その物語に登場する刑事さんが尾道賢吾と書いてあるけど、これは五年前に定年退職した刑事部長の尾道さんだよね、小橋さん?」
「ええ、間違いないですよ」

 私は驚いた。物語のベースとなった事件が過去にあったとはいえ、架空の話に実名を用いるなど聞いたことがなく、下手をすればドキュメンタリーになってしまうではないか。

「あの……かなりの大事件だったのでしょうか? 話題性を集めるため、ドキュメンタリーのような物語だったとすれば、大衆にも知られた事件の可能性があると思うのですが」

「なにせ戦時中の事件だからね。その間に長野でも色んな事件が起きてるから、地域の人は覚えてないってのが実情だよな。俺だって終戦を迎えた三十年前だと子供だったしね。小橋さんは何か知ってる?」
「いや、私はただの清掃員なんで……」

 八島さんはしばらく腕を組んで考え込んだ。するとポンと手を叩き、「こうなったら本人に聞いたほうが早いかもな」と話した。

「……本人と言いますと?」
「尾道さん本人に聞くんだよ」
「ええっ? 退職した刑事さんにですか」
「連絡すれば会ってくれると思うぞ」

 そうしてくれるのはありがたいが、一方で嫌な予感がしたのも事実である。取材が長引きそうで、すぐに帰れる目処が立たなくなるかもしれない。これは腹を(くく)るしかないだろう。

「……それで良いかな?」

 八島さんは私に確認した。さすがに私は「いいえ結構です」とは言えず、作り笑いを浮かべながら、八島さんに答えを返した。

「お願いします……」
「じゃあ尾道さんに許可を取るから、あんたの泊まっているホテルの連絡先を教えてくれ」

 私はメモにホテルの住所と連絡先を書いて八島さんに手渡した。どうやらやることはまだまだ増えそうである。
(明日、帰りたかったなぁ……)
私は深くその場で溜息を吐いた。

犯人特定へ至るヒント:3%
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