深町美帆ーふかまち みほー
文字数 7,332文字
しとしとしとしと。
外はずっと雨が降っている。
古本市も二日目。雨が降って開店休業状態になった午後、私は売れ残っている本をまとめ、売り場を整理していた。
「あの、美古都さんはいらっしゃいますでしょうか」
かけられた声に顔をあげると、他校の制服が目に入った。
「えっと…」
「あぁ、ごめんなさい。俺、仙台三高二年の峰岸って言います」
「はぁ…」改めて見てみる。大人しくて真面目な感じだ。でも、目が泳いでいて定まっていない。
「えっと、どう言ったらいいのか…、美古都さんにここにいるって言われたんですけど…」
しどろもどろなのは本当のように見える。
だけど、ここは安全第一に行こう。
「あんまり言いたくありませんが、もしここに『美古都』って言う生徒がいたとしても、教えることはできません。あなたが何者か分からないし、会ってなにをするつもりなのかも分からないですから。ですから、申し訳ありませんが、お引き取りください」
「そうですね。その通りです。…では、もし、美古都さんがここに来たら伝言をお願いできますか?」
それくらいなら、まあいいか。
「分かりました」
私は会計のところに行き、メモ用紙を一枚取り、胸のポケットから万年筆を抜いて一緒に渡す。
「じゃあ、この紙に書いておいてください。もしも会えたら、お渡ししておきます」
「ありがとうございます。そこの机借りてもいいですか?」
頷くと机に座って時折考えながら万年筆を走らせていた。やがて立ち上がり、
「万年筆ありがとうございます。よろしくお願いします」そう言って万年筆と紙を返された
私はちょっと感心した。ちゃんと向きまで直して渡してきたから。
―◆―
さて、どうしようかな。時計を見ると十五時になろうとしていた。演劇はもう少しで終わるくらいだ
しかたないか…
胸のポケットから折りたたまれた紙を取り出す。透けて見える文字は丁寧に書かれている。
一緒に整理をしていた一年生に声をかける
「ちょっと外すけど、いい?」
頷いたのを確認して廊下に出た。思ったより人が残ってる。
今年から後夜祭が一般開放された影響だろうかと思いながら、体育館に向かう。
―◆―
まだ幕が降りた直後らしく出入する観客でざわついている。私は用意されている観客席に腰かけた。
幕がゆらゆらと揺れて、ガタガタと大きな音が聞こえる。舞台上では片づけが始まってるみたいだった。
観客の退場とともにざわつき引き、雨の音が大きくなる。
舞台の脇の扉から演劇部の部員たちが衣装のまま大道具を運び出していく。
上は演劇関係者用のTシャツ、下はジャージ姿の美古都が現れ、観客席にいる私に駆け寄ってきた。
「あ、美帆さん。見ててくれたんですか?」
「ううん。いま来たところ。無事に終わったみたいだね?」
「はい、特に失敗もなく、無事に」
「良かった」
「ありがとうございます。図書の方はどうですか?」
「ほとんど人も来なくなってるから、片付けを始めてる」
「この雨じゃあ、仕方ないですね」
美古都は天井を見上げた。 体育館の屋根を打つ雨の音が響く。
「良いんですか?」
「一年生に頼んできたから」
「はるかさんは?」
「お昼に交代したから、今は放送部の方にいると想う」
「…」美古都が視線を逸らし、何かに迷っているようだった。
「どうしたの?」
「いえ、何でもなければいいんですけど…」
「なにかあったの?」
「暗がりだから自信ないんですけど…武尊先輩がいたんです」
「気になるの?」
「はい。すごく思いつめたような顔をしてて…そこだけ雰囲気が違っていました」
「武尊先輩…?」
「なんなんでしょう?」
美古都が心配そうに聞いてくる。
「気にはなるけど…それよりも、はい」
私は胸のポケットから預かった手紙を差し出した。
「あたしにですか?」
「仙台三高の峰岸さんって人から」
「えっ!」
美古都が明らかに動揺した。手紙を受け取り、開く。
「ほんとだ…」つぶやくのが聞こえた。
「深町さん来てたんですか?」
機材を持って出て来た朱里が声をかける。
「美古都に用があって」
「美古都?」
「朱里っ!どどどどどどど、どうしようっ」
「わーっ、なになになになに?」
