第1話 掟
文字数 6,654文字
最も憎い相手。その女だけが、マトイの喪失感を理解できる。共に禁忌を破ったマトイだけが、女の言葉が真実であることを知っている。女は今も病室の奥で笑っていた。
ツグミを救い出せるのは自分しかいない。
マトイは作り笑いを浮かべて、少女に話しかけた。
天人祭は松風家の人間が行わなければならない。
夏も盛り、日が沈むゆく中、鳴子は朗々と祈祷文を読み上げた。よりにもよって三色に染め上げられた頭髪で村に帰ってきた鳴子。けれども、東京暮らしのどこで身につけたのか、見事な裾捌きでお堂に上がると、鳴子は静々と戸を閉めた。
これより三日間、籠りを行う。
掟書に頭髪に関する記述はない。この娘なら大丈夫であろうと、村人たちは感心して引き上げていった。
お堂内は蝋燭に照らされ、重たい装束に身を縮こませたツグミが座していた。天女役に当たってしまったことが、恨めしくてならない。六十年に一度の奇妙な祭り。掟は厳しく、三日間、一言も発してはならないのだ。
すると、鳴子が口を開いた。
「ここの伝承は変わっている。舞い降りた天女の羽衣を隠してしまうところまではよくある話だ。ただ、帰してしまいたくないばかりに、羽衣を食べてしまったというのは珍しい。しかも、天女と結ばれることもなく、衰弱死させてしまうとは。やがて空へと村人が落ちていく災いが相次いでこの祭りが生まれたと。きっと、途中で有名な羽衣伝説が混入してしまったのだろう」
口を聞いてはならないのだ。ツグミは戸惑った。
鳴子は中央の床板をはずし始めた。小部屋が現れる。中には恭しく置かれた枕石と、無造作に置かれた柄の長いハンマーとタオル。枕石を抱え上げながら、鳴子は話し続けた。
「私はずっと奇跡を探していた。どこかに楽園があるかもしれない。どこかに幸せが眠っているかもしれないと。全国を渡り歩いたが、どこにも神秘はなかった。先月のことだ。この辺りにはかつて、死者を塩詰めにして埋葬する風習があった。ある家が墓終いをするのに合わせて、学術調査が行われた。異様な光景だった。フェノロサを見習うべきだったんだよ。どうせ、災いなど起きやしないのだから。あれらは災いから我々を守ってくれるわけじゃない。災いという脅しによって、人間から守られているのだ」
ツグミは不安で仕方なかった。枕石に触れてはならないと、掟にはそう書かれている。そして、鳴子が次になにをするかは明白だった。鳴子はタオルを敷くと、その上に枕石を置き、ハンマーを振りかぶった。甲高い音が鳴り響き、二発目で音が変わった。なんの迷いもなく振り下ろされた三発目で、小片を飛ばしながら、枕石はごとりと二つに割れた。
その時だった。ツグミの身体が何かに引っ張られ始めた。思わず声をあげそうになって、すぐに両手で口を塞ぐ。重ねた袿は重く、ゆっくりと身体が引き上げられる。もがくツグミの手を取って、鳴子はツグミの身体を上下に反転させた。鳴子が手を離すと、ツグミは天井に尻餅をついた。
景色がひっくり返り、着物の裾が浮き上がっている。
呆然とするツグミの下で、鳴子が奥に隠していた脚立を手に戻ってくる。脚立をのぼり、裳や袖をかき分けて、ツグミに抱きついた。床に向かって引き、それとなく力の強さを確かめている。
「本物に出会うとね。予感がするんだ。当たり前のことに感じられて、案外驚かないものなんだね」
愛おしそうに抱きしめていた鳴子は、ツグミの髪留めを解き、帯に手を伸ばした。
「これは地上へと縛り付けるものだから」
我に返ったツグミは、慌てて鳴子の腕を振り払った。倒れ込むようにしてその手を逃れ、掴まれないように裾や袖を身体の下に挟み込む。蝋燭の灯りは天井には届かない。薄暗い中、鳴子はツグミの目を凝視していた。
(この人、おかしい……)
お祭りの巫女は、籤 によって、東京に出ていた松風家の次女の末娘に白羽の矢がたった。最初は嫌がっていた鳴子だが、掟は絶対であるという祖母に説得されてやってきた鳴子に、村人達は眉をひそめた。派手な格好をしていたからだ。けれど、見た目とは裏腹に、鳴子はやる気に満ちていた。着付けの習熟ぶりに、血は争えないとみんなは喜んでいた。
