歌姫

文字数 4,463文字

 人類はどれだけ先のことを予測できるようになるのだろうか?
 例えば、天気予報はどうだろう。今の技術でも十分だと思うが、より正確な情報を欲しがる者がいる。そんな人は、前日の天気予報よりも早く雨が降っただけで怒りだしたりする。彼らは、未来予測がどんなものか解っているのだろうか?
 より多くの情報を基に天気を予測する。しかし、その情報は一秒で古い情報になる。集めた情報が古ければ古いほど、予測の精度が落ちるのは当然である。
 それともう一つ、集めた情報そのものが少なければ、予測が大きく外れることだったある。

 渡辺美咲が十月一日に世界の歌姫としてデビューした。
 毎年、四月一日にその年の歌姫が世界歌姫協会によって発表される。日本人歌姫は七年ぶり二人目の快挙として、日本中で大騒ぎになった。七年前に日本人歌姫が誕生した時は、この先、十年は日本人が選ばれることは無いと言われていた。なので、その衝撃は大きかった。
 世界歌姫協会は、全てが謎に包まれた組織だった。何処で歌姫となる金の卵を見付けてくるのか。どのようにして、その才能を育てているのか。全く無名の女性を歌姫として世に送り出し、世界中を魅了し続けているのが、世界歌姫協会だった。彼女たちの歌声は、文字通り全人類を虜にした。最初の数年は、世界歌姫協会と歌姫の情報を探る者が多くいたが、今ではそんな野暮ったいことをする者はいない。何故なら、彼女たちの歌声を聴けば、全てが些細なことに思えるからだ。私は五年前に南アフリカの歌姫が来日した時に彼女のステージを観に行くことが出来た。大きなホールの後ろの方の席で、彼女の姿が豆粒にしか見えなかった。それでも、彼女のパワフルな歌声は、会場の空気を震わせ、その振動は私の耳を撫で、脳を刺激した。勿論、それはスピーカーを通した歌声なのは百も承知だ。それでも気が付くと、私の両目は涙に濡れていた。大げさな話ではなく、その場にいた全ての人が、彼女の歌声に涙を流していた。
 それは人種や文化、宗教の区別なく人類に共通した感動であり、喜びであった。そんな人類の宝に無粋な詮索を許す者は、この人類にはほんの僅かしかいない。いや、宝ではない。歌姫は、神に近い存在だった。新しい神の啓示を羊たちは、素直に待ち続けているのだ。
 歌姫が歌う歌は、基本的に母国の歌を母国語で歌う。近年、全盛のサンプリングされた音声で作るコンピューターミュージックを歌姫が歌うことは無い。昔の流行歌や童謡など、母国では知らない者はいない歌が選ばれることが多かった。私が聴いた南アフリカの歌姫の歌も、全ての曲が歌詞の内容も理解できない初めて聴く曲だった。それでも、皆が歌姫の歌声を渇望するのだ。

 渡辺美咲のデビューの発表があった次の日から日本中がパニック状態になった。誰も日本人歌姫の誕生を予想していなかったのだ。テレビをはじめとする放送メディアは、一年先までの予定が全て白紙になった。日本経済の暴騰は、株式や日本の音楽業界だけではなく、全ての業種に及び始めていた。そして世間では、ネットを中心に渡辺美咲が何を歌うかに話題が集中した。
 毎年のことだが、五月には世界歌姫協会から渡辺美咲の簡単なプロフィールと数枚の写真が公表された。渡辺美咲の容姿は、お世辞にも可愛らしくは無かった。でも、そんなことは、誰も気にはしなかった。世間が求めているものは、飽くまでも彼女の歌声なのだ。それよりも話題になったのは、彼女の年齢だった。渡辺美咲が今年二十五歳であることに世界が驚いた。近年の歌姫の低年齢化は仕方の無いことではあるが、欧米を始めとしてそれを危ぶむ声が増えてきていた。去年のフィリピンの歌姫が十三歳だったので、渡辺美咲は一回りも年上である。これは世界中が歓迎した。歌姫の歌が上手くても下手でも、子どもに歌える曲には限界があった。これは歌姫の問題ではなく、聴く側の問題である。色っぽい曲では艶のある歌声でないと、聴く側は情緒を感じない。渡辺美咲はその年齢で、爆発的に世界中から期待された。
 世界歌姫協会は月に一度だけ、情報を更新する。毎年、四月は新しい歌姫の名前と国籍、五月はプロフィールと写真、六月はコンサート予定である。とは言え、本公演の場所と日時は毎年決まっているので、発表されるのは追加公演である。当然、母国での追加公演が一番多いので、その日を目指して海外の客が押し寄せる。温暖化の影響で近年では、航空便の数が制限されていて海外旅行自体が難しくなっているが、追加公演なら比較的にチケットが入手し易いので海外の客が集まる。しかし、歌姫の歌手生命は平均的に半年なので、追加公演の後半は開催が未定なことが多い。それほどに歌姫は過酷なスケジュールをこなしているのだった。
 七月にはコンサートで歌われる九十曲が発表される。実際のコンサートでは、十月に発売されるオリジナル曲十曲をプラスされて、百曲の中から二十曲くらいが歌われることになる。世界歌姫協会の発表される情報の中では、新しい歌姫の発表がある四月の次に盛り上がるのが、七月の楽曲発表である。世界各国で、この楽曲予想が賭けの対象になっているのだ。日本でもこの時だけは、公の予想くじが行われる。色々ある賭けの中でも一番人気なのが、世界歌姫協会公式の九十曲の楽曲予想である。その的中率で景品が違う。私が奇跡的に当てることの出来たのが六十曲の的中で、景品は本公演の指定席だった。
 私は発表のあった日のことを一生忘れないだろう。三十曲的中の辺りから手が震え、四十曲が的中した時には涙で目が見えなくなっていた。残りは友人たちに手伝ってもらうことになった。本公演のチケットが当たったことを確信した時には、私は嬉しさのあまり大声で叫んでいた。私は友人が制止するのを無視して、喉が裂けるほど叫び続けた。その結果、文字通り私の喉は裂けた。私は血を吐きながら救急車で運ばれたのだった。私は一週間の入院の後も、一か月の間、声を発することが出来なかった。今でも以前の声量の半分程度しか声が出ない。この先、どれくらい回復するか分らないが、私には後悔は無かった。私にとっては、それくらいの代償に値する奇跡だった。