「どどどどどどどどどど、どうしよう。まさか来ちゃうなんて」
「来ちゃうって…あ!もしかして峰岸さん?」
美古都がうなずく。
「えーっ、だって来られないって」
「ううん。本当は返事が来なかっただけ。だから、来られないんだろうって…」
「で、なんて書いてあるの?」
「えっと…終わる時間に門の前で待ってるって」
「終わる時間って言っても…深町さん、何時でしたっけ」
朱里が体育館の時計を見ながら聞いてくる。
「後夜祭が十八時から一時間だから、十九時かな」
「美古都、今から校内探してみなよ。もしかしたら逢えるかも知れないし」
「良いの?」
「良いよ。この後の放送室待機はわたし一人でもできるし」
「でも…悪いよ」
「良いから行って来なって。久しぶりなんでしょ」
「うん。」頷いてから、美古都は想いを振り払うように頭を振った。
「ダメ…ダメだよ。仕事はしなきゃ。朱里ありがとう。でもこれは仕事だから、しっかりやる」
「…そっか。じゃあ、これ以上は言わない。とりあえず、残りの機材を運んじゃお」
「朱里はここにいて。後はCDだけでしょ? 私が取ってくる」
美古都が舞台脇の扉に走りだす。その背中を見送りながら朱里が言った。
「峰岸さんは美古都の好きな人なんです。本人は否定してますけど」
私は頷いた。
「美古都が中学三年生の時、県の写真展にあった写真が気に入って、どうしても欲しくって思い切ってその高校に手紙を書いたんだそうです。そしたら、撮った本人から手紙と共に写真が送られて来た。それが峰岸さんで美古都がわざわざ電車通学してまで家から遠い東陵に入ったのって、峰岸さんのなるべく近い学校に通うためだからなんです。前にこっそり教えてくれました」
「東陵は共通校だから…」
朱里はうなずく。
「でも、去年仙台に」
「そうなんだ…」
「深町さん、お願いがあるんですけど、訊いてもらえますか?」
「できる事なら」
朱里は運んできた機材の上に置いてあるジャージの上着を差し出した。
「これをどうするの?」
「それ、美古都のなんです。峰岸さんを探しだして、それを渡して欲しいんです」
「それで?」
「私は頃合いを見計らって、美古都にジャージを体育館に取りに行かせますから、そこで峰岸さんに逢えるようにして欲しいんです」
「ということは、私は峰岸さんを見つけて、これを渡して『美古都が体育館で探してた』って伝ればいいのかな?」
「お願いできますか?」
「そうね…でも、見つかるとは限らないから…どっちにしても二時間後には、ステージの上に置いておくことにした方がいいかな。それまでには片付けも落ち着だろうし」
「じゃあ、二時間後に美古都を体育館に向かわせます。ありがとうございます」
「うまくいくことを祈ろう」
「はい」
―◆―
降っていた雨はさっき上がったらしい。周りを包む冴えた空気も、ザワつきを完全には消せない。
そろそろ始まる。
やっと終わる。
わくわくするような、終わって欲しくないような、落ち着かないそんな感じ。
何人かの友達に後夜祭に誘われたけれど、図書委員会の片づけがあるからと断っていた。
自分が何かをやって楽しむことより、周りの人たちが楽しそうに笑っている顔を見ている方が好きだった。
そんなわけで、私はグラウンド側にある非常階段の最上階から見下ろしている。グラウンドは闇に沈んで、いくつかの防犯灯がぼんやりと生徒が集まっている姿を浮かびあげる。
はるかさんは…恐らくいないんだろうな。
ちらりと校舎を見ると生徒指導室から光が漏れていた。
それにしても、と想い出してクスリと笑った。あの人の行動はいつだってむちゃくちゃだ。
今から一時間位前、突然スピーカーからフィ…ンと軽いハウリングの音が響いたかと想うと…次の瞬間「くぉのばかちんがぁっ」と叫ぶ声が全校に響いた。
運良く校内のベンチでジュースを飲んでいた峰岸さんを見つけ、ジャージを託した後、戻った古本市会場で片付けをしていた私は一体何事?とびっくりし、手が止まってしまった。
さっきの声って、もしかしてはるかさんっ? そんな私の動揺を無視して声は続いた
