第2話 必要最低限の
文字数 2,314文字
なんてことだ!
ダニエーレは頭を抱えた。悔やんでも悔やみきれない。己の不甲斐なさに、斬鬼 の念が絶えない。滂沱 の涙を流し、噛みしめた唇に血を滴らせた。
このまま死ななければ、あの男になぶり殺されるまでだ。ヴィレイアの門はまだ堅牢だろうか。相手はあの悪魔どもだ。決して門を開けてはならないが、あくま相手だからこそ、恐怖に負けてしまうかもしれない。
ヴィレイアはうま味の多い街だ。この街を狙う勢力は後をたたず、それゆえに加勢してくる者も次々と現れた。どこの軍門にくだろうとも、たとえ仇敵に鞍替えしようとも、住民の命は安堵される。今まではそうしてこられた。だが、奴らにそれは通用しない。せっかく帝国の援助を取り付けたというのに、このまま知らせが届かなければ、奴らに突きつけられた期限を前に降伏してしまうだろう。
誰もがみな、ダニエーレの知らせを待っている。
小さな窓ひとつあったなら、頭を割り、両肩を砕き、骨盤を折ってでも脱出しただろう。
この牢獄には監視用の穴一つ開けられてはいなかった。分厚い鉄の檻は、閉じ込めて殺すためのものだった。
ダニエーレは覚悟を決めた。
こうなったら死して霊魂となり、役目を果たそう。
ダニエーレは左の二の腕を食いちぎり始めた。ざわざわと騒ぐ細胞が再生されるよりも早く肉を裂き、上腕骨に沿うようにして仕込んでいた 鋸刃 を引き出した。二の腕はすぐに、傷ひとつない綺麗な肌になった。ジュゼッペの命と引き換えに与えられた力である。こればかりは幼い肉体でなければならなかった。子息を差し出したカルロたちの顔が浮かぶ。
鋸刃はすっかり錆び付いているが、この鋸でなければすぐに傷が塞がってしてしまう。この 鈍 でやるしかない。
ダニエーレは首に鋸刃をあてがい、必死の形相で切り込んでいった。鋭い痛みに全身を震わせる。首筋を張るようにして、頭を後ろへ逸らし、こそげとるようにして、動脈を切り裂いた。鮮血が吹き出す中、込み上げてくる吐き気に屈して、ダニエーレは手を止めた。昏倒するのに十分なだけの血だまりができていた。けれど意識ははっきりしている。ジャコモに一生分の血液をもったからだ。
蠢く肉がゆっくりと再生に動き出す。
ダニエーレは気合を入れ直して、わななく手で服を引きちぎった。血溜まりに浸し、そのまま喉の奥まで詰め込んだ。指で押し込み、完全に気道を塞いだ。苦しくはない。チェーザレにこれから先の人生で吸うはずだった息を授けられたからだ。おかげで水路に潜んで四キロも泳ぎ、矢のように走ることもできた。
速やかに死ぬために、これらを浪費しなければならないことが情けなくて、囚われの身となってしまった自分が憎らしくて、ダニエーレは打ちのめされた。
あの男の強大で禍々しい力は、百人ではきかないだろう。
アントニオの申し出を受け入れて、鷹の目を手に入れるべきだったか。
もう一人犠牲にして、 梟 のごとく澄んだ目を備えるべきであったか。
もう三人犠牲にして、天馬も顔負けの飛翔を引き出すべきだったか。
もう五人犠牲にして、迅雷さえも恥じらう拳を振るうべきだったか。
もう九人犠牲にして、悪鬼を宿し、魔獣に身を堕とすべきだったのか。
いったいどれだけの命を捧げれなよかったというのだ!
ダニエーレは足の付け根を削るようにして切りつけ始めた。肉をかき分け、血飛沫 をあげながら、ダニエーレは生命力が蒸発して行くのを感じた。
なにゆえーー。
ダニエーレは衝撃に我を忘れた。にわかに激しい怒りが込み上げてくる。人の一生分の血液の量はこんなものではない。激しく消費していたとはとはいえ、呼吸にはまだ余力があってしかるべきだ。回復力がこの程度であるはずがない。
ダニエーレは目眩を感じ、息苦しさに喘いだ。
母上! なんという裏切り……!
他に考えられなかった。自分は父上の子ではないのだ。
誰もが呪術で肉体を強化できるわけではない。最大限の力を引き出すには、カンパネッラ家の血が不可欠だった。
なぜ黙っていた! お前は術者に相応しくないと!
冒涜 だ。どんな事情があったかはわからない。けれども、それは他人の生命を踏み躙 ってでも守らなければならないものだったのか。
従兄弟が八人もいるというのに!
どうして命が捧げられる前に、打ち明けなかったのか。ダニエーレがこうして捕まったのも、不完全な能力を実際以上に見誤ったからだとしたら……。
許されることではない!