遊んでもらったのは十年も前だ。鳴子が当主の家に帰省したのは五年前が最後だと近所の人は話していた。
ツグミは恐る恐る尋ねた。
「あなた、誰?」
「松風家の人間ではない。それで十分だ」
女は手を伸ばして怯えるツグミを引き寄せた。そして何度も何度もつぐみの髪に指を通した。滑らかな髪はするりするりと天井へと落ちる。地球の引力とは反対方向に、引き付けられていた。
ツグミはだんだんと呼吸が浅くなっていくのを止められなかった。
(伝承は本当にあったことなんだ……)
村人が次々と空へと落ちていったーー。
泣き出したツグミの頬を、女は優しく包み込んだ。逆さまになったツグミを見つめて、ため息を漏らす。ツグミの涙は睫 に弾かれて、重力のままに床へと落ちた。
「天上では涙と無縁でいられるのかな」
女は懐からハンカチを取り出すと、涙を集めるようにして丁寧に拭った。
目を合わせようとする女を避けるツグミに、女は言った。
「いや疑いは人間にあり。天に偽りなきものをーー。つぐみ、なにも恐れることはない。天女の住まう場所は、嘘のない素晴らしい世界なんだから」
つぐみはぐっと噛み締めた。
(だったらあなた一人で行けばいいのに)
天地が逆さまになったせいで、世界がひどく狭くなったように感じられた。つぐみは涙を流しながらも、助かる方法を考えた。戸はすべて、床付近にある留木で封じられている。このお堂は山の中腹にあり、近くに民家はない。逆さまの状態では、とても外には出られないだろう。人が来るのを待つしかない。籠りの間は人払いがされているが、食事の運搬だけは別だ。ツグミは一刻も早く朝がやってくるようにと、切に願った。
高い山々に囲まれたこの村の夕刻は唐突に始まり、朝日の到来も遅い。
息が詰まる長い夜。締め切られたお堂内は空気が停滞している。ツグミは重ね着をしているせいで、余計に暑い。世話を焼こうとする女を拒んでいたツグミだったが、すぐに音を上げた。
濡らした手拭いで、汗ばんだ身体を拭き清めてもらう。着付けてもらう際に、女は袿を減らして裳をつけずに済ましせたが、ツグミはなにも言わなかった。
女が水差しと盃を持ってきた。
喉が渇いてしょうがなかったが、またも掟を破らされると思うと、素直に受け取ることができない。許されている清めの水ではないかもしれないし、人を呼べないように薬を盛られるかもしれない。脚立を登りながら、女は声をかけた。
「ただの水だ。本当に。清めの水は飲まなくてはいけないものだ」
女は盃に水を注ぐと自らあおった。そして再び水をいれ、ツグミに差し出した。
ツグミは恐る恐る手を伸ばした。逆さまの盃に戸惑いながら、少しだけ口をつける。水に思えた。そう思うともう止められなかった。こぼしながらも、一気に飲み干す。
満たされたのも一瞬、ツグミはすぐに後悔することとなった。先ほどよりも一層強く、天井へ向かって身体が引きつけられている。身体を折って、重さに耐えながら、ツグミは女を激しく恨んだ。
女はツグミが落とした盃を、受け止めた。
「これは水だ。そして清めの水とは塩水のことだ。ここは山に囲まれているが、地下にかつて海だった地層があるおかげで、豊富に塩水が沸くそうだね」
ツグミにはわけがわからなかった。
「いったい、なにが、したいの?」
「思うんだ。かつて何某が羽衣を飲み込んだというのは、聖性を奪ったという意味だろう。それは塩によってなされたんじゃないかな。人間にとっては汚れを祓うものだが、天人にとっては聖性を打ち消すものなのかもしれない。まったく逆の世界から来たんだ。だから恐れなくていい。ツグミ、あなたは聖化されているんだよ」
(ああ、行ってしまう……)
朝食の受け渡しが済んでその人が去っていく気配を、ツグミはなにもできずに見送った。重さと暑さに一晩中耐えたことで、ツグミの体力は無くなっていた。スースーと細く息をしながら、ぐったりと天井に倒れ込んで、動けずにいた。