「三年七組のばか武尊っ。どこにいる、出て来いっ。今すぐ出てこい!出てきてさっさと駅に行けっ!女の子ほっといて何やってるっ!あんたのために、あんたのために、女の子がひとり泣いてるんだ…泣いて、るんだよ?ひとり。そう、ひとりだけ。あんたひとりのために。あんただけのために。涙はっ…涙は。そんなに安くない…」 息切れする音が響き、
後ろから美古都の心配そうな「だいじょうぶですか…?」
「はるかさん…泣いてる…?」朱里のつぶやきが聞こえた。
「泣いてなんか……泣いてなんか…」
息を吸い込む音。
「泣いてなんかね。ないっ!」ドンっ!と鈍い音が響き、
「武尊。さっさと出て来い!出てきて男を見せてみろーっ!」最後の方はハウリングでかすれて聞こえなかった。
後ろの方で争う音がして、ドアが勢い良く開く音と「ばかやろう」と叫ぶ声と嬌声がした。朱莉先生の声もあったように想う。
そして、はるかさんの何を言っているのかわからない叫び声がプツッと途切れた。
私は一緒に片付けをしていた一年生に後の事を頼んでから、放送室に急いだ。
放送室の前には人だかりが出来ていて、御坂先生が「とにかく戻れ!」と叫んでいた。
隣の職員室から校長先生と教頭先生がそそくさと出てきて、その後を怒りの表情で香山先生、顔面蒼白の朱莉先生が続き、最後に頭の後ろを掻きながらめんどくさそうに月夜野先生が出てきた。
「月夜野先生」と声をかけると
「ん、ああ、深町か。片付けの方は順調か」
「はい、あともう少しで終わります」
「そうか。まあ、明後日の午前は片付けになってるから、無理すんな」
「ありがとうございます。それで…」
「心配か?」
「はい…やっぱりはるかさんですよね」
「ん、まーそうだな」
「どうなるんですか?」
「あんまり心配しなさんな。悪いようにはなんねーよ。謹慎一週間ってとこだろ」
「一週間も…」
「深町が気にすることじゃねーよ。これは草壁の問題だ。あいつが考え、判断し、行動した結果なんだろ。それが方法としてあってたか、そこまで深く考えてのことだったのかは分からんが」
「…」
「とにかく、話を聞いてみないことには始まらないからなぁ」
―◆―
グラウンドの四隅に設置されたライトが灯った。輪になって座っている生徒達が浮かび上がり、一斉に歓声が上がった。照明塔を使わないのは雰囲気作りのための配慮だろう。
だけど、母から聞いた後夜祭の様子を思い出す。ちょっとだけ見てみたかったかも。
文化祭で使ったものを燃やす炎を。
集まっている輪に目を凝らす。ゆかりは、かなと一緒だ。ゆき…は誰かを探してるのかな?ああ、まどか、上手くいったんだね。おめでとう。みんな楽しそう。 隣のコと楽しそうに話しながら胸をなでおろす仕草をしているのは、はるかさんお気に入りの朱里。美古都は…うまくいくといいな。さっき解放された美古都が体育館に向かって雨の中を駆けていくのを見た。
東堂先生が皆の輪から離れたところにいる。朱莉先生はクラスの男子にからかわれているみたいだ。
「ここにいたんだ」
突然かけられた声に驚いて振り向くとはるかさんがいた。
「はるかさん…」
はるかさんがゆっくりと私の側に来て、手すりにもたれかかった。
「いいね、ここ」
「そうですね」
私も同じようにグラウンドに視線を落とす。
「雨、止んだんだね」
「さっきですよ、たぶん」
「なんで?」
「まだ、葉っぱに雫が残ってますから」
「なるほど」
「それに空気が湿っていて、澄んでいます」
「ねぇ…美帆は雨って好き?」
「…はい」
「理由、聞いてもいい?」
私はにっこりと笑う。
「世の中をすべて洗い流してくれるような気がします。空気中の埃、葉についた土埃なんかが流されて鮮やかになるような、本当の世界を教えてくれるような気がして。だから、好きです」
はるかさんはふふふと笑った。
「あたしも、好き。世界が雨の音だけになって、世界からあたしだけが切り離されたみたいになって。ああ、ここにはあたししかいないんだって。淋しくて、怖くなるんだけど。でも、やむと、今度は優しくて、やわらかくなっていく。いままで見ていた世界ってこんなだったかなって。世界が塗り変わるような。すべてが本当の姿になって鮮やかに輝くような、そんな感じがすき」
少し遠くを眺める横顔があった。こうやって見ると本当に綺麗な顔をしている。形の良い額、くるっとした瞳と長い睫毛、すうっと通った鼻筋、憂いを感じさせる唇、柔らかなあごのライン。
