第7話 達磨
文字数 8,256文字
ホラーの魅力とはなんだろうか?
「暴く怖さ、暴かれる怖さ、ですかね」
「自信ないなぁ」
「またまたぁ。向いてますよ。絶対に。なにより私は、先生の書くホラーが読みたいんですよ」
そう言って、半田は笑顔で帰って行った。半田の手前、ああ言ったもの、それなりのものを書き上げる自信があった。
才能があるからではない。私には時間があるのだ。
五年前、文壇の大家である塔田先生から、無限とも言える時間を授かったのである。
『君は私に似ている。形になるまで時間がかかるが、その堅実さで生み出されるからこそ、時代を越える良さがある。でも、それでは食べていかれないだろう。僕には秘密があるんだ』
何百年も生きている仙人のように見えた先生は、実際に人生を何回分も生きていた。先生が数々の傑作を世に送り出せたのは、納得できるまで、何度も時を遡ることができたからだ。
次は君の番だと、先生は達磨を模したメモ帳を私に託した。
すでに先生は鬼籍に入られ、どこで手に入れたのかは聞かずじまいだった。
達磨。不倒翁。祈願成就の際に、目玉を書き入れる縁起物。
そのメモ帳は、書き込んだ願いが叶わなかった時、時間を巻き戻す力を持っている。
使い方はこうだ。一枚目に願い事を書き込み、閉じる。すると表紙の達磨の左目に梵字の阿の字が浮かび上がる。日付を書き込まない場合、書き込んだ日から一年後が期限だ。期限内に願いを叶えられないと、書き込んだ日に戻される。成就させると、右目に吽の字が浮かび上がり、まっさらなメモ帳に戻った。書き直すことはできず、メモ帳を破けば、祈願直後の起点まで時間が巻き戻される。火に焚 べようが、酸で溶かそうが同じだ。願いを叶えない限り、ループから抜けられないのだ。自力で叶えられないことは、絶対に書き込んではならない。
なかなかに危険な代物ではあるが、簡単に叶う願いを書いて、時間を巻き戻す効果を活用すればいい。
私は朝のうちにメモ帳に書き込んでいた。締め切りに合わせて、『200ページのホラー小説を十月五日までに書き上げる』と書いた。
メモを授かって四年目。私は気が大きくなっていた。正直言ってホラーは好きなジャンルではない。だが、持ち前の粘り強さで様々なジャンルに挑み、それなりに形にしてきた。
帰宅するなり、私は勢い込んで執筆を開始した。
「結局逃げているんだ。うん、逃げられるなら怖くないもんなあ」
「なるほど、逃げられない恐怖ですか」
二周目最初の打ち合わせ。短編をわんさか生み出して、どうにもならずに戻ってきた二周目だ。短くなるのは恐怖心の現れかも知れない。
さすがに今回は難しい戦いになりそうだ。アイデアに窮するのとは違う。
恐怖。逃げてあたりまえだ。目を背けたくなるものこそが、恐怖の対象だろう。
楽しく書いているやつなんかいるのかよ。
二周目にして早くも気が立っている。よくない兆候だ。
「恐怖は消費できない気がするんだよね」
「確かに、決定的な破綻が起きたら、どうしようもないかも知れませんね」
三周目最初の打ち合わせ。なんの救いのない話は大嫌いだ。けれど、ハッピーエンドじゃしっくりこない。自らを苦しめる状況設定で対応し、うまくいかずに断念して出直す三周目。
どうしても苦痛を軽減したくて心が騒ぎだす。設定の甘さから、解決策が思いついてしまう。喜んで救いに飛びついてしまう。
話にならない。
「他人への関心がないと、無害でも怖いと思ったんだけどね」
「そうなると、特定の相手を狙うには、特別な理由が必要になりますからね。執着があった方が理由もいりませんし、劇的ですもんね」
四周目最初の打ち合わせ。身の毛がよだつ状況を、どうにか作り出そうとして、ぱっとしないまますごすごと戻ってきた四周目。時に無関心は恐ろしい。そう思って考え続けたが、積極的な加害性と違って、展開しにくい。半田の言うおり、情念の方が怖かった。これなら巷の痴話喧嘩の方がよっぽど無惨だ。
「説得力がね、ないとね」
「理解できる恐怖の方が向いているかもしれませんね」
五周目最初の打ち合わせ。その世界の人間には当然のことでも、読者の目には恐ろしく見える日常を書けないかと思案して、よくわからなくなって舞い戻った五周目。史実から材を取ると歴史物になってしまう。困ってファンタジーめいた舞台にしてみるも、ますますホラーじゃなくなるだけだった。
「助けてくれた人が、犯人。ベタかぁ」
「まあ、目新しくはないですけど、それだけじゃないですよ」
六周目最初の打ち合わせ。教訓めいた結末しか引き出せずに挫折して、仕切り直しの六周目。目的を明確にすると範囲が限られるせいか、どうにも小さくまとまってしまう。権謀術数にあらわれる人心の怖さは、事実としてやり尽くされてる気がしてくる。
「ホラーとはなんだろう?」
「怪奇な趣向で恐怖を喚起することですかね」
七数目最初の打ち合わせ何が本当かわからないと怖い。そう思って書き進めるうちに自信がなくなって退散してきた七周目。半田との打ち合わせにも熱が入る。今思えば、最初の私は随分と過信していた。
人懐っこい話し方で、教養の高さをあまり表に出さないが、半田の博学ぶりは相当である。そして人がいい。
同じ日を繰り返すと、どうしても挙動におかしい部分が出る。半田なら、そうした部分に煩わされることなく伴走してくれそうな頼もしさがあった。
十二周目。早くも満足のいくものが書き上がり、一安心してメモ帳を確認した私は、首を傾げた。吽の字が現れない。阿の字が消えていないので、リセットされたわけでもない。
考えられることは一つである。成就できていないと言うことだ。
「馬鹿な……」
書き間違えたのかも知れないと不安になって、私は表紙をめくった。
「ひっ……!」
小さな悲鳴が漏れた。
記憶のとおり、私は過不足なく書いている。しかし、私のものではない歪んだ筆致で、赤く『塩の』と書き足されていた。
『200ページの塩の
ホラー小説を十月十五日までに
書き上げる』
あとから書き加えることはできないはずだぞ。
外出する時はいつもカバンに入れて持ち歩いている。誰かが関与するとは考えにくい。
つまりこれは、メモ帳の仕業なのか?