日が昇り、お堂内の温度が上がっていく。ツグミはすすめられるままに水を口にした。暑さで意識が朦朧とし、考える気力が奪われていく。とっぷりと日が暮れた後も、女に身をまかせたままだ。身体を拭いてもらい、肌小袖でを着せてもらう。女は袿を着せようとはしなかった。ツグミはただただ、夜風の心地よさを感じていた。
戸が一枚、わずかに開けられいた。
女はツグミと天井の間に上半身を滑り込ませ、頬を重ねた。吸い付くような白いやわ肌は、自ら光を発しているかのように輝いて見えた。
「ツグミ。誰でも行けるわけではないんだよ。どうやら脂肪や筋肉量、骨密度が関係しているようなんだ。これでも節制したんだよ。限られた成長期に、天の扉は開かれるんだ」
女は粘りつくような視線を感じていた。思惑通り、あいつが役目を果たした。
一つになってしまいそうなほど、頰と頬がくっつく。ツグミを引っ張る力が増し、一人分の重さを超えていることに女は心を躍らせた。
もう少し、と女はつぶやいた。
決して、掟を破ってはならない。
一つ、祭りを行うのは松風家の人間でなければならない。
一つ、口を聞いてはならない。
一つ、枕石に触れてはならない。
一つ、清めの水を飲むことを怠ってはならない。
一つ、村人は見てはならない。
一つ、お堂の外に出てはならない。
まもなく夜明ける。
苦しそうに呼吸するツグミの口に、女は塩を含ませた。指の腹で、ざらりと舌の上に押し付けられる。
辛さに顔をしかめたツグミは、押し潰さんばかりに身体を天井に留めていた力が消えていくのを感じた。身体はみるみる軽くなり、女に手を引かれて、ツグミは床に降り立った。
安心するまもなく、弱りきったツグミを抱き抱えて、女は駆け出した。開け放たれた戸から、勢いよく外へと飛び出す。
逃れようと身を捩ったツグミは、身体が徐々に上へと引かれ始めていることに気がついて凍りついた。すぐに女の身体ごと浮き上がる。
必死にそばの茂みへと手を伸ばすが、見る間に遠ざかっていった。二人は木々の高さをこえて空に向かって飛んでいく。
ツグミは叫んだ。大地に涙を落としながら、懸命に人影を探した。家の明かりもほとんど見当たらない。家の影も、道の広さも、すぐに形がわからなくなって、すべてが闇に溶けていく。ツグミたちは速度を増して空へと落ちていった。
風を切る音に混じって、女の声が途切れ途切れに聞こえた。
「ツグミ。夜明け前が一番暗いんだ」
山の向こうから、白い光が差した。
白み始めた遠くの街から、次第に夜が消えていく。
「見てごらんよ」
光の帯を眺める女の腕の中で、ツグミは押し黙って耐えていた。
女は笑い出した。
「ほら、天の光だ」
鳴子が消えた。騒動を聞きつけて、マトイは落ち着かなかった。
(自分が掟を破ったからだ……)
好奇心に負けて、祭りの最中にお堂の中をのぞいた。そして、驚きの光景をその目に焼き付けた。この世のものとは思えない怪しさに、何度も息を呑んだ。けれども、いつになく美しいツグミは苦しそうだった。
自分は本当にあの場所へと行ったのだろうか。夢の中だったんじゃないかと思い始めていたところで、鳴子の失踪を知った。村人総出で、村中を探したが見つからず、警察を呼ぶことが決まる。
マトイが昨晩のことを打ち明けるべきか迷っていると、あっさりと鳴子は見つかった。連絡を受けた東京の母親がスマホに電話をすると、鳴子が出たのだ。鳴子は友人と沖縄にいた。母親に問い詰められ、この村に来たのは同じ大学に通う坂上七子であることを白状した。
祭りに参加したくなかった鳴子は、祭りに興味を示した文化人類学科の七子に身代わりを頼んだのだ。
失踪したのは七子だ。すでに掟は破られていたことで、マトイは内心ほっとした。ツグミにバレて逃げ帰ったのではないかと思えた。どこで事情を聞かれているのか探し始めたマトイに、小松は疑わしそうに言った。
「ツグミ? 違う、巫女は七子さんだ」
山内は首を傾げる。
「カゴが空いていたから、七子さんが逃したんじゃないか?」
莉緒は首を傾げた。
「何? 天女役って」
安藤は驚いて足を止めた。マトイは必死になって訴えた。自分も掟を破ってしまったこと。ツグミが天井まで浮き上がっていたこと。もしかしたら、空に落ちてしまったかもしれないこと。