「…謹慎七日だって」
「ええ」
「あれ? 美帆ならもっと驚くかと想ってたんだけど」
「月夜野先生から聞きました」
「月ちゃん? 何で?」
「あのあとすぐに放送室に行って、そこで会いました」
「ふぅん」はるかさんが意地悪そうな目で私の顔を覗き込む。
「なんですか?」
ふふと笑って「なんでもー」と言った。
「なんなんですか、教えてください」
「教えなーい」
もう、この人は…
「そういえば美古都と朱里知ってる?先に解放されたはずなんだけど」
「朱里なら、あそこに」
「ああ、いた。美古都は…」
「さっきから見てないです。でも…」私はふふと笑った。
「なに?」
「いえ、別に」
「隠し事かー? 言えっ!」
はるかさんが脇の下をくすぐってきた。
「わかりました、わかりました、言いますって」
「で?」
「さっき、古本市の片付けをしていた時、美古都を訪ねてきた人がいたんです」
「男の子?」
「ちょっとカッコよかったです。仙台三高って言ってましたよ」
「え、仙台から来たの?」
「みたいです。預かった手紙を美古都に届けたら、目を丸くしてました」
「そっか。だけどさ、美古都と朱里のおかげで、助かったよ。あたしは別に良いって想ったんだけど、あの二人がガンとして『新しいドラマの練習中にたまたまスイッチが入っただけだ』って譲らなかったから、結局そういうことになった。でも香山が処分するって主張したから、処分を自由登校になる二月にすることで決着。香山の真っ赤な顔と朱莉先生の白い顔が対照的だった」
そう言ってクククッと楽しそうに笑った。
「それに、ひとつだけ分かったことがある」
「というと?」
はるかさんは真剣な顔をして指を一本ピッと立てて
「生徒指導室に鉄格子はない」
「…」
「みんな楽しそう」 ポツリとはるかさんがつぶやく。
私もグラウンドに視線を移した
「あ…」
見つけた人影に声を出し、すぐに口をつぐんだ。照れくさそうに座る男子の隣に他校の制服を着た女の子がちょこんと座っていた。
「なになに?面白いもの見つけた?」
「いえ、なんでもないです」
「美帆が言いかけるなんて何かある。えっと…さっき見てたのはこっちだよね…」
私はドキドキしながら両目を閉じた。
お願い、見つけないで… 組んだ両手にぎゅぅっと力が入る
「…ありがと。美帆のそーいうところ、だいすきだよ」
柔らかな声に目を開けると俯くはるかさんがいた。流れ落ちる髪の間からわずかに何か光るものがあった。
気のせい。これは私の見間違い… 下から聞こえる歓声を聞きながら、少なくとも、そう想おうとしていた。
―◆― …季節は流れる。
「はぁ…」これで何度目かと想うため息が聞こえた。
「どうしたんですか?」
「どうしたもないよ。見てよ、この量」
そう言ってテーブルの上にある原稿用紙の束をパラパラとめくる。ほとんどが白紙だ。
私は数学の宿題から目を離さず、
「あそこまでやれば、仕方がないですね。推薦に影響が出なかっただけでも良かったと想わないと」
「まぁ、そうなんだけど」
はるかさんは少し不満そうな顔をして、持っていたボールペンを原稿用紙の上に放り出すと後ろに倒れこんだ。伸ばした癖のない髪がぼさっと広がる。
もうすぐ春だなぁ…
穏やかな午後だ。
はるかさんは三日前から、謹慎期間に入っている。
でも、なぜ自由登校になった学校に毎日来ることが「謹慎」なのかは良く分からない。これは「謹慎」じゃないような…
それでも、律儀に毎日「登校」し、あてがわれた合宿所の二階の茶室で一日十枚の反省文を書く「謹慎」をしている。
最初は結構なペースで書いていたけれど、だんだん遅くなっている。
はるかさんが寝返りを打つ音が聞こえた。
少し膝が痛いな…膝を少し動かして座る位置を直す。
「ねぇ、美帆」
「無理です」
「まだ、なにも言ってないよ」
「無理です」
「だから、何も」
「無理です」
「黒ってオ・ト・ナ」
「……」
「無理です」
しばらくするとはるかさんはあきらめたように体を起こした。にやにやしている。
たぶん私の顔や耳は真っ赤なのだろう。
開け放たれた窓から、後ろにある弓道場の掛け声が聞こえ、冷たさが少し残る風と梅の香りがゆっくりと入ってくる。
ごまかすように顔をあげ、