ダニエーレは激怒しながらも、血に濡れた指で壁に術式を記していった。真っ暗闇でも、身体に叩き込まれたことは見えているかのように行える。果たして呪力は足りるだろうか。使えるのは一生で一回限り。自分一人分の命で、霊魂を自由にできるはずだった。カンパネッラ家の血筋なら。
それでもやるしかない。肋骨を避けて脇から鋸刃を心臓に到達させると、術式を開始した。
ダニエーレは泣きながらわび続けた。
すまない、チェーザレ。すまないジャコモ。ごめんよジュゼッペ。申し訳ない、カルロ、アンナ。すまない。すまない……。
やがて、死者の世界が見えてきた。ダニエーレは不意に気付いた。私は一人ではない。ダニエーレには四人分の魂が宿っていた。
皆の笑顔に奮い立ち、肉体から解き放たれたダニエーレは、足りない力を補い合いながら、故郷へと帰還した。恐怖に屈し、今まさに門の鍵を差し出そうとした王の前に現れた彼らは、援軍の知らせ奉告した。
四人は四散すると、街中に触れて周り、人々を勇気づけると、霧のように消え去った。
ヴィレイアの門は堅牢だ。
皆が歓喜に沸く中、例を見て恐怖した女が一人、短剣を手に事切れた。
ダニエーレは頭を抱えた。悔やんでも悔やみきれない。己の不甲斐なさに、
このまま死ななければ、あの男になぶり殺されるまでだ。ヴィレイアの門はまだ堅牢だろうか。相手はあの悪魔どもだ。決して門を開けてはならないが、あくま相手だからこそ、恐怖に負けてしまうかもしれない。
ヴィレイアはうま味の多い街だ。この街を狙う勢力は後をたたず、それゆえに加勢してくる者も次々と現れた。どこの軍門にくだろうとも、たとえ仇敵に鞍替えしようとも、住民の命は安堵される。今まではそうしてこられた。だが、奴らにそれは通用しない。せっかく帝国の援助を取り付けたというのに、このまま知らせが届かなければ、奴らに突きつけられた期限を前に降伏してしまうだろう。
誰もがみな、ダニエーレの知らせを待っている。
小さな窓ひとつあったなら、頭を割り、両肩を砕き、骨盤を折ってでも脱出しただろう。
この牢獄には監視用の穴一つ開けられてはいなかった。分厚い鉄の檻は、閉じ込めて殺すためのものだった。
ダニエーレは覚悟を決めた。
こうなったら死して霊魂となり、役目を果たそう。
ダニエーレは左の二の腕を食いちぎり始めた。ざわざわと騒ぐ細胞が再生されるよりも早く肉を裂き、上腕骨に沿うようにして仕込んでいた
鋸刃はすっかり錆び付いているが、この鋸でなければすぐに傷が塞がってしてしまう。この
ダニエーレは首に鋸刃をあてがい、必死の形相で切り込んでいった。鋭い痛みに全身を震わせる。首筋を張るようにして、頭を後ろへ逸らし、こそげとるようにして、動脈を切り裂いた。鮮血が吹き出す中、込み上げてくる吐き気に屈して、ダニエーレは手を止めた。昏倒するのに十分なだけの血だまりができていた。けれど意識ははっきりしている。ジャコモに一生分の血液をもったからだ。
蠢く肉がゆっくりと再生に動き出す。
ダニエーレは気合を入れ直して、わななく手で服を引きちぎった。血溜まりに浸し、そのまま喉の奥まで詰め込んだ。指で押し込み、完全に気道を塞いだ。苦しくはない。チェーザレにこれから先の人生で吸うはずだった息を授けられたからだ。おかげで水路に潜んで四キロも泳ぎ、矢のように走ることもできた。
速やかに死ぬために、これらを浪費しなければならないことが情けなくて、囚われの身となってしまった自分が憎らしくて、ダニエーレは打ちのめされた。
あの男の強大で禍々しい力は、百人ではきかないだろう。
アントニオの申し出を受け入れて、鷹の目を手に入れるべきだったか。
もう一人犠牲にして、
もう三人犠牲にして、天馬も顔負けの飛翔を引き出すべきだったか。
もう五人犠牲にして、迅雷さえも恥じらう拳を振るうべきだったか。
もう九人犠牲にして、悪鬼を宿し、魔獣に身を堕とすべきだったのか。
いったいどれだけの命を捧げれなよかったというのだ!
ダニエーレは足の付け根を削るようにして切りつけ始めた。肉をかき分け、
なにゆえーー。
ダニエーレは衝撃に我を忘れた。にわかに激しい怒りが込み上げてくる。人の一生分の血液の量はこんなものではない。激しく消費していたとはとはいえ、呼吸にはまだ余力があってしかるべきだ。回復力がこの程度であるはずがない。
ダニエーレは目眩を感じ、息苦しさに喘いだ。
母上! なんという裏切り……!
他に考えられなかった。自分は父上の子ではないのだ。
誰もが呪術で肉体を強化できるわけではない。最大限の力を引き出すには、カンパネッラ家の血が不可欠だった。
なぜ黙っていた! お前は術者に相応しくないと!
従兄弟が八人もいるというのに!
どうして命が捧げられる前に、打ち明けなかったのか。ダニエーレがこうして捕まったのも、不完全な能力を実際以上に見誤ったからだとしたら……。
許されることではない!
ダニエーレは激怒しながらも、血に濡れた指で壁に術式を記していった。真っ暗闇でも、身体に叩き込まれたことは見えているかのように行える。果たして呪力は足りるだろうか。使えるのは一生で一回限り。自分一人分の命で、霊魂を自由にできるはずだった。カンパネッラ家の血筋なら。
それでもやるしかない。肋骨を避けて脇から鋸刃を心臓に到達させると、術式を開始した。
ダニエーレは泣きながらわび続けた。
すまない、チェーザレ。すまないジャコモ。ごめんよジュゼッペ。申し訳ない、カルロ、アンナ。すまない。すまない……。
やがて、死者の世界が見えてきた。ダニエーレは不意に気付いた。私は一人ではない。ダニエーレには四人分の魂が宿っていた。
皆の笑顔に奮い立ち、肉体から解き放たれたダニエーレは、足りない力を補い合いながら、故郷へと帰還した。恐怖に屈し、今まさに門の鍵を差し出そうとした王の前に現れた彼らは、援軍の知らせ奉告した。
四人は四散すると、街中に触れて周り、人々を勇気づけると、霧のように消え去った。
ヴィレイアの門は堅牢だ。
皆が歓喜に沸く中、例を見て恐怖した女が一人、短剣を手に事切れた。