気持ちの整理がつかないまま、十月十五日を迎え、私は時を遡り、十二周目最初の打ち合わせに臨んだ。
「……塩のホラーを描こうと思うんだ」
「塩? へえ、どういった内容ですか?」
給与 や 戦士 の話をしたが、落ち着かない。昼間から酒を頼んで、これまでのアイデアを全部吐き出した。
長々と話しておきながら、何も得られずに打ち合わせを終えた。
帰宅した私は一心不乱にキーボードを叩き続けた。以前に書き散らした短編の内容を利用して、勢い任せに二百ページを埋めにかかった。やろうと思えば簡単にページを稼ぐことができるのだ。
自分でも驚くほどの集中力で、翌朝には完成した。
メモ帳を確認する。吽の字は現れない。
ホラーじゃない? 塩が足りない? 今まではそんな厳しくはなかったぞ。うっかり条件を満たして、時間を失ったことだってある。
ふと、ある可能性に気がついた。
恐る恐るメモ帳の表紙をめくると、文字が増えていた。
『200ページの塩の傑作
ホラー小説を十月十五日までに
書き上げる』
傑作。
鼓動が耳元でわんわんなっている。
絶対に書き込んでならない言葉だった。
面壁九年。
先生が傑作を量産したのは、先生の完璧主義ゆえだと思っていた。
だが実際は、メモの力で傑作を書かざるをおえない状況にあったのではないかーー。
こんなことは聞いていない。私は騙されたのか?
先生の覚悟がにじむ言葉が思い出される。
『これはね、一人ぼっちの戦いなんだ。編集者を超えるつもりで仕事をしなさい』
「先生。塔田先生……」
私は頭を抱えた。
「不安なら書けるんだ……。でも、恐怖はどうしても書きたくない……」
「先生? 大丈夫ですか? 先生ーー」
二十三周目最初の打ち合わせ。恐怖の輪郭をなぞり続けて、核心に踏み込めずに戻された二十三周目。
私にはいくら時間を与えられたところで、才能がない。
傑作揃いの先生の著作の中で、代表作と目されたのはホラー小説だった。とてもじゃないが、私にはそのような名作は生み出せそうもない。しかし、作家としては凡人でも、並の作品を傑作と偽る読者ではない。この不一致は致命的だった。
励ましてくれる半田の声も、私には言葉として聞こえていなかった。
二十七周目。締切まであと一ヶ月となった日。半田が訪ねてきた。パソコンの前で黙り込む私の横で、本や資料集、おすすめ映画のレポートを並べ始める。
「厳選してきました。これなんかすごくーー」
努めて明るい声を出す半田に、私は怒鳴った。
「ホラーで悩んでいるのにホラーの話かよ!」
「すみません……」
半田は微塵も悪くない。私は仕方なく謝罪した。
「申し訳ない。悪かった……。あと、これは読んだ。これも見たし、そっちは知らない」
何度繰り返しても、半田には一回目だ。忙しい中、私の様子を敏感に感じ取っては、手助けに来てくれる。繰り返せばありがたみは薄れていくもので、気遣いさえも鬱陶しく感じた。次は気分転換を進めてくるに違いない。
「先生。気分転換をしましょう。まったく別のことから刺激を受ければ、新しいホラーが思いつくかもしれませんよ」
私は長いため息をついた。
このメモ帳の利点はなんだろう。
やはり、チャラにできることだろう。実際に行ったことを、なかったことにできる。
優しさにも慣れてしまうように。悪事もまた繰り返せば鈍麻するだろう。
三十三周目。私は虐待に手を染めた。
ハムスターを買ってきた。拷問してやろうと意気込んだが、軽く縛ったくらいでは簡単に抜け出してしまう。
もっときつく、骨格が歪むほどの責苦を。
だめだ、可愛すぎる。手元に置いとくだけで癒しになってしまう。
私はメモ帳を引き裂いた。
今度はできるだけ不細工な子犬を探した。ぺちゃんこ。短足。どれだけ罵ろうとも、家に連れ帰れば皆可愛い。
買い込んだ大量の針でいじめてやろうとしたが、悲壮な鳴き声はハムスター以上に胸を苛んだ。
だが、必ず帳消しにできるという安心感が消えることはない。
三十五周目のある日。私は半田を自宅に呼び出した。戸惑う半田を無理やり浴室に連れ込む。小柄で走る姿が不恰好な半田。反撃して私を取り押さえるなんて芸当はできないだろう。
私は包丁を突きつけた。
「小説のためなんだ。協力してくれ」
「ちょ、ちょっと待ってください! 先生、落ち着いてください!」
「道連れにされることほど、怖いことってないと思うんだ!」
私は叫んだ。身をこわばらせる半田。そこから、私は動けなくなった。踏み出すことができずに、包丁を置いた。
「すまない……」
「先生! お、お茶でも飲みましょう」
半田に背中をさすられながら、リビングへ連れて行かれる。散乱する塩の袋に、半田は面食らった。台所では、大量の塩が投入された鍋が煙を上げている。
「もしかして私を料理するつもりだったんですか?」
「塩煎り責め……」
「へぇ……、思いとどまってくれてよかったです。先生、いくらなんでも犯罪を行うのはおかしいですよ」