安藤は気遣うように優しい声を出した。
「昔は妄執の塩と呼ばれてな。ここの塩は人を虜にする。それはそれは高値で取引されたらしい。ここの祭りは邪心をはかるーー大げさだな。約束を守れるか確かめ合うものためにあるんだ。松風さんの家は塩を守る呪術師だったとか。うちもその呪術師の流れを組んでるから、お役目がある。ルールを破った者は生きたまま塩漬けにされるなんて物騒な話も残っているほど、呪術が渦巻く村だったんだ。その残滓なのか……。なんだ、まあ、少し落ち着け」
マトイは蒼白になって声を振るわせた。
「あなたの娘がいなくなったんですよ」
「マトイ。そこに友理はちゃんといるぞ」
「長女のツグミは!」
「私たちの家が代々、鳥の鶫 を飼育しているのは知っているな? あれはな、掟が守られているかーー」
マトイは首を振りながら後ずさった。悲しそうな顔を向ける安藤の視線を振り切って、自宅へと駆け込んだ。
(置き換えられてる! 娘が消えたのに!)
卒業アルバム。記録類をあるだけ引っ張り出した。マトイは家中を探し回り、スマホやパソコンのフォルダをくまなくチェックして、学校へも探しにいった。
この地で生まれ、この村から出たことがないツグミ。ありありと思い出せる記憶の数々。小柄で、理科が苦手で、雷が嫌い。田舎育ちだけあって、昆虫が好きで、猫は苦手だ。花の髪飾りを作るのが趣味で、とうもろこしが大好きな中学生。元気で、涙もろくて、みんなから好かれていたのに、役場にも記録がない。
痕跡を探してお堂の前まできたマトイは、呆然と立ち尽くした。
羽衣を失い、帰ることが叶わなかった天女。
代わりにツグミを連れて行くというのかーー。
七子が見つかったという知らせを受けて、マトイは急いで駆けつけた。山中で大怪我をしているところを発見されたのだ。担架に乗せられ村へとおろされた七子に、マトイは詰め寄った。
「ツグミは! ツグミはどうした!」
つかみかかろうとするマトイを中井巡査が止めに入る。
「骨折しているんだぞ」
「置いてきたのか!」
「マトイ!」
「こいつは天上にツグミを置いてきたんだ」
「天上? 崖から落ちたんだ」
七子がうめいた。
「そ、その子の、言うとおりだ。私は空から落ちてきたんだーー」
マトイは期待を込めて周囲の村人を見回した。誰かがポツリと、つぶやいた。
「塩に囚われてる」
皆が気の毒そうな顔で沈黙し、蝉の声だけがマトイの頭にこだました。
マトイは七子をにらんだ。まるで完全犯罪だ。一人の人生を消し去って、罰する根拠さえも奪い去った。
すると、七子が涙を流して笑い始めた。
「天上に嘘はなかったよ! ははっ、嘘をつかないなんて正気じゃない。それが成立するんて、あんな世界、まともじゃない! 人でなしだ!」
尋常じゃなく身体を震わせる七子。
マトイは巡査たちともみあいになった。
「どうしてそんなところに置いてきたんだ! 自分だけ助かるなんて!」
「助けようとした! 助けようとしたんだ! 天上に塩はない! どうしればよかったっていうんだ!」
天まで駆け上がって、天人どもからツグミを救い出し、手を取り合って空から降りてくる。そんなことを夢に見る。
ぐんぐんと身体が浮き上がって、血液が沸騰して死ぬ夢をみる。
どこにもたどり着けずに、凍える夢を見る。
あと少しというところで、窒息する夢を見る。
ツグミが助けを求めている声が聞こえる。
教師の仕事はいい。身長と体重を把握できる。塩を抜くダイエットが効くと言えば、簡単に信じる。死体を漬けた塩が入っているといえば、口にしなくなる。
連続している失踪事件の話をしてもいい。
彼女たちは空っぽだ。
「今度こそ」
(必ず助けに行くよ。たくさんの塩を持って)
ほっそりと痩せた身体で、マトイは微笑んだ。
ツグミを救い出せるのは自分しかいない。
マトイは作り笑いを浮かべて、少女に話しかけた。
天人祭は松風家の人間が行わなければならない。
夏も盛り、日が沈むゆく中、鳴子は朗々と祈祷文を読み上げた。よりにもよって三色に染め上げられた頭髪で村に帰ってきた鳴子。けれども、東京暮らしのどこで身につけたのか、見事な裾捌きでお堂に上がると、鳴子は静々と戸を閉めた。