「それにしても…いい香りですね」
外はずっと雨が降っている。
古本市も二日目。雨が降って開店休業状態になった午後、私は売れ残っている本をまとめ、売り場を整理していた。
「あの、美古都さんはいらっしゃいますでしょうか」
かけられた声に顔をあげると、他校の制服が目に入った。
「えっと…」
「あぁ、ごめんなさい。俺、仙台三高二年の峰岸って言います」
「はぁ…」改めて見てみる。大人しくて真面目な感じだ。でも、目が泳いでいて定まっていない。
「えっと、どう言ったらいいのか…、美古都さんにここにいるって言われたんですけど…」
しどろもどろなのは本当のように見える。
だけど、ここは安全第一に行こう。
「あんまり言いたくありませんが、もしここに『美古都』って言う生徒がいたとしても、教えることはできません。あなたが何者か分からないし、会ってなにをするつもりなのかも分からないですから。ですから、申し訳ありませんが、お引き取りください」
「そうですね。その通りです。…では、もし、美古都さんがここに来たら伝言をお願いできますか?」
それくらいなら、まあいいか。
「分かりました」
私は会計のところに行き、メモ用紙を一枚取り、胸のポケットから万年筆を抜いて一緒に渡す。
「じゃあ、この紙に書いておいてください。もしも会えたら、お渡ししておきます」
「ありがとうございます。そこの机借りてもいいですか?」
頷くと机に座って時折考えながら万年筆を走らせていた。やがて立ち上がり、
「万年筆ありがとうございます。よろしくお願いします」そう言って万年筆と紙を返された
私はちょっと感心した。ちゃんと向きまで直して渡してきたから。
―◆―
さて、どうしようかな。時計を見ると十五時になろうとしていた。演劇はもう少しで終わるくらいだ
しかたないか…
胸のポケットから折りたたまれた紙を取り出す。透けて見える文字は丁寧に書かれている。
一緒に整理をしていた一年生に声をかける
「ちょっと外すけど、いい?」
頷いたのを確認して廊下に出た。思ったより人が残ってる。
今年から後夜祭が一般開放された影響だろうかと思いながら、体育館に向かう。
―◆―
まだ幕が降りた直後らしく出入する観客でざわついている。私は用意されている観客席に腰かけた。
幕がゆらゆらと揺れて、ガタガタと大きな音が聞こえる。舞台上では片づけが始まってるみたいだった。
観客の退場とともにざわつき引き、雨の音が大きくなる。
舞台の脇の扉から演劇部の部員たちが衣装のまま大道具を運び出していく。
上は演劇関係者用のTシャツ、下はジャージ姿の美古都が現れ、観客席にいる私に駆け寄ってきた。
「あ、美帆さん。見ててくれたんですか?」
「ううん。いま来たところ。無事に終わったみたいだね?」
「はい、特に失敗もなく、無事に」
「良かった」
「ありがとうございます。図書の方はどうですか?」
「ほとんど人も来なくなってるから、片付けを始めてる」
「この雨じゃあ、仕方ないですね」
美古都は天井を見上げた。 体育館の屋根を打つ雨の音が響く。
「良いんですか?」
「一年生に頼んできたから」
「はるかさんは?」
「お昼に交代したから、今は放送部の方にいると想う」
「…」美古都が視線を逸らし、何かに迷っているようだった。
「どうしたの?」
「いえ、何でもなければいいんですけど…」
「なにかあったの?」
「暗がりだから自信ないんですけど…武尊先輩がいたんです」
「気になるの?」
「はい。すごく思いつめたような顔をしてて…そこだけ雰囲気が違っていました」
「武尊先輩…?」
「なんなんでしょう?」
美古都が心配そうに聞いてくる。
「気にはなるけど…それよりも、はい」
私は胸のポケットから預かった手紙を差し出した。
「あたしにですか?」
「仙台三高の峰岸さんって人から」
「えっ!」
美古都が明らかに動揺した。手紙を受け取り、開く。
「ほんとだ…」つぶやくのが聞こえた。
「深町さん来てたんですか?」
機材を持って出て来た朱里が声をかける。
「美古都に用があって」
「美古都?」
「朱里っ!どどどどどどど、どうしようっ」
「わーっ、なになになになに?」
「どどどどどどどどどど、どうしよう。まさか来ちゃうなんて」