「ああ、刑務所に入る気は無いんだ」
四十八周目のある夜。私は半田を自宅に呼び出した。戸惑う半田を無理やり浴室に連れ込む。浴槽の黒い液体に気づいた半田を、私は力一杯突き飛ばした。頭から浴槽に突っ込む半田の両足を抱え上げて、上半身を醤油に沈める。ばたつく半田。ぶくぶくと湧いていた気泡がやんで、半田の身体から力が抜ける。
終わった。今ならまだ助かるかもしれないが、もう十分だろ。
私は情けない声を出しながら、這いずるようにして自室に駆け込んだ。
四十九周目。祈るような気持ちで、打ち合わせに向かった私は、半田の姿が目に入って全身の力が抜けた。びっくりして駆け寄る半田に対して、よかったよかったとそればかり口にした。
五十四周目。子供や老人を見るたびに、思わず目を逸らしてしまう。ついつい簡単に捕まえられそうな存在に目がいく。公園のベンチに座っていると、警察から職務質問を受けた。
五十九周目。先が見えない。不安は怒りに転嫁され、半田にぶつけられた。
「なんでホラーなんだよ! 向いてるって? そうか、そうだな! やってやるよ! やってやるからなぁ! ああ?」
六十周目の打ち合わせ。顔を見るなり泣き崩れた私を、半田が困惑しながら介抱してくれた。
六十四周目。だんだんと書くものが病的な腐臭を放つようになってきた。半田の反応は芳しくない。私にだけ怖い小説になっている気がする。完成するならそれでもかまわない。しかし、書けども書けどもメモ帳はリセットされない。
六十七周目。書庫をうろうろしていると、先生の小説が目にとまった。猟奇殺人を題材にした小説。瞠目のリアリティ。先生はどこまで試したのだろうか。
七十一周目。手が震える。身体が言うことをきかなくなってきた。半田はあまりに無防備で、簡単に手にかけることができた。
息苦しい。人を殺したまま作品を書き上げてしまったらどうしようと、心配ばかりしている。
恐怖の中心に踏み込めるのは気が触れた時ではないだろうか。不安を感じるだけ、まだまだ自分は正気なのだと思うと、涙が出た。
その時、ドアチャイムが鳴った。
七十七周目。心に平安が訪れた。
七十九周目。自殺したらどうなるだろうか。死んだまま期限を迎え、時間を巻き戻されて生き返るとは思うが、死が確定する可能性もなくはない。
死の恐怖。他人に命を狙われているならともかく、私にとって自殺は恐怖の対象とはならないだろう。自殺から恐怖を学ぼうとしても、むしろ笑える。頑張ったところで、自殺の達人という、おかしな存在になってしまうのだ。命が助かってしまう自殺に、恐怖は薄いだろう。狙うならば、自殺未遂だ。
首吊り自殺は気管と頸動脈、椎骨動脈と頸静脈を完全に閉塞させられなかった場合、脳への血流を遮断できずに三分近くも苦しみ抜いて窒息死し、鬱屈して腫れ上がった顔と、筋肉の弛緩による尾籠な状態を誰かの目に晒すことになるだろう。死ぬのにも、死に損なうにも、向いていない。
ガス自殺はガスの毒性が低く、爆発による火傷や挫傷の方で死にかねない。
硫化水素は悲惨だ。においも死体の見た目も最悪で、助け出されても、医師たちは防護服を着て裸にした患者を洗浄してからでないと治療を始められない。
飛び降り自殺は高さによってはほぼ確実に死ねるが、奇跡的に助かったり他人を巻き込むこともある。飛び降りて骨盤を粉砕し、入院生活の辛さから、二度と自殺はしないと誓った者もいるとか。
溺死はどうか。救命が遅くなるほど、後遺症は深刻で、社会復帰できる可能性は小さくなっていく。確実に死ぬために人気のない海で死んだとしよう。魚に食われるか、ぶくぶくの土左衛門で発見されるかするだろう。
自動車や列車への飛び込みは損傷が激しく、それでいて確実に死ねるわけではない。大抵の毒物は楽に死なせてくれないし、出血死するほどの自傷行為は滅多に達成できない。
肉体的に苦しい状況を探求するのは一つの手だが、賭けの要素が大きい。習熟してしまえば、恐怖が減ってしまうだろう。
自らの陳腐な感性に頼るのは私のやり方ではない。
私はいつも、他人の感性からなにかを拾い出してきた。
やっぱり私にはーー。
百周目。なんだかめでたい。
余裕を持って書き上げた私は、半田を自宅に呼んで、原稿を読んでもらった。
読み終えた半田が満面の笑みを浮かべた。
「最後の最後まで恐怖が貫かれていますよ! ハッピーエンドだというのに!」
私はまだ、半田の掌の上だろうか。
私はお茶とお茶菓子を勧めて、しばし談笑する。
「ありがとう。君のおかげだよ」
「いえいえ。タイトルは地の塩から来ているんでしょうか」
判断に迷うとしたら、それは初回しかない。半田の目を欺けるのは、一回目だけだろう。
半田は異変に気がついた。身体の自由が効かなくなり、声を出せなくなって目を見張る。
私は言った。
