第6話 光
文字数 2,221文字
目が覚めたはずだった。
真っ暗だ。脇腹が痛い。右足がすごく痛い。マリーヤは戸惑いを覚えた。
「先生!」と呼ぶ声がして、走り去る音と、こちらへ向かう足音がある。
「パブロヴァさん。ここは病院です。あなたは自宅にいて、飛行機の墜落事故に巻き込まれたのです」
「足が痛い……」
「すぐに先生が来ます。大丈夫ですよ」
マリーヤは自分の顔を触った。右頬にガーゼ。頭には包帯。目には何も施されていない。そして、左手ばかりが顔に触れている。
(目が見えない……? 私の右腕はどこにいったの?)
「ああ、ああ!」
身体を震わせて、マリーヤは叫び出した。
失明していた。右腕は二の腕より先がない。右足を骨折し、骨髄炎を併発していた。
そして、味覚が消失していた。
目が見えない不自由さもあって、味のしない食事は苦痛でしかなかった。
ベッドの上からは容易に動けず、入院生活は退屈だった。
お父さんとお母さん、愛猫のクレーヴェルはどうなったのだろう。近所の人たちだって、ただでは済まなかっただろう。
看護師たちは曖昧なことしか言わなかった。あなたが助かったのは奇跡だと何度も言われれば、両親は死んでしまったのだと容易に想像がつく。
けれども、友人が一人として見舞いに来ないのはどうしたわけだろう。
そんなある日、光が差した。かすかな光であったが、それだけで涙が溢れた。喜んで看護師に報告する。しかし、悲しそうな声でそれはあり得ないと言われてしまった。希望が沈むのと一緒に、その日のうちに光を感じなくなった。失望したマリーヤは布団をかぶって寝た。服の内側、左肘に何か小さいものがあたる。不貞腐れてそのままにしていたが、寝返りを打つたびに気にかかる。マリーヤは身体を起こすと、腕をふるって手の中に落とした。質感と形状から、毎日飲んでいる錠剤だとわかった。どうやら一つ、飲み損なっていたらしい。ただそれだけのことだったが、ふと疑問がわく。
もしかして、この飲み薬のせいで目が見えないのではないか。すぐにそんなわけないと笑い飛ばそうとして、新たな疑念に顔をひきつらせた。
死んだことにされているのは、私の方なんじゃないのか……?
本当にここは病院なんだろうか。疑い出したらきりがなかった。最初は薬のことを確かめよう。少し時間を開けてから確かめたほうがいい。光が見えると言い出した直後である。相手が優しい声を出しながら、こちらを舐めるように監視していたとしても、マリーヤにはわからないのだ。
そうして目的を見出したマリーヤの感性はしだいに研ぎ澄まされいく。においで誰かわかるようになった。呼吸で本心に肉薄できるようになった。
そして、声が届くようになった。
『マリーヤ』
どきりとした。身体の中から響くような声だった。
『私はキリル。君は囚われているんだ。君には助かってもらいたい』
(どういうこと?)
『味覚を奪われて、君は気づいていないだろうが、野菜ばかりを食べさせられている』
(問題があるの?)
『味付けに潮が一切使われていないのだ。野菜だけでは満足な塩分を摂ることは叶わない』
(でも、塩を取らずに生きていけるわけがないわ)
『我々はそれでも生きていけるのだ。なぜなら、少しずつ身体を作り変えられているからだ。人ならざるものに』
マリーヤはキリルに知っていることをすべて伝授された。音を発して、コウモリのように周囲の形状を把握できるようになった。もはや薬を絶って目を開く必要もなくなっていた。
(早く脱出しなくちゃ)
それはなんの前触れもなく起こった。
あまりの眩しさに怖気がたった。マリーヤは視力を取り戻したのだ。医者たちは奇跡だと驚いた。
マリーヤは信じなかった。
料理に塩を入れていないと指摘すれば、君には感じられないだけだと、白い物質を持ってきてわざわざ料理にふりかける。ビーツを指して肉だと言う。はかったように見舞客がやってきて、友人のふりをして偽物が笑う。慢性化したのだと誤魔化して、骨髄炎を治そうとしない。
(キリル!)
マリーヤは目を閉じて呼びかけたが、キリルの声は聞こえない。大部屋に移されてから、以前のように能力が使えなくなっていた。
瞼を貫く光が、すべてをかき消していく。
マリーヤは呆然となった。すべて終わったのだ。すべて奪われてしまったのだ。ここから逃げ出したところで、マリーヤの求めるものはどこにもないのだ。
まるで現実感の伴わない食事をしながら、マリーヤは思った。
(そもそも私は、何を手にしていたのだろう……)
マリーヤはフォークを握りしめると、躊躇なく左目に突き立てた。周りが驚いている間に、右の眼球も貫く。
マリーヤは再び個室に戻された。
自分は脱出を果たしたのだと、マリーヤは喜んだ。
『まだだよ』
「パブロヴァさんーー」
キリルの言葉を阻むように、しきりに話しかけられる。どんなに頼んでもやめてくれなかった。
(それなら声なんかいらないわ)
あたりが騒がしくてたまらない。
(こんなことなら音を手放してしまおう)
だんだんと息が苦しくなってくる。
(呼吸も必要ないのよ)
喉に何かが入ってくる。腕を刺され、胸を圧迫される。
(痛みなんかなくていい)
すべて捨てられたと安心したマリーヤは、香油のにおいを感じた。
(まだ残っていたのね。これで全部)
神々しい光が見えてきた。
(私を迎え入れてくれるのね、キリル)
光に包まれる。
(そうよね?)