「来ちゃうって…あ!もしかして峰岸さん?」
美古都がうなずく。
「えーっ、だって来られないって」
「ううん。本当は返事が来なかっただけ。だから、来られないんだろうって…」
「で、なんて書いてあるの?」
「えっと…終わる時間に門の前で待ってるって」
「終わる時間って言っても…深町さん、何時でしたっけ」
朱里が体育館の時計を見ながら聞いてくる。
「後夜祭が十八時から一時間だから、十九時かな」
「美古都、今から校内探してみなよ。もしかしたら逢えるかも知れないし」
「良いの?」
「良いよ。この後の放送室待機はわたし一人でもできるし」
「でも…悪いよ」
「良いから行って来なって。久しぶりなんでしょ」
「うん。」頷いてから、美古都は想いを振り払うように頭を振った。
「ダメ…ダメだよ。仕事はしなきゃ。朱里ありがとう。でもこれは仕事だから、しっかりやる」
「…そっか。じゃあ、これ以上は言わない。とりあえず、残りの機材を運んじゃお」
「朱里はここにいて。後はCDだけでしょ? 私が取ってくる」
美古都が舞台脇の扉に走りだす。その背中を見送りながら朱里が言った。
「峰岸さんは美古都の好きな人なんです。本人は否定してますけど」
私は頷いた。
「美古都が中学三年生の時、県の写真展にあった写真が気に入って、どうしても欲しくって思い切ってその高校に手紙を書いたんだそうです。そしたら、撮った本人から手紙と共に写真が送られて来た。それが峰岸さんで美古都がわざわざ電車通学してまで家から遠い東陵に入ったのって、峰岸さんのなるべく近い学校に通うためだからなんです。前にこっそり教えてくれました」
「東陵は共通校だから…」
朱里はうなずく。
「でも、去年仙台に」
「そうなんだ…」
「深町さん、お願いがあるんですけど、訊いてもらえますか?」
「できる事なら」
朱里は運んできた機材の上に置いてあるジャージの上着を差し出した。
「これをどうするの?」
「それ、美古都のなんです。峰岸さんを探しだして、それを渡して欲しいんです」
「それで?」
「私は頃合いを見計らって、美古都にジャージを体育館に取りに行かせますから、そこで峰岸さんに逢えるようにして欲しいんです」
「ということは、私は峰岸さんを見つけて、これを渡して『美古都が体育館で探してた』って伝ればいいのかな?」
「お願いできますか?」
「そうね…でも、見つかるとは限らないから…どっちにしても二時間後には、ステージの上に置いておくことにした方がいいかな。それまでには片付けも落ち着だろうし」
「じゃあ、二時間後に美古都を体育館に向かわせます。ありがとうございます」
「うまくいくことを祈ろう」
「はい」
―◆―
降っていた雨はさっき上がったらしい。周りを包む冴えた空気も、ザワつきを完全には消せない。
そろそろ始まる。
やっと終わる。
わくわくするような、終わって欲しくないような、落ち着かないそんな感じ。
何人かの友達に後夜祭に誘われたけれど、図書委員会の片づけがあるからと断っていた。
自分が何かをやって楽しむことより、周りの人たちが楽しそうに笑っている顔を見ている方が好きだった。
そんなわけで、私はグラウンド側にある非常階段の最上階から見下ろしている。グラウンドは闇に沈んで、いくつかの防犯灯がぼんやりと生徒が集まっている姿を浮かびあげる。
はるかさんは…恐らくいないんだろうな。
ちらりと校舎を見ると生徒指導室から光が漏れていた。
それにしても、と想い出してクスリと笑った。あの人の行動はいつだってむちゃくちゃだ。
今から一時間位前、突然スピーカーからフィ…ンと軽いハウリングの音が響いたかと想うと…次の瞬間「くぉのばかちんがぁっ」と叫ぶ声が全校に響いた。
運良く校内のベンチでジュースを飲んでいた峰岸さんを見つけ、ジャージを託した後、戻った古本市会場で片付けをしていた私は一体何事?とびっくりし、手が止まってしまった。
さっきの声って、もしかしてはるかさんっ? そんな私の動揺を無視して声は続いた
「三年七組のばか武尊っ。どこにいる、出て来いっ。今すぐ出てこい!出てきてさっさと駅に行けっ!女の子ほっといて何やってるっ!あんたのために、あんたのために、女の子がひとり泣いてるんだ…泣いて、るんだよ?ひとり。そう、ひとりだけ。あんたひとりのために。あんただけのために。涙はっ…涙は。そんなに安くない…」 息切れする音が響き、