「最初は呪いかと思ったんだ。おどろおどろしい字だったから。『作品の下限は編集者の能力で決まる』と、塔田先生の盟友である中山部長に言われたんだってね。私が先生からメモ帳を託されたように、君は中山部長から校正ペンを託された。君は一番最初の打ち合わせで、私がトイレにたった隙に『塩の』と書き込んだんだ。そして、塩というキーワードを私が口にした日に、『傑作』と書き足した。君は無かったことにした時間の出来事を知流ことができないから、事前に入念な計画を練っていたのだろう。君は協力的だった。メモの力を知っているとしたら、ありえないほどに。君は自分の身に危険が及ぶと察することができる状況でも、ほとんど抵抗しなかった。君の勇気は尋常じゃない。君は優しさで誘い出すようにして、その実、恐怖の中心へと私を追い込んでいける人間だった。ある時君はメモの存在を知っていると打ち明けた。私が罪悪感に打ちのめされていたからだ。君は誠実で、責任の重さから『塩の』字が震えてしまったのだと思った。実際の君は、歓喜に震えていたんだ。かつてないやりがいを感じていた。中山部長に習うなら、作品の上限は作家の能力で決まると言えるかもしれないね。君がどれほど優秀であっても、結局は作家の実力以上のものを描かせることはできない」
私は台所から集めてきた刃物を、テーブルに並べていった。
「そんな君が私に打ち明けた。通常の時間的制約がない状況で、君が妥協するとしたらそれは、私の才能に見切りをつけたということだ。私にもようやく、塔田先生が編集者を超え流つもりで仕事をしなさいおっしゃった意味がわかったよ。メモ帳の怪異によるアドバンテージ。最大限に生かさなければならないと、決意を新たにした私は、君の打ち明け話を無かったことにした。私に余裕を感じれば、君はまた動き出す。気取られたらやり直せばいい。今では酸鼻な状況にも負けなくなったし、劇薬を盗むのも上手くなった。自分の限界がわかるというのは、気持ちの良いものではないね。危惧したとおり、君は本心から誉めてはくれなかった」
私はメモ帳をちらつかせた。
「早速新しい願いを書き込んだんだ。今なら校正ペンを君が持ってきている。校正ペンで句点を書き込めば、願いを取り消すことができるんだってね。願いを書き込む直前に戻れるんだ」
私はメモ帳を半田の目の前で開いてから、テーブルに置いた。
「絶対に叶えられない願いだ」
半田の目がかろうじて動いている。
半田の恐怖の中心にはなにがあるのだろう。これまでどんなにおどしても、演技以上のものを引き出せなかった。
「ひょっとしたら、読者としての君は満足したことがないんじゃないか?」
一つ仕事を終えるたびに、決して口にできない思いを溜め込んできたのだろう。
最大限を引き出した。売り上げは上々。評価もいい。
すぐに忘れ去られるだろうけど。
壊してもいいのなら、もっと書かせられるのにーー。
私は半田の鞄を漁って校正ペンを発見した。
「君を満足させられるのは私しかいない。そう気がついた時、言いようのない恐怖と共に、これまでにないやる気を感じたんだ」
状況が許せば、半田は間違いなく踏み越えるだろう。
校正ペンを使えば、無かったことにできる。罪には問われない。記憶も消えて、自分自身に失望することもない。ただし、私の記憶には残る。
メモを破き続けて、強みを活かしたこんくらべをするだろうか。私が見落としている回避法を閃くだろうか。それとも、愉悦を覚えるだろうか。
何度失敗してもいい。私には無限ともいえるチャンスがある。
薬の効果が切れてきた。半田が身体を動かそうとする。その顔は怯えているようにも見えるし、笑っているようにも見えた。
私は天井を向いて、口を大きく開けると、校正ペンを押し込むようにして飲み込んだ。
遠慮なく平らげた羊羹の上に落ちていく。
一息ついて、私は言った。
「君の中にいる、怪物について書こうと思うんだ」
至高のホラー小説が完成した暁には、君は誰よりも震撼するだろう。
君から戦慄を引き出すまで、決して逃がさないよ。
私に恐怖を見せてくれ
「暴く怖さ、暴かれる怖さ、ですかね」
「自信ないなぁ」
「またまたぁ。向いてますよ。絶対に。なにより私は、先生の書くホラーが読みたいんですよ」
そう言って、半田は笑顔で帰って行った。半田の手前、ああ言ったもの、それなりのものを書き上げる自信があった。
才能があるからではない。私には時間があるのだ。
五年前、文壇の大家である塔田先生から、無限とも言える時間を授かったのである。
『君は私に似ている。形になるまで時間がかかるが、その堅実さで生み出されるからこそ、時代を越える良さがある。でも、それでは食べていかれないだろう。僕には秘密があるんだ』
何百年も生きている仙人のように見えた先生は、実際に人生を何回分も生きていた。先生が数々の傑作を世に送り出せたのは、納得できるまで、何度も時を遡ることができたからだ。
次は君の番だと、先生は達磨を模したメモ帳を私に託した。
すでに先生は鬼籍に入られ、どこで手に入れたのかは聞かずじまいだった。