これより三日間、籠りを行う。
掟書に頭髪に関する記述はない。この娘なら大丈夫であろうと、村人たちは感心して引き上げていった。
お堂内は蝋燭に照らされ、重たい装束に身を縮こませたツグミが座していた。天女役に当たってしまったことが、恨めしくてならない。六十年に一度の奇妙な祭り。掟は厳しく、三日間、一言も発してはならないのだ。
すると、鳴子が口を開いた。
「ここの伝承は変わっている。舞い降りた天女の羽衣を隠してしまうところまではよくある話だ。ただ、帰してしまいたくないばかりに、羽衣を食べてしまったというのは珍しい。しかも、天女と結ばれることもなく、衰弱死させてしまうとは。やがて空へと村人が落ちていく災いが相次いでこの祭りが生まれたと。きっと、途中で有名な羽衣伝説が混入してしまったのだろう」
口を聞いてはならないのだ。ツグミは戸惑った。
鳴子は中央の床板をはずし始めた。小部屋が現れる。中には恭しく置かれた枕石と、無造作に置かれた柄の長いハンマーとタオル。枕石を抱え上げながら、鳴子は話し続けた。
「私はずっと奇跡を探していた。どこかに楽園があるかもしれない。どこかに幸せが眠っているかもしれないと。全国を渡り歩いたが、どこにも神秘はなかった。先月のことだ。この辺りにはかつて、死者を塩詰めにして埋葬する風習があった。ある家が墓終いをするのに合わせて、学術調査が行われた。異様な光景だった。フェノロサを見習うべきだったんだよ。どうせ、災いなど起きやしないのだから。あれらは災いから我々を守ってくれるわけじゃない。災いという脅しによって、人間から守られているのだ」
ツグミは不安で仕方なかった。枕石に触れてはならないと、掟にはそう書かれている。そして、鳴子が次になにをするかは明白だった。鳴子はタオルを敷くと、その上に枕石を置き、ハンマーを振りかぶった。甲高い音が鳴り響き、二発目で音が変わった。なんの迷いもなく振り下ろされた三発目で、小片を飛ばしながら、枕石はごとりと二つに割れた。
その時だった。ツグミの身体が何かに引っ張られ始めた。思わず声をあげそうになって、すぐに両手で口を塞ぐ。重ねた袿は重く、ゆっくりと身体が引き上げられる。もがくツグミの手を取って、鳴子はツグミの身体を上下に反転させた。鳴子が手を離すと、ツグミは天井に尻餅をついた。
景色がひっくり返り、着物の裾が浮き上がっている。
呆然とするツグミの下で、鳴子が奥に隠していた脚立を手に戻ってくる。脚立をのぼり、裳や袖をかき分けて、ツグミに抱きついた。床に向かって引き、それとなく力の強さを確かめている。
「本物に出会うとね。予感がするんだ。当たり前のことに感じられて、案外驚かないものなんだね」
愛おしそうに抱きしめていた鳴子は、ツグミの髪留めを解き、帯に手を伸ばした。
「これは地上へと縛り付けるものだから」
我に返ったツグミは、慌てて鳴子の腕を振り払った。倒れ込むようにしてその手を逃れ、掴まれないように裾や袖を身体の下に挟み込む。蝋燭の灯りは天井には届かない。薄暗い中、鳴子はツグミの目を凝視していた。
(この人、おかしい……)
お祭りの巫女は、
遊んでもらったのは十年も前だ。鳴子が当主の家に帰省したのは五年前が最後だと近所の人は話していた。
ツグミは恐る恐る尋ねた。
「あなた、誰?」
「松風家の人間ではない。それで十分だ」
女は手を伸ばして怯えるツグミを引き寄せた。そして何度も何度もつぐみの髪に指を通した。滑らかな髪はするりするりと天井へと落ちる。地球の引力とは反対方向に、引き付けられていた。
ツグミはだんだんと呼吸が浅くなっていくのを止められなかった。
(伝承は本当にあったことなんだ……)
村人が次々と空へと落ちていったーー。
泣き出したツグミの頬を、女は優しく包み込んだ。逆さまになったツグミを見つめて、ため息を漏らす。ツグミの涙は
「天上では涙と無縁でいられるのかな」
女は懐からハンカチを取り出すと、涙を集めるようにして丁寧に拭った。