後ろから美古都の心配そうな「だいじょうぶですか…?」
「はるかさん…泣いてる…?」朱里のつぶやきが聞こえた。
「泣いてなんか……泣いてなんか…」
息を吸い込む音。
「泣いてなんかね。ないっ!」ドンっ!と鈍い音が響き、
「武尊。さっさと出て来い!出てきて男を見せてみろーっ!」最後の方はハウリングでかすれて聞こえなかった。
後ろの方で争う音がして、ドアが勢い良く開く音と「ばかやろう」と叫ぶ声と嬌声がした。朱莉先生の声もあったように想う。
そして、はるかさんの何を言っているのかわからない叫び声がプツッと途切れた。
私は一緒に片付けをしていた一年生に後の事を頼んでから、放送室に急いだ。
放送室の前には人だかりが出来ていて、御坂先生が「とにかく戻れ!」と叫んでいた。
隣の職員室から校長先生と教頭先生がそそくさと出てきて、その後を怒りの表情で香山先生、顔面蒼白の朱莉先生が続き、最後に頭の後ろを掻きながらめんどくさそうに月夜野先生が出てきた。
「月夜野先生」と声をかけると
「ん、ああ、深町か。片付けの方は順調か」
「はい、あともう少しで終わります」
「そうか。まあ、明後日の午前は片付けになってるから、無理すんな」
「ありがとうございます。それで…」
「心配か?」
「はい…やっぱりはるかさんですよね」
「ん、まーそうだな」
「どうなるんですか?」
「あんまり心配しなさんな。悪いようにはなんねーよ。謹慎一週間ってとこだろ」
「一週間も…」
「深町が気にすることじゃねーよ。これは草壁の問題だ。あいつが考え、判断し、行動した結果なんだろ。それが方法としてあってたか、そこまで深く考えてのことだったのかは分からんが」
「…」
「とにかく、話を聞いてみないことには始まらないからなぁ」
―◆―
グラウンドの四隅に設置されたライトが灯った。輪になって座っている生徒達が浮かび上がり、一斉に歓声が上がった。照明塔を使わないのは雰囲気作りのための配慮だろう。
だけど、母から聞いた後夜祭の様子を思い出す。ちょっとだけ見てみたかったかも。
文化祭で使ったものを燃やす炎を。
集まっている輪に目を凝らす。ゆかりは、かなと一緒だ。ゆき…は誰かを探してるのかな?ああ、まどか、上手くいったんだね。おめでとう。みんな楽しそう。 隣のコと楽しそうに話しながら胸をなでおろす仕草をしているのは、はるかさんお気に入りの朱里。美古都は…うまくいくといいな。さっき解放された美古都が体育館に向かって雨の中を駆けていくのを見た。
東堂先生が皆の輪から離れたところにいる。朱莉先生はクラスの男子にからかわれているみたいだ。
「ここにいたんだ」
突然かけられた声に驚いて振り向くとはるかさんがいた。
「はるかさん…」
はるかさんがゆっくりと私の側に来て、手すりにもたれかかった。
「いいね、ここ」
「そうですね」
私も同じようにグラウンドに視線を落とす。
「雨、止んだんだね」
「さっきですよ、たぶん」
「なんで?」
「まだ、葉っぱに雫が残ってますから」
「なるほど」
「それに空気が湿っていて、澄んでいます」
「ねぇ…美帆は雨って好き?」
「…はい」
「理由、聞いてもいい?」
私はにっこりと笑う。
「世の中をすべて洗い流してくれるような気がします。空気中の埃、葉についた土埃なんかが流されて鮮やかになるような、本当の世界を教えてくれるような気がして。だから、好きです」
はるかさんはふふふと笑った。
「あたしも、好き。世界が雨の音だけになって、世界からあたしだけが切り離されたみたいになって。ああ、ここにはあたししかいないんだって。淋しくて、怖くなるんだけど。でも、やむと、今度は優しくて、やわらかくなっていく。いままで見ていた世界ってこんなだったかなって。世界が塗り変わるような。すべてが本当の姿になって鮮やかに輝くような、そんな感じがすき」
少し遠くを眺める横顔があった。こうやって見ると本当に綺麗な顔をしている。形の良い額、くるっとした瞳と長い睫毛、すうっと通った鼻筋、憂いを感じさせる唇、柔らかなあごのライン。
「…謹慎七日だって」