達磨。不倒翁。祈願成就の際に、目玉を書き入れる縁起物。
そのメモ帳は、書き込んだ願いが叶わなかった時、時間を巻き戻す力を持っている。
使い方はこうだ。一枚目に願い事を書き込み、閉じる。すると表紙の達磨の左目に梵字の阿の字が浮かび上がる。日付を書き込まない場合、書き込んだ日から一年後が期限だ。期限内に願いを叶えられないと、書き込んだ日に戻される。成就させると、右目に吽の字が浮かび上がり、まっさらなメモ帳に戻った。書き直すことはできず、メモ帳を破けば、祈願直後の起点まで時間が巻き戻される。火に
なかなかに危険な代物ではあるが、簡単に叶う願いを書いて、時間を巻き戻す効果を活用すればいい。
私は朝のうちにメモ帳に書き込んでいた。締め切りに合わせて、『200ページのホラー小説を十月五日までに書き上げる』と書いた。
メモを授かって四年目。私は気が大きくなっていた。正直言ってホラーは好きなジャンルではない。だが、持ち前の粘り強さで様々なジャンルに挑み、それなりに形にしてきた。
帰宅するなり、私は勢い込んで執筆を開始した。
「結局逃げているんだ。うん、逃げられるなら怖くないもんなあ」
「なるほど、逃げられない恐怖ですか」
二周目最初の打ち合わせ。短編をわんさか生み出して、どうにもならずに戻ってきた二周目だ。短くなるのは恐怖心の現れかも知れない。
さすがに今回は難しい戦いになりそうだ。アイデアに窮するのとは違う。
恐怖。逃げてあたりまえだ。目を背けたくなるものこそが、恐怖の対象だろう。
楽しく書いているやつなんかいるのかよ。
二周目にして早くも気が立っている。よくない兆候だ。
「恐怖は消費できない気がするんだよね」
「確かに、決定的な破綻が起きたら、どうしようもないかも知れませんね」
三周目最初の打ち合わせ。なんの救いのない話は大嫌いだ。けれど、ハッピーエンドじゃしっくりこない。自らを苦しめる状況設定で対応し、うまくいかずに断念して出直す三周目。
どうしても苦痛を軽減したくて心が騒ぎだす。設定の甘さから、解決策が思いついてしまう。喜んで救いに飛びついてしまう。
話にならない。
「他人への関心がないと、無害でも怖いと思ったんだけどね」
「そうなると、特定の相手を狙うには、特別な理由が必要になりますからね。執着があった方が理由もいりませんし、劇的ですもんね」
四周目最初の打ち合わせ。身の毛がよだつ状況を、どうにか作り出そうとして、ぱっとしないまますごすごと戻ってきた四周目。時に無関心は恐ろしい。そう思って考え続けたが、積極的な加害性と違って、展開しにくい。半田の言うおり、情念の方が怖かった。これなら巷の痴話喧嘩の方がよっぽど無惨だ。
「説得力がね、ないとね」
「理解できる恐怖の方が向いているかもしれませんね」
五周目最初の打ち合わせ。その世界の人間には当然のことでも、読者の目には恐ろしく見える日常を書けないかと思案して、よくわからなくなって舞い戻った五周目。史実から材を取ると歴史物になってしまう。困ってファンタジーめいた舞台にしてみるも、ますますホラーじゃなくなるだけだった。
「助けてくれた人が、犯人。ベタかぁ」
「まあ、目新しくはないですけど、それだけじゃないですよ」
六周目最初の打ち合わせ。教訓めいた結末しか引き出せずに挫折して、仕切り直しの六周目。目的を明確にすると範囲が限られるせいか、どうにも小さくまとまってしまう。権謀術数にあらわれる人心の怖さは、事実としてやり尽くされてる気がしてくる。
「ホラーとはなんだろう?」
「怪奇な趣向で恐怖を喚起することですかね」
七数目最初の打ち合わせ何が本当かわからないと怖い。そう思って書き進めるうちに自信がなくなって退散してきた七周目。半田との打ち合わせにも熱が入る。今思えば、最初の私は随分と過信していた。
人懐っこい話し方で、教養の高さをあまり表に出さないが、半田の博学ぶりは相当である。そして人がいい。
同じ日を繰り返すと、どうしても挙動におかしい部分が出る。半田なら、そうした部分に煩わされることなく伴走してくれそうな頼もしさがあった。
十二周目。早くも満足のいくものが書き上がり、一安心してメモ帳を確認した私は、首を傾げた。吽の字が現れない。阿の字が消えていないので、リセットされたわけでもない。
考えられることは一つである。成就できていないと言うことだ。
「馬鹿な……」
書き間違えたのかも知れないと不安になって、私は表紙をめくった。
「ひっ……!」
小さな悲鳴が漏れた。
記憶のとおり、私は過不足なく書いている。しかし、私のものではない歪んだ筆致で、赤く『塩の』と書き足されていた。
『200ページの塩の
ホラー小説を十月十五日までに
書き上げる』
あとから書き加えることはできないはずだぞ。
外出する時はいつもカバンに入れて持ち歩いている。誰かが関与するとは考えにくい。
つまりこれは、メモ帳の仕業なのか?