 流石に協会公式の懸賞である。本公演の指定席は、最前のVIPエリアのすぐ後ろの一段高くなったエリアの最前列だった。ある意味、ステージ全体が見渡せる良い席である。ステージの幕が開くまでの間、背中に感じる観客の圧力が凄い。今や歌姫の存在の意味は、五年前とは比べ物にならなかった。観客の数もそうだが、コンピューターの発達が目まぐるしい。多くの事柄がコンピューターを通したデジタルのものに置き換わった今、生の歌声の価値は高い。(嗚呼、生という言葉の響きの良さよ)例えば、社会活動をしている時間の殆どで耳に入れているイヤホン。手元のモバイルコンピューターと連動して、同時翻訳をしてくれる。しかも、高性能なAIによって、目の前の相手本人の声に近い音声の日本語で訳してくれる。今の世の中は一事が万事、人間味のあるデジタルに置き換わっている。なので、人込みに揉まれ、観賞する歌姫のコンサートには意味があった。
 開演のベルの音で、私は耳に入れているイヤホンを取る。場内の喧噪も生の方が、迫力がある。幕の上がったステージに大昔の宇宙服の様な姿の渡辺美咲が現れると、歓声が上がる。大きなヘルメットの前面がステージのライトの光の反射で、渡辺美咲の顔は見えなかった。渡辺美咲がステージの真ん中に立つと、観客は静まった。静寂の中で、渡辺美咲はヘルメットとボディースーツを繋ぐロックを外す。そして、ダンサーに手伝ってもらってボディースーツを脱ぐ。最後にヘルメットを取ると、渡辺美咲は髪型を整え、衣装の乱れを直した。その様子を見つめる私は、呼吸を忘れた。会場中が固唾を呑んで、渡辺美咲の一挙手一投足を見守る。
 ヘルメットとボディースーツが片付けられる間、渡辺美咲は会場を見廻した。そして、両手を広げて大きく息を吸い込んだ。その様子を見ていた会場の女性が、悲鳴に近いうめき声を上げる。そんなうめき声は、そこら中から起こった。胸いっぱいに空気を吸い込んだ渡辺美咲は、ゆっくりと息を吐く。その呼気に合わせるように歓声が上がった。そして満場の拍手。その様子を黙って、満足そうに見ている渡辺美咲は、真に歌姫だった。歌姫の意図を察した会場は、拍手を止めて静かになる。
 そして、歌姫が挨拶をした。私はその美しい声に全身の毛が立つのを感じた。会場中が同じだった。すでに感動の涙を流す者もある。会場のざわめきの中、バンドが最初の曲の前奏を始める。こうして、夢のような時間が始まったのだった。

 コンサートが終わり、会場を後にする時、私は宙に浮いたように上の空だった。人混みの喧噪も雑音にしか聞こえなかった。私がふらふらと雑踏を歩いていると、向こうからやってきた中年の日本人男性の肩とぶつかった。男は私を睨んで言った。
 「ががごぼがげ」
 私はイヤホンを付けていないことに気が付いた。私は男に謝ると、急いでイヤホンを付けた。すると、雑踏の雑音が喧噪に変わった。

 その昔、今の様な未来を誰が予測しただろう?
 温暖化の予測は、八十年代から社会に発信されてきた。しかし、それは限られた情報から予測されるものであり、精度は低かった。いや、変化が始まれば加速度的に変わるのが、この自然の常である。学者がその予測の修正に追われることは、仕方の無いことだった。
 そして、温暖化の内容の予測である。極端な気候変動、南極や北極の氷の消失、台風の巨大化、止まない森林火災、豪雨災害に干ばつ、砂漠の拡大。予測において、センセーショナルなものから検証されることも仕方の無いことと言える。
 極端な気候の変化は、少しずつ形あるものを壊し、削っていった。それらは長い時間を掛けて小さく小さくなり、宙を舞い、大気に充満した。その極小の粒子は、自然落下に数年を要し、雨で浄化するのも限りがあった。それ以上に風の生まれる場所で、常に巻き上げられているのだ。
 最初は風邪に似た、のどの痛みだった。それが全世界に広がり、のどの痛みが発声に影響するようになるまでは、あっという間だった。すでに大気を満たした粒子を減らすことは、現代の科学では叶わぬことである。我々の社会に出来ることは、発声に寄らないコミュニケーションの確立だけだった。
 そして声音を失った世界で生まれたのが、歌姫だ。歌姫は産まれる前から特別なのだ。大気を満たしている粒子を除去して、清浄な空気を部屋に満たし続けるには、莫大なコストが掛かった。そうやって育てられる子供は、世界中に何人もいない。彼女たちのプライバシーを守ることは、彼女たちの唯一の人権を守ることに等しい。そうして生まれた歌姫は、粒子の充満した世界で歌い続けて、半年で声を失う。

 人類はそんな未来を予測できるようになるのだろうか?

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