焼き肉のむら

文字数 3,000文字

 男はこの二日、暗い山の中をあてもなく彷徨っていた。
 もう、すでにここが何処なのか分からない。男は賊から逃げるために夢中で走ったのだ。都からの帰りの道中に知り合った連れが、どうなったのかは知らない。冷たいようだが、所詮は知らない者同士だ。二手に逃げれば、どちらかが助かる。そういう関係だった。
 男は賊が現れたとき、谷側を歩いていたのが良かった。男は山を下る茂みの中へ逃げ込んだ。連れの男は、自然と道を引き返す形で逃げていった。当然、賊は連れの男を追う。
 男は年に一度、都まで手作りの工芸品を売りに行く。普通の農民は冬の間や米作りの合間に作った蓑(みの)や笠、草鞋(わらじ)を近くの町へ売りに行って小銭を稼ぐが、男はそれに加えて手作りの小物入れなんかを作って売りに行く。男は手先が器用なので、木っ端で上等な品物を作る。上等な物が出来たら、近くの町ではなく大きな町まで行って、それらを売る。
 慣れない街道の山道で後先を考えずに茂みに入り、山を下ったのだから元の街道へ出る方法が分からなかった。それに加えて、初めて賊に襲われたことが、男の気を動転させた。息を切らせて立ち止まった時には、深い森の中だった。自分の足跡も判らないくらい枯葉の溜まった谷に男は立っていた。男は周りを見渡し、元の街道へ戻ることを諦めた。矢鱈と山を上っても街道へ出られるとは思えなかったのだ。
 幸いにも、今回の都行きは品物が高く売れたので、食料は多く持っていた。なので、野宿をしても、次の日の夕方には街道なり村なりが見つかると思っていた。食料が男を楽観的にしたのだ。
 それがどうだろう、丸二日歩いても狩人の通り道一つ見付けられなかった。深い森の中では、昼と夜の区別があっても日の出の時間や日没の時間を知らせるものは何も無かった。野宿の準備が遅れれば、あっという間に辺りは真っ暗になってしまう。
 この日は、歩くのを止めて野宿をすることにした。食料はまだ心配は無かったが、飲み水の方は危機的な状況だった。次の日は方針を変えて、街道よりも川を探すことにした。
 森に入ってからは、見通しの良いなだらかな場所を選んで下っていた。それでは山を下りきらないと川は見つからない。なので、急勾配の谷を下ることにした。怪我する危険は高くなるが、川は谷間にあるものだ。今や怪我を恐れるよりも水の問題が大きかった。
 その判断が功を奏したのか、男は崖になった開けた場所に出ることが出来た。三日目にして、男は日の光を浴びた。お日様の位置から、昼前だということが分かった。しかし、眼前には、濃い緑の山々と青い空しか見えなかった。男は、遠くても開けた平地が見られるものと思っていただけに、目の前の景色に少なからず落胆した。平地には当然、村がある。男はそれを期待していた。
 それでも耳を澄ますと、かすかに水の流れる音が聞こえた。男は崖から身を乗り出して足下を見ると、木々の間から水の流れを見ることが出来た。男は左右を見渡して、下へ降りられそうな場所を探した。男の右手の森なら下へ降りられそうだった。男は少しほっとして、落ち着くことが出来た。すると、眼前の山間に一筋の白い煙が立ち上るのが見えた。それが何の煙かは判らないが、人が居ることは確かだった。男には距離感が分からなかったが、今日には無理でも明日には煙の下へ行けそうだった。
 今日のところは、川まで降りることを目標にした。煙のところまで行くには、方角を見失うわけにはいかない。日の向きを確かめ、目印になるものを探してから下ることにした。
 男は川を目指して歩きながら考えた。あの煙の下には、どんな人が居るのだろう。先日、出会った賊のねぐらの可能性もある。でも、こんな山奥なのだから樵(きこり)や炭焼きが使う小屋があるのかもしれない。野鍛冶や山窩(さんか)の者も山奥で暮らす。どんな人が暮らしていても、男が歓迎されるとは思えなかった。宿が借りられなくても最寄りの村なり街道までの道を聞けるだけで、男は助かると思った。
 男が川に着いたときには、全身泥まみれだった。崖を下るよりは楽だといっても、急勾配なのには変わりない。男は二度ほど死ぬかと思った。山中の川は、川幅は狭いが澄んだ水が勢いよく流れていた。男は、川の緩く曲がる場所にある小さな河原に荷物を降ろした。そして、衣服を脱ぐと川に入り、全身の泥と汗を流した。そして、泥だらけの衣類を川で洗った。
 男は、河原と森の境目辺りで火を起こした。そこには、座るに丁度良い大きな石があったのだ。濡れた衣服を身に着けて火に当たれば、すぐに乾くだろう。日はまだ高かったが、この日はここで野宿することに決めた。賊に出会ってから始めて、男は落ち着いた気がした。明日になれば、人の居る場所まで行ける。そのことも男の気を楽にした。
 男は豊富な水で粥を作って食べた。久しぶりに食べる温かい飯だった。
 昨日、崖の上で目印にした木々は、谷へ降りても直ぐに見付けられた。後は昨日、見付けた煙の下へ向かうだけだった。
 道のりは幾らか起伏があったが、男の足取りは軽かった。森の中では、相変わらず時間の感覚は無かった。それでも歩き続けると、丘の上に建物が見えた。木々と藪でそれが何かは、分からなかった。何にしろ、丘を越えれば目的地だろう。
 男が丘を上ったとき、建物が何かはっきりした。それは神社の社だった。男は裏手から神社へ上ってきたのだ。男が社の表へ回ると、小さな社だったが綺麗に掃き清められていた。神社の様子から集落が近くにあることが確定した。男は社に一礼すると、鳥居の方へ向かった。鳥居から森を抜けられる。
 男は鳥居の前に立ったとき、自然と目を細めた。薄暗い森の中から出たばかりで、目が慣れていなかった。男がゆっくりと目を開くと、眼下に小さな村があった。十数軒の家が点在して、一見して豊かな村なのが分かった。集落の一段高い場所に神社は建っていた。男はその村を見渡して観察した。
 村の家々はどれも大きなものだった。男の住む村の庄屋の家より少し小さな家が、十数軒建っている。そして、どの家にも大きな牛小屋があるのが特徴的だった。村の向こうには、山を切り開いた牧草地になっている。
 森の深い緑と牧草の明るい黄緑が、目に優しかった。そして、立派な家々から立ち上る白い煙が印象的で、男はその景色を切り取って心に刻みたくなった。
 男は高台の鳥居の前で、暫く立ち尽くした。すると、男の腹が空腹でぐるぐると鳴り出した。家々から立ち上る白い煙が、何とも言えず良い匂いなのだ。
 その匂いは男が嗅いだことのない匂いにも関わらず、男の食欲をどう仕様もなく刺激した。
 男は村人に帰り道を訊くよりも先に、食べ物を分けてもらおうと思った。



 僕は帰宅するために車を運転していた。
 いつもの時間、いつもの道で、いつもの様に信号につかまる。
 住宅街を通る街道は、代わり映えのしない景色だ。住宅と住宅の間にスーパーだったり、コンビニだったり、ドラグストアだったりが点在する。
 ここの信号につかまると、嫌でも目に入るものがある。
 建物の壁から突き出ている看板。夜間、明かりが入るようにプラスチックでできた看板。赤いバックに黒字で店名が掛かれた看板。

「焼肉のむら」

いつもの様に停止している車の中で、いつもの様に僕の頭の中で広がるストーリー。
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