気持ちの整理がつかないまま、十月十五日を迎え、私は時を遡り、十二周目最初の打ち合わせに臨んだ。
「……塩のホラーを描こうと思うんだ」
「塩? へえ、どういった内容ですか?」
長々と話しておきながら、何も得られずに打ち合わせを終えた。
帰宅した私は一心不乱にキーボードを叩き続けた。以前に書き散らした短編の内容を利用して、勢い任せに二百ページを埋めにかかった。やろうと思えば簡単にページを稼ぐことができるのだ。
自分でも驚くほどの集中力で、翌朝には完成した。
メモ帳を確認する。吽の字は現れない。
ホラーじゃない? 塩が足りない? 今まではそんな厳しくはなかったぞ。うっかり条件を満たして、時間を失ったことだってある。
ふと、ある可能性に気がついた。
恐る恐るメモ帳の表紙をめくると、文字が増えていた。
『200ページの塩の傑作
ホラー小説を十月十五日までに
書き上げる』
傑作。
鼓動が耳元でわんわんなっている。
絶対に書き込んでならない言葉だった。
面壁九年。
先生が傑作を量産したのは、先生の完璧主義ゆえだと思っていた。
だが実際は、メモの力で傑作を書かざるをおえない状況にあったのではないかーー。
こんなことは聞いていない。私は騙されたのか?
先生の覚悟がにじむ言葉が思い出される。
『これはね、一人ぼっちの戦いなんだ。編集者を超えるつもりで仕事をしなさい』
「先生。塔田先生……」
私は頭を抱えた。
「不安なら書けるんだ……。でも、恐怖はどうしても書きたくない……」
「先生? 大丈夫ですか? 先生ーー」
二十三周目最初の打ち合わせ。恐怖の輪郭をなぞり続けて、核心に踏み込めずに戻された二十三周目。
私にはいくら時間を与えられたところで、才能がない。
傑作揃いの先生の著作の中で、代表作と目されたのはホラー小説だった。とてもじゃないが、私にはそのような名作は生み出せそうもない。しかし、作家としては凡人でも、並の作品を傑作と偽る読者ではない。この不一致は致命的だった。
励ましてくれる半田の声も、私には言葉として聞こえていなかった。
二十七周目。締切まであと一ヶ月となった日。半田が訪ねてきた。パソコンの前で黙り込む私の横で、本や資料集、おすすめ映画のレポートを並べ始める。
「厳選してきました。これなんかすごくーー」
努めて明るい声を出す半田に、私は怒鳴った。
「ホラーで悩んでいるのにホラーの話かよ!」
「すみません……」
半田は微塵も悪くない。私は仕方なく謝罪した。
「申し訳ない。悪かった……。あと、これは読んだ。これも見たし、そっちは知らない」
何度繰り返しても、半田には一回目だ。忙しい中、私の様子を敏感に感じ取っては、手助けに来てくれる。繰り返せばありがたみは薄れていくもので、気遣いさえも鬱陶しく感じた。次は気分転換を進めてくるに違いない。
「先生。気分転換をしましょう。まったく別のことから刺激を受ければ、新しいホラーが思いつくかもしれませんよ」
私は長いため息をついた。
このメモ帳の利点はなんだろう。
やはり、チャラにできることだろう。実際に行ったことを、なかったことにできる。
優しさにも慣れてしまうように。悪事もまた繰り返せば鈍麻するだろう。
三十三周目。私は虐待に手を染めた。
ハムスターを買ってきた。拷問してやろうと意気込んだが、軽く縛ったくらいでは簡単に抜け出してしまう。
もっときつく、骨格が歪むほどの責苦を。
だめだ、可愛すぎる。手元に置いとくだけで癒しになってしまう。
私はメモ帳を引き裂いた。
今度はできるだけ不細工な子犬を探した。ぺちゃんこ。短足。どれだけ罵ろうとも、家に連れ帰れば皆可愛い。
買い込んだ大量の針でいじめてやろうとしたが、悲壮な鳴き声はハムスター以上に胸を苛んだ。
だが、必ず帳消しにできるという安心感が消えることはない。
三十五周目のある日。私は半田を自宅に呼び出した。戸惑う半田を無理やり浴室に連れ込む。小柄で走る姿が不恰好な半田。反撃して私を取り押さえるなんて芸当はできないだろう。
私は包丁を突きつけた。
「小説のためなんだ。協力してくれ」
「ちょ、ちょっと待ってください! 先生、落ち着いてください!」
「道連れにされることほど、怖いことってないと思うんだ!」
私は叫んだ。身をこわばらせる半田。そこから、私は動けなくなった。踏み出すことができずに、包丁を置いた。
「すまない……」
「先生! お、お茶でも飲みましょう」
半田に背中をさすられながら、リビングへ連れて行かれる。散乱する塩の袋に、半田は面食らった。台所では、大量の塩が投入された鍋が煙を上げている。