目を合わせようとする女を避けるツグミに、女は言った。
「いや疑いは人間にあり。天に偽りなきものをーー。つぐみ、なにも恐れることはない。天女の住まう場所は、嘘のない素晴らしい世界なんだから」
つぐみはぐっと噛み締めた。
(だったらあなた一人で行けばいいのに)
天地が逆さまになったせいで、世界がひどく狭くなったように感じられた。つぐみは涙を流しながらも、助かる方法を考えた。戸はすべて、床付近にある留木で封じられている。このお堂は山の中腹にあり、近くに民家はない。逆さまの状態では、とても外には出られないだろう。人が来るのを待つしかない。籠りの間は人払いがされているが、食事の運搬だけは別だ。ツグミは一刻も早く朝がやってくるようにと、切に願った。
高い山々に囲まれたこの村の夕刻は唐突に始まり、朝日の到来も遅い。
息が詰まる長い夜。締め切られたお堂内は空気が停滞している。ツグミは重ね着をしているせいで、余計に暑い。世話を焼こうとする女を拒んでいたツグミだったが、すぐに音を上げた。
濡らした手拭いで、汗ばんだ身体を拭き清めてもらう。着付けてもらう際に、女は袿を減らして裳をつけずに済ましせたが、ツグミはなにも言わなかった。
女が水差しと盃を持ってきた。
喉が渇いてしょうがなかったが、またも掟を破らされると思うと、素直に受け取ることができない。許されている清めの水ではないかもしれないし、人を呼べないように薬を盛られるかもしれない。脚立を登りながら、女は声をかけた。
「ただの水だ。本当に。清めの水は飲まなくてはいけないものだ」
女は盃に水を注ぐと自らあおった。そして再び水をいれ、ツグミに差し出した。
ツグミは恐る恐る手を伸ばした。逆さまの盃に戸惑いながら、少しだけ口をつける。水に思えた。そう思うともう止められなかった。こぼしながらも、一気に飲み干す。
満たされたのも一瞬、ツグミはすぐに後悔することとなった。先ほどよりも一層強く、天井へ向かって身体が引きつけられている。身体を折って、重さに耐えながら、ツグミは女を激しく恨んだ。
女はツグミが落とした盃を、受け止めた。
「これは水だ。そして清めの水とは塩水のことだ。ここは山に囲まれているが、地下にかつて海だった地層があるおかげで、豊富に塩水が沸くそうだね」
ツグミにはわけがわからなかった。
「いったい、なにが、したいの?」
「思うんだ。かつて何某が羽衣を飲み込んだというのは、聖性を奪ったという意味だろう。それは塩によってなされたんじゃないかな。人間にとっては汚れを祓うものだが、天人にとっては聖性を打ち消すものなのかもしれない。まったく逆の世界から来たんだ。だから恐れなくていい。ツグミ、あなたは聖化されているんだよ」
(ああ、行ってしまう……)
朝食の受け渡しが済んでその人が去っていく気配を、ツグミはなにもできずに見送った。重さと暑さに一晩中耐えたことで、ツグミの体力は無くなっていた。スースーと細く息をしながら、ぐったりと天井に倒れ込んで、動けずにいた。
日が昇り、お堂内の温度が上がっていく。ツグミはすすめられるままに水を口にした。暑さで意識が朦朧とし、考える気力が奪われていく。とっぷりと日が暮れた後も、女に身をまかせたままだ。身体を拭いてもらい、肌小袖でを着せてもらう。女は袿を着せようとはしなかった。ツグミはただただ、夜風の心地よさを感じていた。
戸が一枚、わずかに開けられいた。
女はツグミと天井の間に上半身を滑り込ませ、頬を重ねた。吸い付くような白いやわ肌は、自ら光を発しているかのように輝いて見えた。
「ツグミ。誰でも行けるわけではないんだよ。どうやら脂肪や筋肉量、骨密度が関係しているようなんだ。これでも節制したんだよ。限られた成長期に、天の扉は開かれるんだ」
女は粘りつくような視線を感じていた。思惑通り、あいつが役目を果たした。
一つになってしまいそうなほど、頰と頬がくっつく。ツグミを引っ張る力が増し、一人分の重さを超えていることに女は心を躍らせた。
もう少し、と女はつぶやいた。
決して、掟を破ってはならない。