「ええ」
「あれ? 美帆ならもっと驚くかと想ってたんだけど」
「月夜野先生から聞きました」
「月ちゃん? 何で?」
「あのあとすぐに放送室に行って、そこで会いました」
「ふぅん」はるかさんが意地悪そうな目で私の顔を覗き込む。
「なんですか?」
ふふと笑って「なんでもー」と言った。
「なんなんですか、教えてください」
「教えなーい」
もう、この人は…
「そういえば美古都と朱里知ってる?先に解放されたはずなんだけど」
「朱里なら、あそこに」
「ああ、いた。美古都は…」
「さっきから見てないです。でも…」私はふふと笑った。
「なに?」
「いえ、別に」
「隠し事かー? 言えっ!」
はるかさんが脇の下をくすぐってきた。
「わかりました、わかりました、言いますって」
「で?」
「さっき、古本市の片付けをしていた時、美古都を訪ねてきた人がいたんです」
「男の子?」
「ちょっとカッコよかったです。仙台三高って言ってましたよ」
「え、仙台から来たの?」
「みたいです。預かった手紙を美古都に届けたら、目を丸くしてました」
「そっか。だけどさ、美古都と朱里のおかげで、助かったよ。あたしは別に良いって想ったんだけど、あの二人がガンとして『新しいドラマの練習中にたまたまスイッチが入っただけだ』って譲らなかったから、結局そういうことになった。でも香山が処分するって主張したから、処分を自由登校になる二月にすることで決着。香山の真っ赤な顔と朱莉先生の白い顔が対照的だった」
そう言ってクククッと楽しそうに笑った。
「それに、ひとつだけ分かったことがある」
「というと?」
はるかさんは真剣な顔をして指を一本ピッと立てて
「生徒指導室に鉄格子はない」
「…」
「みんな楽しそう」 ポツリとはるかさんがつぶやく。
私もグラウンドに視線を移した
「あ…」
見つけた人影に声を出し、すぐに口をつぐんだ。照れくさそうに座る男子の隣に他校の制服を着た女の子がちょこんと座っていた。
「なになに?面白いもの見つけた?」
「いえ、なんでもないです」
「美帆が言いかけるなんて何かある。えっと…さっき見てたのはこっちだよね…」
私はドキドキしながら両目を閉じた。
お願い、見つけないで… 組んだ両手にぎゅぅっと力が入る
「…ありがと。美帆のそーいうところ、だいすきだよ」
柔らかな声に目を開けると俯くはるかさんがいた。流れ落ちる髪の間からわずかに何か光るものがあった。
気のせい。これは私の見間違い… 下から聞こえる歓声を聞きながら、少なくとも、そう想おうとしていた。
―◆― …季節は流れる。
「はぁ…」これで何度目かと想うため息が聞こえた。
「どうしたんですか?」
「どうしたもないよ。見てよ、この量」
そう言ってテーブルの上にある原稿用紙の束をパラパラとめくる。ほとんどが白紙だ。
私は数学の宿題から目を離さず、
「あそこまでやれば、仕方がないですね。推薦に影響が出なかっただけでも良かったと想わないと」
「まぁ、そうなんだけど」
はるかさんは少し不満そうな顔をして、持っていたボールペンを原稿用紙の上に放り出すと後ろに倒れこんだ。伸ばした癖のない髪がぼさっと広がる。
もうすぐ春だなぁ…
穏やかな午後だ。
はるかさんは三日前から、謹慎期間に入っている。
でも、なぜ自由登校になった学校に毎日来ることが「謹慎」なのかは良く分からない。これは「謹慎」じゃないような…
それでも、律儀に毎日「登校」し、あてがわれた合宿所の二階の茶室で一日十枚の反省文を書く「謹慎」をしている。
最初は結構なペースで書いていたけれど、だんだん遅くなっている。
はるかさんが寝返りを打つ音が聞こえた。
少し膝が痛いな…膝を少し動かして座る位置を直す。
「ねぇ、美帆」
「無理です」
「まだ、なにも言ってないよ」
「無理です」
「だから、何も」
「無理です」
「黒ってオ・ト・ナ」
「……」
「無理です」
しばらくするとはるかさんはあきらめたように体を起こした。にやにやしている。
たぶん私の顔や耳は真っ赤なのだろう。
開け放たれた窓から、後ろにある弓道場の掛け声が聞こえ、冷たさが少し残る風と梅の香りがゆっくりと入ってくる。
ごまかすように顔をあげ、
「それにしても…いい香りですね」