「もしかして私を料理するつもりだったんですか?」
「塩煎り責め……」
「へぇ……、思いとどまってくれてよかったです。先生、いくらなんでも犯罪を行うのはおかしいですよ」
「ああ、刑務所に入る気は無いんだ」
四十八周目のある夜。私は半田を自宅に呼び出した。戸惑う半田を無理やり浴室に連れ込む。浴槽の黒い液体に気づいた半田を、私は力一杯突き飛ばした。頭から浴槽に突っ込む半田の両足を抱え上げて、上半身を醤油に沈める。ばたつく半田。ぶくぶくと湧いていた気泡がやんで、半田の身体から力が抜ける。
終わった。今ならまだ助かるかもしれないが、もう十分だろ。
私は情けない声を出しながら、這いずるようにして自室に駆け込んだ。
四十九周目。祈るような気持ちで、打ち合わせに向かった私は、半田の姿が目に入って全身の力が抜けた。びっくりして駆け寄る半田に対して、よかったよかったとそればかり口にした。
五十四周目。子供や老人を見るたびに、思わず目を逸らしてしまう。ついつい簡単に捕まえられそうな存在に目がいく。公園のベンチに座っていると、警察から職務質問を受けた。
五十九周目。先が見えない。不安は怒りに転嫁され、半田にぶつけられた。
「なんでホラーなんだよ! 向いてるって? そうか、そうだな! やってやるよ! やってやるからなぁ! ああ?」
六十周目の打ち合わせ。顔を見るなり泣き崩れた私を、半田が困惑しながら介抱してくれた。
六十四周目。だんだんと書くものが病的な腐臭を放つようになってきた。半田の反応は芳しくない。私にだけ怖い小説になっている気がする。完成するならそれでもかまわない。しかし、書けども書けどもメモ帳はリセットされない。
六十七周目。書庫をうろうろしていると、先生の小説が目にとまった。猟奇殺人を題材にした小説。瞠目のリアリティ。先生はどこまで試したのだろうか。
七十一周目。手が震える。身体が言うことをきかなくなってきた。半田はあまりに無防備で、簡単に手にかけることができた。
息苦しい。人を殺したまま作品を書き上げてしまったらどうしようと、心配ばかりしている。
恐怖の中心に踏み込めるのは気が触れた時ではないだろうか。不安を感じるだけ、まだまだ自分は正気なのだと思うと、涙が出た。
その時、ドアチャイムが鳴った。
七十七周目。心に平安が訪れた。
七十九周目。自殺したらどうなるだろうか。死んだまま期限を迎え、時間を巻き戻されて生き返るとは思うが、死が確定する可能性もなくはない。
死の恐怖。他人に命を狙われているならともかく、私にとって自殺は恐怖の対象とはならないだろう。自殺から恐怖を学ぼうとしても、むしろ笑える。頑張ったところで、自殺の達人という、おかしな存在になってしまうのだ。命が助かってしまう自殺に、恐怖は薄いだろう。狙うならば、自殺未遂だ。
首吊り自殺は気管と頸動脈、椎骨動脈と頸静脈を完全に閉塞させられなかった場合、脳への血流を遮断できずに三分近くも苦しみ抜いて窒息死し、鬱屈して腫れ上がった顔と、筋肉の弛緩による尾籠な状態を誰かの目に晒すことになるだろう。死ぬのにも、死に損なうにも、向いていない。
ガス自殺はガスの毒性が低く、爆発による火傷や挫傷の方で死にかねない。
硫化水素は悲惨だ。においも死体の見た目も最悪で、助け出されても、医師たちは防護服を着て裸にした患者を洗浄してからでないと治療を始められない。
飛び降り自殺は高さによってはほぼ確実に死ねるが、奇跡的に助かったり他人を巻き込むこともある。飛び降りて骨盤を粉砕し、入院生活の辛さから、二度と自殺はしないと誓った者もいるとか。
溺死はどうか。救命が遅くなるほど、後遺症は深刻で、社会復帰できる可能性は小さくなっていく。確実に死ぬために人気のない海で死んだとしよう。魚に食われるか、ぶくぶくの土左衛門で発見されるかするだろう。
自動車や列車への飛び込みは損傷が激しく、それでいて確実に死ねるわけではない。大抵の毒物は楽に死なせてくれないし、出血死するほどの自傷行為は滅多に達成できない。
肉体的に苦しい状況を探求するのは一つの手だが、賭けの要素が大きい。習熟してしまえば、恐怖が減ってしまうだろう。
自らの陳腐な感性に頼るのは私のやり方ではない。
私はいつも、他人の感性からなにかを拾い出してきた。
やっぱり私にはーー。
百周目。なんだかめでたい。
余裕を持って書き上げた私は、半田を自宅に呼んで、原稿を読んでもらった。
読み終えた半田が満面の笑みを浮かべた。
