第3話 手形
文字数 1,328文字
「ですからね、塩を入れると凝固点がーー」
「それはわかります! だからどうして人間の身体でそんなことが起きるんですか!」
金切り声を上げるエリーの服を摘んで、ペックが諌めた。つままれた場所が、凍りつく。
ペックの座る椅子は、結露で濡れていた。
例えがまずかったかと後悔しながら、医者は言った。
「正直申しまして、わからないのですよ。現在、発症が確認されているのは五人。皆高温多湿の環境で、多量の塩分を必要とする労働に従事していただけが共通点なのです。どうして体温が下がり続けるのか、そしてなぜ、体温が氷点下に達してもなお活動ができるのかは不明なのです。体温が低い以外まったくの健康というーー」
「健康? これのどこが健康だっていうんですか!」
「この超低体温で人並みの運動ができることは奇跡に等しいのですよ……。とはいえ、難病に指定されておりますし、幸いにもこの患者数にしてはありえないほど研究も盛んです。保険に加入されているようなので、生活はーー」
「そんなことはどうだっていいんです!」
アイスマン病。
最初に確認された発症例は六年前。患者は今も健在だ。発症後、急激な体温低下に見舞われ、氷点下を過ぎたあたりで体温の低下速度は緩慢になるものの、それでも下がり続ける奇病である。
エリーは少しでも体温低下を遅らせようと、それまで住んでいたユタ州からフロリダ州へと二人で移住した。そこで特別仕様の住宅や生活用品が提供され、何不自由のない生活が始まった。ひっきりなしに研究者がやってきて、その度に生活は快適さを増した。国からの助成金や保険の給付金で十分に暮らしていけるばかりか、ひとたびショーに出演すれば、大金が舞い込んでくる。快活でハンサムなペックはすぐに人気者になった。
華々しい日々を過ごす夫。ペックが帰宅するとエリーは少しでも長く一緒にいようとした。あんまり長く隣にいると、エリーの肌は赤くなり、じきに黒くなって剥がれ落ちる。極寒でも柔軟な衣服はエリーの分も用意されているが、そんなもので全身を包むくらいなら、凍傷になった方がましだった。それでも、直接触れることができないほど、夫は冷たくなっていた。
キスすることは叶わず、満足に抱きしめることもできない。
なにより、そのことについて、ペックは心を痛めていなかった。
ペックが着替えを始めると、冷気が部屋中に溢れ出す。エリーはペックの肌けた胸に飛び込んだ。
「おい! 何をするんだ!」
「夫婦だもの! ああ! 感じるわ! あなたをーー」
みるみるエリーの熱は奪われた。霜が降ったかと思うと、凍りついてエリーの呼吸は止まった。
事故として処理された。
馴染みのバー。胸を大きく開けたシャツを着て、ペックは女に囁いた。
「アイスマンも、心だけは熱いだ」
女は恐る恐る左胸に触れた。すぐに笑顔を見せる。
「ほんとだわ!」
「素敵な女性の前ではね」
すっかり熱を上げた女と、ペックはすぐに婚約した。
独身最後の飲み会が開かれた。ペックは冷えたボトルを持って、友人のグラスに酒を注いで回った。
友人が笑いかけた。
「あんな美人と結婚するのに、触れないんじゃなあ」
「いや。アイスマン生活は気に入っているんだ。ただ、飽きた時のためにね」
「それはわかります! だからどうして人間の身体でそんなことが起きるんですか!」
金切り声を上げるエリーの服を摘んで、ペックが諌めた。つままれた場所が、凍りつく。
ペックの座る椅子は、結露で濡れていた。
例えがまずかったかと後悔しながら、医者は言った。
「正直申しまして、わからないのですよ。現在、発症が確認されているのは五人。皆高温多湿の環境で、多量の塩分を必要とする労働に従事していただけが共通点なのです。どうして体温が下がり続けるのか、そしてなぜ、体温が氷点下に達してもなお活動ができるのかは不明なのです。体温が低い以外まったくの健康というーー」
「健康? これのどこが健康だっていうんですか!」
「この超低体温で人並みの運動ができることは奇跡に等しいのですよ……。とはいえ、難病に指定されておりますし、幸いにもこの患者数にしてはありえないほど研究も盛んです。保険に加入されているようなので、生活はーー」
「そんなことはどうだっていいんです!」
アイスマン病。
最初に確認された発症例は六年前。患者は今も健在だ。発症後、急激な体温低下に見舞われ、氷点下を過ぎたあたりで体温の低下速度は緩慢になるものの、それでも下がり続ける奇病である。
エリーは少しでも体温低下を遅らせようと、それまで住んでいたユタ州からフロリダ州へと二人で移住した。そこで特別仕様の住宅や生活用品が提供され、何不自由のない生活が始まった。ひっきりなしに研究者がやってきて、その度に生活は快適さを増した。国からの助成金や保険の給付金で十分に暮らしていけるばかりか、ひとたびショーに出演すれば、大金が舞い込んでくる。快活でハンサムなペックはすぐに人気者になった。
華々しい日々を過ごす夫。ペックが帰宅するとエリーは少しでも長く一緒にいようとした。あんまり長く隣にいると、エリーの肌は赤くなり、じきに黒くなって剥がれ落ちる。極寒でも柔軟な衣服はエリーの分も用意されているが、そんなもので全身を包むくらいなら、凍傷になった方がましだった。それでも、直接触れることができないほど、夫は冷たくなっていた。
キスすることは叶わず、満足に抱きしめることもできない。
なにより、そのことについて、ペックは心を痛めていなかった。
ペックが着替えを始めると、冷気が部屋中に溢れ出す。エリーはペックの肌けた胸に飛び込んだ。
「おい! 何をするんだ!」
「夫婦だもの! ああ! 感じるわ! あなたをーー」
みるみるエリーの熱は奪われた。霜が降ったかと思うと、凍りついてエリーの呼吸は止まった。
事故として処理された。
馴染みのバー。胸を大きく開けたシャツを着て、ペックは女に囁いた。
「アイスマンも、心だけは熱いだ」
女は恐る恐る左胸に触れた。すぐに笑顔を見せる。
「ほんとだわ!」
「素敵な女性の前ではね」
すっかり熱を上げた女と、ペックはすぐに婚約した。
独身最後の飲み会が開かれた。ペックは冷えたボトルを持って、友人のグラスに酒を注いで回った。
友人が笑いかけた。
「あんな美人と結婚するのに、触れないんじゃなあ」
「いや。アイスマン生活は気に入っているんだ。ただ、飽きた時のためにね」