一つ、祭りを行うのは松風家の人間でなければならない。
一つ、口を聞いてはならない。
一つ、枕石に触れてはならない。
一つ、清めの水を飲むことを怠ってはならない。
一つ、村人は見てはならない。
一つ、お堂の外に出てはならない。
まもなく夜明ける。
苦しそうに呼吸するツグミの口に、女は塩を含ませた。指の腹で、ざらりと舌の上に押し付けられる。
辛さに顔をしかめたツグミは、押し潰さんばかりに身体を天井に留めていた力が消えていくのを感じた。身体はみるみる軽くなり、女に手を引かれて、ツグミは床に降り立った。
安心するまもなく、弱りきったツグミを抱き抱えて、女は駆け出した。開け放たれた戸から、勢いよく外へと飛び出す。
逃れようと身を捩ったツグミは、身体が徐々に上へと引かれ始めていることに気がついて凍りついた。すぐに女の身体ごと浮き上がる。
必死にそばの茂みへと手を伸ばすが、見る間に遠ざかっていった。二人は木々の高さをこえて空に向かって飛んでいく。
ツグミは叫んだ。大地に涙を落としながら、懸命に人影を探した。家の明かりもほとんど見当たらない。家の影も、道の広さも、すぐに形がわからなくなって、すべてが闇に溶けていく。ツグミたちは速度を増して空へと落ちていった。
風を切る音に混じって、女の声が途切れ途切れに聞こえた。
「ツグミ。夜明け前が一番暗いんだ」
山の向こうから、白い光が差した。
白み始めた遠くの街から、次第に夜が消えていく。
「見てごらんよ」
光の帯を眺める女の腕の中で、ツグミは押し黙って耐えていた。
女は笑い出した。
「ほら、天の光だ」
鳴子が消えた。騒動を聞きつけて、マトイは落ち着かなかった。
(自分が掟を破ったからだ……)
好奇心に負けて、祭りの最中にお堂の中をのぞいた。そして、驚きの光景をその目に焼き付けた。この世のものとは思えない怪しさに、何度も息を呑んだ。けれども、いつになく美しいツグミは苦しそうだった。
自分は本当にあの場所へと行ったのだろうか。夢の中だったんじゃないかと思い始めていたところで、鳴子の失踪を知った。村人総出で、村中を探したが見つからず、警察を呼ぶことが決まる。
マトイが昨晩のことを打ち明けるべきか迷っていると、あっさりと鳴子は見つかった。連絡を受けた東京の母親がスマホに電話をすると、鳴子が出たのだ。鳴子は友人と沖縄にいた。母親に問い詰められ、この村に来たのは同じ大学に通う坂上七子であることを白状した。
祭りに参加したくなかった鳴子は、祭りに興味を示した文化人類学科の七子に身代わりを頼んだのだ。
失踪したのは七子だ。すでに掟は破られていたことで、マトイは内心ほっとした。ツグミにバレて逃げ帰ったのではないかと思えた。どこで事情を聞かれているのか探し始めたマトイに、小松は疑わしそうに言った。
「ツグミ? 違う、巫女は七子さんだ」
山内は首を傾げる。
「カゴが空いていたから、七子さんが逃したんじゃないか?」
莉緒は首を傾げた。
「何? 天女役って」
安藤は驚いて足を止めた。マトイは必死になって訴えた。自分も掟を破ってしまったこと。ツグミが天井まで浮き上がっていたこと。もしかしたら、空に落ちてしまったかもしれないこと。
安藤は気遣うように優しい声を出した。
「昔は妄執の塩と呼ばれてな。ここの塩は人を虜にする。それはそれは高値で取引されたらしい。ここの祭りは邪心をはかるーー大げさだな。約束を守れるか確かめ合うものためにあるんだ。松風さんの家は塩を守る呪術師だったとか。うちもその呪術師の流れを組んでるから、お役目がある。ルールを破った者は生きたまま塩漬けにされるなんて物騒な話も残っているほど、呪術が渦巻く村だったんだ。その残滓なのか……。なんだ、まあ、少し落ち着け」
マトイは蒼白になって声を振るわせた。
「あなたの娘がいなくなったんですよ」
「マトイ。そこに友理はちゃんといるぞ」
「長女のツグミは!」
「私たちの家が代々、鳥の
マトイは首を振りながら後ずさった。悲しそうな顔を向ける安藤の視線を振り切って、自宅へと駆け込んだ。
(置き換えられてる! 娘が消えたのに!)