「最後の最後まで恐怖が貫かれていますよ! ハッピーエンドだというのに!」
私はまだ、半田の掌の上だろうか。
私はお茶とお茶菓子を勧めて、しばし談笑する。
「ありがとう。君のおかげだよ」
「いえいえ。タイトルは地の塩から来ているんでしょうか」
判断に迷うとしたら、それは初回しかない。半田の目を欺けるのは、一回目だけだろう。
半田は異変に気がついた。身体の自由が効かなくなり、声を出せなくなって目を見張る。
私は言った。
「最初は呪いかと思ったんだ。おどろおどろしい字だったから。『作品の下限は編集者の能力で決まる』と、塔田先生の盟友である中山部長に言われたんだってね。私が先生からメモ帳を託されたように、君は中山部長から校正ペンを託された。君は一番最初の打ち合わせで、私がトイレにたった隙に『塩の』と書き込んだんだ。そして、塩というキーワードを私が口にした日に、『傑作』と書き足した。君は無かったことにした時間の出来事を知流ことができないから、事前に入念な計画を練っていたのだろう。君は協力的だった。メモの力を知っているとしたら、ありえないほどに。君は自分の身に危険が及ぶと察することができる状況でも、ほとんど抵抗しなかった。君の勇気は尋常じゃない。君は優しさで誘い出すようにして、その実、恐怖の中心へと私を追い込んでいける人間だった。ある時君はメモの存在を知っていると打ち明けた。私が罪悪感に打ちのめされていたからだ。君は誠実で、責任の重さから『塩の』字が震えてしまったのだと思った。実際の君は、歓喜に震えていたんだ。かつてないやりがいを感じていた。中山部長に習うなら、作品の上限は作家の能力で決まると言えるかもしれないね。君がどれほど優秀であっても、結局は作家の実力以上のものを描かせることはできない」
私は台所から集めてきた刃物を、テーブルに並べていった。
「そんな君が私に打ち明けた。通常の時間的制約がない状況で、君が妥協するとしたらそれは、私の才能に見切りをつけたということだ。私にもようやく、塔田先生が編集者を超え流つもりで仕事をしなさいおっしゃった意味がわかったよ。メモ帳の怪異によるアドバンテージ。最大限に生かさなければならないと、決意を新たにした私は、君の打ち明け話を無かったことにした。私に余裕を感じれば、君はまた動き出す。気取られたらやり直せばいい。今では酸鼻な状況にも負けなくなったし、劇薬を盗むのも上手くなった。自分の限界がわかるというのは、気持ちの良いものではないね。危惧したとおり、君は本心から誉めてはくれなかった」
私はメモ帳をちらつかせた。
「早速新しい願いを書き込んだんだ。今なら校正ペンを君が持ってきている。校正ペンで句点を書き込めば、願いを取り消すことができるんだってね。願いを書き込む直前に戻れるんだ」
私はメモ帳を半田の目の前で開いてから、テーブルに置いた。
「絶対に叶えられない願いだ」
半田の目がかろうじて動いている。
半田の恐怖の中心にはなにがあるのだろう。これまでどんなにおどしても、演技以上のものを引き出せなかった。
「ひょっとしたら、読者としての君は満足したことがないんじゃないか?」
一つ仕事を終えるたびに、決して口にできない思いを溜め込んできたのだろう。
最大限を引き出した。売り上げは上々。評価もいい。
すぐに忘れ去られるだろうけど。
壊してもいいのなら、もっと書かせられるのにーー。
私は半田の鞄を漁って校正ペンを発見した。
「君を満足させられるのは私しかいない。そう気がついた時、言いようのない恐怖と共に、これまでにないやる気を感じたんだ」
状況が許せば、半田は間違いなく踏み越えるだろう。
校正ペンを使えば、無かったことにできる。罪には問われない。記憶も消えて、自分自身に失望することもない。ただし、私の記憶には残る。
メモを破き続けて、強みを活かしたこんくらべをするだろうか。私が見落としている回避法を閃くだろうか。それとも、愉悦を覚えるだろうか。
何度失敗してもいい。私には無限ともいえるチャンスがある。
薬の効果が切れてきた。半田が身体を動かそうとする。その顔は怯えているようにも見えるし、笑っているようにも見えた。
私は天井を向いて、口を大きく開けると、校正ペンを押し込むようにして飲み込んだ。
遠慮なく平らげた羊羹の上に落ちていく。
一息ついて、私は言った。
「君の中にいる、怪物について書こうと思うんだ」
至高のホラー小説が完成した暁には、君は誰よりも震撼するだろう。
君から戦慄を引き出すまで、決して逃がさないよ。
私に恐怖を見せてくれ