パートナー

文字数 2,120文字

 その男は、他人からどう見られているのかを理解していた。
 自分は特徴の無いただの老人である。昔、清水の舞台から飛び降りるつもりで買った上等な茶色の背広に同じ色のハンチング帽は洒落たつもりだったが、久しぶりの繁華な街には同じ様な姿の老人が何人もいた。
 彼はこの繁華な街に最後に来たのはいつだったかを考えてみたが、思い出せなかった。   
 彼の人生に華やかな街は、縁が無かった。
 彼は高校を卒業して十八で大手自動車メーカーの下請け工場に就職して、定年まで勤め上げた。二十四の時に父親の勧めで結婚して、男子を二人授かった。彼の人生は順風満帆なものではなかったが、ありふれた困難を他の人と同じように全力で乗り切ってきた。だから、大学まで出してやった長男が最初の就職で挫折し職を転々として、いまだに同居していることも普通のことと割り切ることにしている。そして、五十近い長男の結婚相手を探しに繁華な街まで代理のお見合いに来ていることも甘んじて受け入れている。
 長男の行く末を想うと、十年前に妻を亡くしたことが悔やまれてならない。
 彼の妻は、取り立てて華のある女性ではなかった。出会った時から無口な女だった。だからと言って、共に笑い、共に泣くことが無かったわけではない。実直な彼と同じように堅実な女性だった。共に互いの役割を知り、良好な家庭を築いた。勿論、喧嘩もしたが、傍から見れば仲の良い夫婦だっただろう。実際、彼は彼女との生活を幸せなものだったと思っている。
 今、彼女が生きていたなら、息子の結婚相手は彼女が何とかしてくれただろう。彼は男女の間柄のことを苦手としていた。恋愛という軽薄な言葉を彼は嫌っていたが、彼の息子が思春期の頃はそんなものが世間に溢れていた。長男も学生の頃は、惚れた腫れたで大騒ぎをしていたのを覚えている。流行り歌は恋を歌い、愛を語り続けていた。テレビも映画もそんな物ばかりだったが今の息子を見ていると、あのいかれた時代は何だったのかと考える時がある。
 彼が恋をしたのは一度きりだった。彼が三十代の頃、同僚と通ったスナックの女だ。ユキと名乗るフィリピンの女性で、綺麗な顔でスタイルの抜群な女だった。彼女とお酒を飲んで彼女の目を見て話すだけで、彼は満足だった。彼は、妻を裏切る気は微塵もなかったのだ。
 彼が愛を知ったのは、彼が定年を迎えてからだった。それまでも共感し共に喜ぶことは多く有ったが、妻を愛おしいと思うようになったのは多くの時間を共有するようになってからだった。そして、妻との時間を大切にしたいと思うようになった頃に彼女は逝ってしまった。
 彼はそのことで自分を軽薄な男だとは考えなかった。無条件の愛とは、血の繋がりのある者に与えた。いや、自分が好むと好まざると、そうするしかなかった。肉親とは、そういうものだと思っている。しかし、妻への愛情は違う。赤の他人と長い年月の間、共同生活をして共感をして、こつこつと育てるものだと思うようになった。彼は愛のことを知らないが、自分と妻の人間関係は掛け替えの無いものと信じていた。逆に愛を口にする者を彼は軽薄だと考えた。彼の次男夫婦はそんな軽薄な夫婦だが、彼には次男たちの夫婦生活が長続きしてくれたなら問題はなかった。そんな考えは、彼の生き方なだけなのだ。
 長男の代理お見合いは彼が想像した通り、上手くいかなかった。息子のことも相手のお嬢さん(そう言えるようになるのに時間が掛かった)のことも品物程度にしか考えていないことが、相手に透いて見えたのだろう。実際、彼には、本人ではない者が選り好みする理由が解らなかった。
 彼の中では、お互いがお互いを尊重すれば知らない者同士でも夫婦生活は続くものなのだ。仕事のチームと変わりはなかった。そう、妻とは仕事の同僚や親兄弟よりも長くチームを組んでいたことが尊かった。だから妻が愛おしいのだ、彼は思った。
 近所の知り合いにそそのかされて代理お見合いに参加したが、彼はこんな茶番は二度と御免だと思った。長男は長男で好きにすれば良い。今は、彼と長男がチームなのだから互いに上手くやれるはずだ。息子とのチームは会社のチームと同じだ。結婚すれば出てゆく。彼はそう思うことにした。
 その途端、彼の足は軽くなった。彼が繁華な街にやってきたのには、もう一つ理由があった。こちらは、代理お見合いのようにいかれてはなかった。彼にとっては、至極当然なことだ。
 こちらも近所のお喋りに勧められたものだった。それは、年寄りの為のマッチングアプリである。老後をのんびりと過ごすためのパートナーを探すための現代のお見合い。
 親同士の決め事で結婚した彼には、とても公平なお見合いであると思えた。
 彼はこの後、そこで出会った女性と初めて会うことになっている。その女性は彼と同じで、お見合いで結婚した亭主を亡くした人だった。
 人生を一人で生きてゆくのは困難だと、彼はこの十年で知った。その気持ちを共感してくれるパートナーは、現代では簡単に見つかる。
 いや、いつの時代でもどんな年齢でもパートナーは簡単に見つかる、愛だの恋だのの言葉に惑わされなければ。
 彼はそうして生きてきたのだ。
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