卒業アルバム。記録類をあるだけ引っ張り出した。マトイは家中を探し回り、スマホやパソコンのフォルダをくまなくチェックして、学校へも探しにいった。
この地で生まれ、この村から出たことがないツグミ。ありありと思い出せる記憶の数々。小柄で、理科が苦手で、雷が嫌い。田舎育ちだけあって、昆虫が好きで、猫は苦手だ。花の髪飾りを作るのが趣味で、とうもろこしが大好きな中学生。元気で、涙もろくて、みんなから好かれていたのに、役場にも記録がない。
痕跡を探してお堂の前まできたマトイは、呆然と立ち尽くした。
羽衣を失い、帰ることが叶わなかった天女。
代わりにツグミを連れて行くというのかーー。
七子が見つかったという知らせを受けて、マトイは急いで駆けつけた。山中で大怪我をしているところを発見されたのだ。担架に乗せられ村へとおろされた七子に、マトイは詰め寄った。
「ツグミは! ツグミはどうした!」
つかみかかろうとするマトイを中井巡査が止めに入る。
「骨折しているんだぞ」
「置いてきたのか!」
「マトイ!」
「こいつは天上にツグミを置いてきたんだ」
「天上? 崖から落ちたんだ」
七子がうめいた。
「そ、その子の、言うとおりだ。私は空から落ちてきたんだーー」
マトイは期待を込めて周囲の村人を見回した。誰かがポツリと、つぶやいた。
「塩に囚われてる」
皆が気の毒そうな顔で沈黙し、蝉の声だけがマトイの頭にこだました。
マトイは七子をにらんだ。まるで完全犯罪だ。一人の人生を消し去って、罰する根拠さえも奪い去った。
すると、七子が涙を流して笑い始めた。
「天上に嘘はなかったよ! ははっ、嘘をつかないなんて正気じゃない。それが成立するんて、あんな世界、まともじゃない! 人でなしだ!」
尋常じゃなく身体を震わせる七子。
マトイは巡査たちともみあいになった。
「どうしてそんなところに置いてきたんだ! 自分だけ助かるなんて!」
「助けようとした! 助けようとしたんだ! 天上に塩はない! どうしればよかったっていうんだ!」
天まで駆け上がって、天人どもからツグミを救い出し、手を取り合って空から降りてくる。そんなことを夢に見る。
ぐんぐんと身体が浮き上がって、血液が沸騰して死ぬ夢をみる。
どこにもたどり着けずに、凍える夢を見る。
あと少しというところで、窒息する夢を見る。
ツグミが助けを求めている声が聞こえる。
教師の仕事はいい。身長と体重を把握できる。塩を抜くダイエットが効くと言えば、簡単に信じる。死体を漬けた塩が入っているといえば、口にしなくなる。
連続している失踪事件の話をしてもいい。
彼女たちは空っぽだ。
「今度こそ」
(必ず助けに行くよ。たくさんの塩を持って)
ほっそりと痩せた身体で、マトイは微笑んだ。