ねえ、とマリーヤは呼びかけた。
真っ暗だ。脇腹が痛い。右足がすごく痛い。マリーヤは戸惑いを覚えた。
「先生!」と呼ぶ声がして、走り去る音と、こちらへ向かう足音がある。
「パブロヴァさん。ここは病院です。あなたは自宅にいて、飛行機の墜落事故に巻き込まれたのです」
「足が痛い……」
「すぐに先生が来ます。大丈夫ですよ」
マリーヤは自分の顔を触った。右頬にガーゼ。頭には包帯。目には何も施されていない。そして、左手ばかりが顔に触れている。
(目が見えない……? 私の右腕はどこにいったの?)
「ああ、ああ!」
身体を震わせて、マリーヤは叫び出した。
失明していた。右腕は二の腕より先がない。右足を骨折し、骨髄炎を併発していた。
そして、味覚が消失していた。
目が見えない不自由さもあって、味のしない食事は苦痛でしかなかった。
ベッドの上からは容易に動けず、入院生活は退屈だった。
お父さんとお母さん、愛猫のクレーヴェルはどうなったのだろう。近所の人たちだって、ただでは済まなかっただろう。
看護師たちは曖昧なことしか言わなかった。あなたが助かったのは奇跡だと何度も言われれば、両親は死んでしまったのだと容易に想像がつく。
けれども、友人が一人として見舞いに来ないのはどうしたわけだろう。
そんなある日、光が差した。かすかな光であったが、それだけで涙が溢れた。喜んで看護師に報告する。しかし、悲しそうな声でそれはあり得ないと言われてしまった。希望が沈むのと一緒に、その日のうちに光を感じなくなった。失望したマリーヤは布団をかぶって寝た。服の内側、左肘に何か小さいものがあたる。不貞腐れてそのままにしていたが、寝返りを打つたびに気にかかる。マリーヤは身体を起こすと、腕をふるって手の中に落とした。質感と形状から、毎日飲んでいる錠剤だとわかった。どうやら一つ、飲み損なっていたらしい。ただそれだけのことだったが、ふと疑問がわく。
もしかして、この飲み薬のせいで目が見えないのではないか。すぐにそんなわけないと笑い飛ばそうとして、新たな疑念に顔をひきつらせた。
死んだことにされているのは、私の方なんじゃないのか……?
本当にここは病院なんだろうか。疑い出したらきりがなかった。最初は薬のことを確かめよう。少し時間を開けてから確かめたほうがいい。光が見えると言い出した直後である。相手が優しい声を出しながら、こちらを舐めるように監視していたとしても、マリーヤにはわからないのだ。
そうして目的を見出したマリーヤの感性はしだいに研ぎ澄まされいく。においで誰かわかるようになった。呼吸で本心に肉薄できるようになった。
そして、声が届くようになった。
『マリーヤ』
どきりとした。身体の中から響くような声だった。
『私はキリル。君は囚われているんだ。君には助かってもらいたい』
(どういうこと?)
『味覚を奪われて、君は気づいていないだろうが、野菜ばかりを食べさせられている』
(問題があるの?)
『味付けに潮が一切使われていないのだ。野菜だけでは満足な塩分を摂ることは叶わない』
(でも、塩を取らずに生きていけるわけがないわ)
『我々はそれでも生きていけるのだ。なぜなら、少しずつ身体を作り変えられているからだ。人ならざるものに』
マリーヤはキリルに知っていることをすべて伝授された。音を発して、コウモリのように周囲の形状を把握できるようになった。もはや薬を絶って目を開く必要もなくなっていた。
(早く脱出しなくちゃ)
それはなんの前触れもなく起こった。
あまりの眩しさに怖気がたった。マリーヤは視力を取り戻したのだ。医者たちは奇跡だと驚いた。
マリーヤは信じなかった。
料理に塩を入れていないと指摘すれば、君には感じられないだけだと、白い物質を持ってきてわざわざ料理にふりかける。ビーツを指して肉だと言う。はかったように見舞客がやってきて、友人のふりをして偽物が笑う。慢性化したのだと誤魔化して、骨髄炎を治そうとしない。
(キリル!)
マリーヤは目を閉じて呼びかけたが、キリルの声は聞こえない。大部屋に移されてから、以前のように能力が使えなくなっていた。
瞼を貫く光が、すべてをかき消していく。
マリーヤは呆然となった。すべて終わったのだ。すべて奪われてしまったのだ。ここから逃げ出したところで、マリーヤの求めるものはどこにもないのだ。
まるで現実感の伴わない食事をしながら、マリーヤは思った。
(そもそも私は、何を手にしていたのだろう……)
マリーヤはフォークを握りしめると、躊躇なく左目に突き立てた。周りが驚いている間に、右の眼球も貫く。
マリーヤは再び個室に戻された。
自分は脱出を果たしたのだと、マリーヤは喜んだ。
『まだだよ』
「パブロヴァさんーー」
キリルの言葉を阻むように、しきりに話しかけられる。どんなに頼んでもやめてくれなかった。
(それなら声なんかいらないわ)
あたりが騒がしくてたまらない。
(こんなことなら音を手放してしまおう)
だんだんと息が苦しくなってくる。
(呼吸も必要ないのよ)
喉に何かが入ってくる。腕を刺され、胸を圧迫される。
(痛みなんかなくていい)
すべて捨てられたと安心したマリーヤは、香油のにおいを感じた。
(まだ残っていたのね。これで全部)
神々しい光が見えてきた。
(私を迎え入れてくれるのね、キリル)
光に包まれる。
(そうよね?)
ねえ、とマリーヤは呼びかけた。